第5話 天然

◇ ◇ ◇


 純の家から歩いて十五分ほどの距離にある公園に辿り着いた俺たちの前には、花見を楽しむ人々の姿があった。

 のんびりと花見を楽しむというよりは、酒やつまみを片手に無礼講といった様相の団体が多い。


 乱痴気騒らんちきさわぎとまではいかないが、長閑のどかな雰囲気で桜を楽しみたい人には不向きな環境だ。


「来る時間を間違えたな……」


 目の前の光景にうんざりした俺は無意識にそう呟いていた。


「時間帯的にどんどん酒飲みが増えていくからね……」


 純も俺と同じ気持ちだったのか、僅かに顔をしかめて嫌そうにしている。


「まあ、でも、仕方ないか……」


 汗水垂らして働いた後の大人たちが花見という名の宴会を楽しんでいるのだ。

 春休み中の俺が文句など言えるわけがない。


「昼間に来たほうが良かったね」

「そうだな……」


 日中なら静かに桜を見ることができたかもしれない。

 もしかしたら昼間から宴会をしている団体もいたかもしれないが、少なくとも今よりはのんびりと過ごせる環境だったはずだ。


「別の場所に行くか――」


 純のほうに顔を向けてそう言いかけた時――スーツ姿の男がふらふらと覚束おぼつかない足取りで後方から近付いてくるのが視界の隅に映った。


 スーツ姿の男が歩く直線上には純がいる。

 しかし、彼女は正面を向いているから全く気づいていない。


 酔っぱらっている男は進行方向に俺たちがいることに気づいているのか、いないのかわからないが、覚束おぼつかない足取りの奴が避けるのを期待するのは無駄だろう。


 故に、俺は繋いでいた手を離して純の腰に腕を回す。

 そして俺のほうへ優しく抱き寄せる。


「――あ、ありがとう」


 突然のことに驚いたのか純は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに自分のいた場所を通りすぎていく男の存在に気がついて状況を察し、平静を取り戻した。


「危ないからさっさと移動しよう」

「そうだね。これだから人混みは好きじゃない」


 地面に座って宴会をしている人が多いので、歩く隙間がないほど混み入っているわけではない。

 だが、宴会の雰囲気にてられて気が緩んだり、酒で酔っぱらって気が大きくなったりする者もいる。中には前後不覚になるほど酒を飲んでいる人もいるかもしれない。


 さっきは事なきを得たから良かったが、もし大人の男性とぶつかるようなことがあったら怪我をしてしまう恐れがある。

 小柄の男性よりも背が高い純でも、男とぶつかるとさすがに当たり負けてしまう。


 なので、リスク回避のためにもさっさとこの場を退散したほうがいいだろう。


「まあ、どこも同じような感じだと思うけどね……」

「どこか穴場でもあればいいんだが、俺はこの辺のことに詳しくないからな……」


 溜息交じり呟く純に、俺は不甲斐なくもそう答えることしかできなかった。


「それは仕方ないでしょ。ゆうはこの辺の人じゃないんだから」


 俺と純の家を行き来するには電車で一時間以上かかる。

 なので、彼女の家の周辺に関して俺はあまり詳しくない。


 純は高校卒業後に一人暮らしを始めた。

 それまでは当時中学生の俺と高校生の彼女が出会えるくらいだから、生活圏はそれほど離れていなかった。


 だが、彼女が引っ越したので離れてしまったのだ。

 だから今は昔より彼女と会う回数が減っている。


「とは言っても、私もあまり詳しくないんだけどね……。バイトとバンドで忙しくて散策できてないから……」


 親とほぼ絶縁状態の純は当然援助をしてもらっていない。

 生活費もバンド活動に必要な予算も全て自分で賄っている。


 生活費だけでも大変なのに、スタジオ代、チケットノルマ、楽器の維持費などバンド活動にはとにかく金がかかるので、バイトに明け暮れる日々になってしまい、遊んだり息抜きに散歩をしたりする暇がないのだ。


「時間ができたらゆうと過ごすことが多いから尚更ね……」


 お互いに都合が合えばだが、彼女は暇な時間ができたらいつも俺を呼んでくれる。

 もちろん、彼女のほうから俺のもとに来てくれることもある。


 いずれにしろ、オフの日は俺と過ごすのが彼女のルーティンになっているのだ。

 それが彼女にとっては息抜きになっているらしい。


 息抜きをする純と、気晴らしをする俺はそうやって相互利用し合ってきた。

 利用し合う関係だが、俺たちの間には確固たる友情がある。


 だからこそ今も良好な関係を続けられている。


「ならちょうどいい機会だし、穴場を探すついでに散策してみるか」

「元々散歩するつもりだったし、いいんじゃない?」


 腕に抱かれている純が俺の顔を見上げながらそう答える。


「ここも桜は綺麗だけど、もっと静かに過ごせるところのほうがいいし」


 腕に抱いているから必然的に距離が近くなっているので、鼻筋が通っていて細面でありながら蠱惑的こわくてきでもある精巧な彼女の美貌が眼前にあり、自然と視線が吸い寄せられてしまう。


