第5話 もう見たくもないお酒ですが、バイト先が居酒屋です。

全ての講義を終えた夕方、まだ少し時間はあったのだが、僕はそのままの足でアルバイト先に向かうことにした。


体調は少しの仮眠で幾分かはマシになっている。たくさん飲んだ水が良かったのか、腹の中で蠢くような感覚も無くなっていた。

それでも、裏口のドアを開けて入った瞬間、居酒屋ならではの匂いと雰囲気に反応して滅入ってしまうことになるのだが。


ちなみにお店はというと、チェーン店ではなく、地元密着型の居酒屋である。といってもハードルは低く、気軽に一見さんでも入ってこれるようなお店である。


「おはようございまーす」

やはり発した声がいつもとおかしい。お酒の飲みすぎが影響しているのかはわからないが、少し心配そうな顔をしたマスターが奥から顔を出してきた。


「おはようケイ君。もしかして風邪でも引いた?」


「いえ、昨日飲みすぎちゃって……」

ありがたい気遣いの言葉に胸が苦しいのだが、残念な理由を述べた。


「んー、じゃあこれでも飲んで少しゆっくりしてて。まだ時間はあるし、今日は暇だろうしね」

そういってマスターのヒカリさんが胃腸薬をサッと手渡してくれた。


お言葉に甘えてのんびりとバイト開始の時間までくつろぐことに。……にしてもこの胃腸薬、初めて飲んだけどめちゃくちゃ苦い。


さて、時間を改めて確認すると、まだスタートまで30分程度はある。

基本的に平日の夜営業は18時からで、アルバイトは夜営業の際は17時に出勤をし、マスターと開店準備を進めていく。

締めの時間は日によってまちまちだけど、大体22時くらいかな。


切り盛りするマスターのヒカリさんは、このお店の2代目。先代はヒカリさんの祖父にあたる人なのだそう。

可愛いより格好いい、そんな綺麗系統の美貌を持つ店主であるひかりさんは、メンズライクな服装を好んで着るタイプ。お店の制服も黒シャツでよく似合っている。ああ、バイトである僕たちも同じ制服を着ているよ。

確か歳は30前だったはずだ。

僕が大学に入学する前からお世話になっていて、比較的に歳も近いから何かと頼りにしている。


「胃腸薬、ありがとうございました」

そう言って、少しの間のんびり過ごした僕は、特にやることもないので仕込みを手伝っていく。


「えー、まだ時間あるよ?ゆっくりしていれば良いのにぃ……」


そう気を遣ってもらうが、個人的にオープニング作業が好きな性分もあって進んで作業に入っていった。


それほど広くないカウンターがメインの店内だが、席の清掃やお箸・各種机の上の調味料の補充・付け合わせで出す料理を小分けにしたり、やる事はそれなりに多い。

多岐に渡る作業に最初は四苦八苦しながら覚えたが、今となってはほとんど何の指示を聞かなくても作業ができる。


とても居心地が良いと感じるこのお店で働くようになったのは大学に入って間もない頃だった。

僕はギリギリ電車で通うことができる隣接する県の出身だが、無理して電車通学することはせずに大学の近くに部屋を借りることにしたんだ。……朝も弱いしさ。


高校の卒業前、部屋の見学がてらたまたま両親と入ったランチタイム営業をしていたこの居酒屋で、アルバイト急募の案内を見て条件を確認し、その場で採用される運びとなった。もちろん履歴書の用意も無かったが、とんとん拍子に進んだのだ。さすが個人経営だね。

後日書類を用意して正式に契約を結んでもらったけど。


店内を流れる有線を聞きながら、作業をこなす。

ふと料理の下処理を行うマスターの横顔が目に入った。やはり随分と整った容姿で、真剣な眼差しはやや釣り上がった目も相まってクールな印象を抱かせる。スッと筋の通った形の良い鼻、手元の作業に集中していて僕の目線には気がついていない様子だ。

僕よりも少しだけ背が低い、女性にしては高い上背で性格はクールな外見とは裏腹にとても優しく過保護気味。超が付くほど心配性で、女子力が高く可愛いものに敏感だ。アルバイトスタッフの手書きのネームプレートはすべてヒカリさんの手作りで、妙に愛くるしいデザインをしている。

