第2話 血の契約①
私が自分のことを僕と言い出して、ヒダカの側にいるようになってもう六年。
私は首相の隠し子で、有名劇団のスターだった母の隠し子でもあった。母が亡くなり、父のところへ引き取られたのが六歳の頃。そこから四年間は、一般的な庶子からすれば恵まれた生活をさせてもらった。義母はすでに他界していて、異母兄妹との仲もそれなりにうまくいった。妹たちはまだ小さかったし、次期首相と言われている兄は優秀だったので、劇団で芸事を叩きこまれていた以外は大して秀でたもののない私を驚異だと思わなかったからかもしれない。
ところで、この国は名目上では共和制だ。当然だけど世襲制じゃない。では何故兄が次期首相だと言われているのかと言うと、私の一族が国の権力と財力を牛耳っているからだ。長い年月をかけて、ジワジワと中枢に入り込んでいったらしい。詳しいことは知らない。教えてもらえなかった。
だって私は十歳から自由がなくなったから。
父が亡くなったのだ。あっという間だった。気付いたら父のサポートに徹していたはずの一族の人間が全てを乗っ取った。最低限の食事だけを与えられるだけの生活で、質問なんて受け付けてもらえるはずがない。
大きなお屋敷の隅っこに追いやられて、部屋にあるのは小さなベッドと数冊の本だけ。ただただ質素な食事と一日一本のロウソクと薄暗い空間だけを与えられる毎日。
兄は勉強だけを、妹たちはマナーだけを叩き込まれているらしいとは、使用人のお喋りから知ったことだ。妹たちは小さかったからか、それなりに楽しく過ごしているらしい。少し安心した。
兄は従順な操り人形として、妹たちは便利な婚姻道具として使い道があると考えているらしい。じゃあ、私はどうかって? 完全に持て余されていた。母親が誰かも分からない庶子に正妻としての貰い手など期待できず、勉強も人並み。母譲りの顔はいいけど、できるのは歌や舞や演劇だけ。なまじ一族当主筋の子供であるという証の、珍しいアッシュシルバーの髪色のせいで、下手なところに愛人に出すわけにもいかない。
ついでに言うと、そのお陰で逃げてもすぐに見つかってしまう。変身の魔法は私にはまだ難しくて扱えない。八方塞がりだ。
「いっそ死んでくれればいいのに」
「よほど貧乏人の子供なんでしょう。病気一つしない。卑しいこと」
フサロアス家の親族は、直接私に言葉をかけることなんてない。これは優しかったはずの使用人たちが私に言う言葉だ。
最初は同情してくれていた彼女たちは段々言葉を荒くしていった。さすがにショックで泣きそうな顔をしたりもした。でも、彼女たちは元に戻ってくれることはなかった。
「やだ、泣くのかしら?」
「泣けばいいんじゃない? 何も変わらないけど」
「どうして? なんでそんなことを言うの?」
私の疑問に彼女たちは最初、気まずい顔をする。でも段々と目を合わせてくれなくなって、その目から色が失われていく。表情は淡々としてものに変わって、嫌な笑顔を浮かべ始めるのに時間はかからなかった。
「よく見ると不細工じゃない?」
「まだいたの?」
「邪魔」
「役立たず」
「いらないわよね」
「死んだら?」
「死んでほしいわ」
「死んで」
そんな言葉が日常になると、言われることに慣れてしまう。人って不思議だ。それが当然だと思い始めてしまう。私はまだ恵まれている。一日三度のご飯と安全な場所がある。そう信じることでしか生きて行けなくなってしまう。
そんなときだった。突然兄と会うことを許された。約二年ぶりだった。元は少しだけ距離のある兄妹だったけど、部屋で二人きりになった途端に両手を握り合ってしまった。その時になって初めて自分がとても心細いと感じていたことに気付いた。
「にい、さん……!」
決まった時間に開かれる扉の向こうに、いつもはいないはずの顔があったときの感動は忘れられない。ヨロヨロと歩いて兄に近寄る。私はまともにお風呂にも入っていなくて、窓の無い部屋はきっとものすごく臭かったけど、兄は私の手を取ってくれた。
「メルシル、元気にしてたか?」
「兄さん! 兄さん! 兄さん……。兄さん、元気だった? 少し痩せた……?」
「僕は大丈夫。なんとかやっているよ。次期首相として顔を出し過ぎていたからね、あいつらもそう簡単にどうこうはできない。ありがとう。メルシル、お前は……」
そこで兄は言葉を切って顔を歪めた。開け放たれた扉から入り込む廊下の明かりが目尻を光らせる。それだけで満足だった。それだけで心が満たされた。私のことを案じてくれる人がいることがこんなに嬉しいなんて知らなかった。綺麗な白い手を握っているのが申し訳なくて、手をそっと離す。身を引いて下から兄を見つめた。
「メルシル、大変だったね。寂しかったよね。生きていてくれてありがとう」
兄は距離を詰めて、また強く手を握ってくれた。その手が温かくて、嬉しくて、嬉しくて仕方ない。
「私こそ、ありがとう……」
その再会から、少しずつ私は兄に会える頻度が増え、とうとうある日、部屋の外に出ることを許された。妙に他人行儀な使用人たちが「邸内ならご自由に」と無機質な声で許可を出してきたのだ。
人はいきなり思いもしなかった幸福を手に入れると思考が止まるらしい。
「ぇ……?」
小さく呟くと、丁度手にしていた本を取り落とした。目の前には大きく開かれた扉。どんなに叩いても、引いても魔法をかけられてこちらから開けることはできなかった。使用人たちが来るときには、毎回ちゃんと護衛が付いてきていたし、扉もすぐに閉められてしまっていた。落ちた本を拾って、丁寧にベッドの上に乗せる。使用人を見て、次に護衛を見た。どちらもこちらのことなど気にも留めていないように視線を合わせない。いたずらや新手のいじめではないようだ。それならこちらの反応を見逃さないようにジッと見てくるはず。
一歩、二歩、三歩と恐る恐る前に進んで、扉の前で一度立ち止まった。ドキドキと心臓が煩い。もう一度二人を見たけどやはり何も言わないし、動こうともしない。その場から私は走って廊下へ出た。斜め前に窓があった。今日は快晴だったらしい。床を切り取るように白い光が差し込んでいる。約二年ぶりの日の光だった。
「あ……あ……」
せっかく出られたのに、私は何をしているんだろう。窓を眺めて目を潤ませている場合ではない。分かっているのに自由になれたことが嬉しくて、足がそれ以上進まなくなってしまった。
「外出許可は一時間です」
ハッとした。普段なら気付くような使用人の気配にすら驚いてしまった。咄嗟にやりたいことと、やらなければいけないことを考えた。
「兄さんは今どこに? 外出許可はまた出る?」
「外出中にございます。存じ上げません」
「そう……。それもそうだよね」
ならば行くべき場所は決まっている。書斎だ。下手をしたらまた二年あの部屋に押し込まれてしまうかもしれない。その間にできることを準備しておきたい。
私はわき目もふらずに書斎で本を漁った。大量の本を使用人と護衛にも持たせて一度部屋に戻る。それを三回繰り返して、今度は家中から毛糸と編み棒をかき集めようとしたときだった。
「メルシル、少し話がある。来てくれないか?」
声をかけてきたのは、表面上は私たちを引き取った義父だった。
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