 見慣れているはずなのに、我を忘れてしまいそうになるほどの美しい顔に目が離せなくなる。


 そのせいでじっと見つめ合う形になってしまった。


「……なに?」


 まじまじと見つめられることになってしまった純が怪訝そうに首を傾げる。


「そんなにまじまじと見つめられるとさすがに照れるんだけど……」

「……悪い。あまりの美しさについ見惚れてしまった」


 喧騒の只中ただなかとはいえ、夕焼けに照らされている桜並木の幻想的な光景も相まって、ただでさえ美しい顔がより一層、魅力的になっている。


 男だったら誰だって見惚れてしまうであろう美しさに抗って、視線を逸らすことなどできやしなかった。


「……そういうことを舞さんや彼女さんにも言ってんの?」


 呆れ交じりにそう呟く純の冷ややかな目が俺に突き刺さる。


「そう思ったら素直に言ってるな」

「ほかの女の子には?」

「もちろん、思ったら言う」

「……あまり勘違いさせるようなことは気軽に言わないほうがいいよ」

「そんなつもりはなかったんだが……」

「……天然ジゴロほどたちが悪い人はいないと思う」


 忠告はありがたいが、俺って天然ジゴロなのだろうか……?

 俺はそんなに女性をたらし込めるような男ではないと思うのだが……。


 何人もセフレがいる時点で説得力がないかもしれないが、それはお互いに割り切った関係だと理解した上での付き合いだから、恋愛感情とかは一切介在していない。――もちろん、有坂は例外だが。


「それにさっきも言ったけど、女性を簡単に褒めるのは程々にしないと信憑性が薄れるよ」


 子供に言い聞かせるような口調で諭す純の顔は呆れ返っている。――クールで表情の変化が乏しい彼女にしては珍しくはっきりと顔に出ているくらいだ。


「いや、ただ単に俺の率直な感想にすぎず、褒めてるつもりは全くなかった……」

「……確かに褒めるというよりは感想を口にしたって感じだったけど、どう解釈するかは受け手側の問題だから、相手によっては天然の餌食えじきになってるところだよ」

「一理あるが、相手がどう受け取るかをいちいち気にしてたらなにも言えなくなってしまうんだが……」


 もちろん、不快にさせてしまうかもしれない発言には気をつけている。

 だが、悪口でもない言葉を発するのに相手がどう解釈するかを気にしていたら気疲れしてしまう。


 なにより、下心があって言っているわけではない。

 本当に純粋に思ったことを口にしているだけだ。


「良い悪いじゃなくて、自覚がないまま女の子をもてあそんでいた、なんてことになりかねないよって話」

「知らないうちに傷つけてたら申し訳ないな……」

「でしょ? 最悪、勘違いから発生した修羅場の末に刺されてしまう可能性だってあるよ? これは極論だけど」


 身の毛もよだつような恐ろしいことを口にする純だが、口調には案じるような優しさがある。


「……気をつけよう」

「うん。そうしたほうがいいよ。ただでさえあんたは顔がいいんだから、その気になる女も多いだろうしね」


 勘違いしない関係値を築いている人にしか言わないように、今後はなるべく気をつけよう。

 それこそ純みたいに本気にしなかったり、冗談を言い合えたりする相手に限定したほうがいいんだろうな。


 とはいえ、癖みたいなものだから気をつけていても無意識に口走ってしまうことがあるかもしれない。


「でも、褒めてくれてありがと」


 思考の海に潜りかけたところで、純が少しだけ笑みを零した。

 その美しくてかわいい顔貌がんぼうを間近で直視した俺は、魅了の魔法にかかったかのように彼女から目を離せなくなる。


「――それじゃ、いつまでもここで話してないで、さっさと移動しよう」

「あ、ああ。そうだな」


 彼女の促す声でなんとか平静を取り戻せた俺は、抱いていた腕を解放して純と手を繋ぎ直した。

 そして特に合図をしたわけでもないのに同時に歩き出す。


 数年来の付き合いだからか、息ぴったりであった。

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