ちなみに、朝の早い時間に起きてゆるキャラのアニメを観るのが日課だそうな。


一人暮らしを続ける僕にとっては姉のような存在でもあり、一人前の女性として少し憧れの存在。僕は、二人で黙々と作業ができる営業時間前のこの時間が好きなのだった。


気がつけば一通りの作業を終え、特にやることが無くなった。

ヒカリさんもあらかた作業を終えたようで二人して時間を持て余している状況である。


「やっぱりケイ君何かあった?」

しばらく話をしていた時、彼女が聞いてきた。そんなに分かりやすい顔をしていたのであろうか。


「んー、昨日の飲み会で、事件と言っちゃあ事件がありましたね………。」

圧倒的当事者のはずが、まるで他人事のようだね。


「えっ、何?気になる気になる!」

そんな僕の話に興味津々に続きを迫ってくるヒカリさん。


「実は……」

そう話そうとした瞬間、裏口から大きな声が聞こえてきて中断された。


「おっはよーございます!……って慶次くん!私からの電話に何で出てくれなかったの?到着がギリギリになるかもってめっちゃ焦ってたのに!しかもヒカリさんと仲良く話し込んじゃって!」


このうるさいのは橘美鈴たちばなみすず。やや不本意ながらバイト仲間である。この辺りに生まれ育ったようだが大学は異なる。天真爛漫と言えば聞こえが良いが、やたらと距離感が近い為少しウザイ。


「美鈴、煩いからボリュームを下げてよ」

嫌な顔を隠す事なく伝える。これだけ言っても改善したことは一回もないのだが。


「美鈴ちゃんおはよ」


「あ、ヒカリさんおはようございます!」


良い笑顔で話すウザイ要素が豊富な美鈴だが、悔しいことに外面が良くお客さんウケは非常に良い。そしてヒカリさんからの信頼も厚い。

容姿も整っていてオマケに自分よりも偏差値の高い大学に通っているのだから悲しい。何故か僕に対して強気なのが一々癪に障るんだよね。


特筆すべきはクリっとした大きな目。まつ毛も長い。細く整えられた眉に青みがかった淡いピンクのチークがよく似合っている。

今は落ち着いた茶色に染め上げた艶やかな髪をシュシュで纏めてサイドテールにしており、またまた悔しいことによく似合う。クールな黒シャツと少しあどけなさの残る彼女の容姿のギャップがいい感じではある。……何度も言うが悔しいことに。


「ってか慶次くんいつもよりも表情引き攣ってない?絶対なんかあったでしょ?」


「あれ、美鈴ちゃんもそう思う?あたしも同じこと思ってたのよね」


二人して僕の顔を覗き込む。

「……僕ってそんなに分かりやすいのかな………?」少し落ち込んだ。

同じタイミングで二人が頷く姿を見てまた落ち込む。


「今に始まったことじゃないでしょ?」

美鈴が言った。隣のヒカリさんもウンウンと大きく同意している。

うう、少しショックだ……


「まあ情けない話なんですが、目の前で彼女と親友が不貞を働きまして」


「「えーーー!」」


「めぐみちゃんだっけ?

この間、お店に一緒に来てくれたでしょ?っていうか目の前ってどういうこと?」

「本当に!どんな状況なの?ありえないでしょ」

矢継ぎに質問が飛んでくる。まあ簡潔に伝えるとこんなリアクションになるのは致し方ないことである。


そんな訳で、更に詳細を伝えることにした。別に隠すこともないし、僕も第三者の意見を聞いて欲しかったというのもある。

二人は知り合ってからそこそこ長いし、よく話をするからね。


そんな流れで話をした序盤は割と興味津々で、相槌を打ったり、説明が不足していた部分で質問をしてきたり、目を閉じて情景を思い浮かべながら聞いていた二人だが、不貞を働く下りが出てきた時点で憤怒の表情を浮かべることとなった。


まあ、二人が怒るのも無理はない気がする。

本来なら僕が憤りを感じないといけないのにね…。

その後も相変わらず僕は何の感情も湧き出てくることはなく、最後まで淡々と説明を続けたのだった。


案の定というか、今日の居酒屋はのんびりとした営業となり、早々に閉めることになりそう。

持て余してしまう時間はほとんど、僕の事件のことや付き合っていた時の不審な点などについて根掘り葉掘り聞かれることとなった。


美鈴には携帯の件を咎められたけど、さすがに理解はしてくれた。まあ、放置しているのは時間の無駄だと思う。と釘を刺されたが。


やっぱり、後回しにはできないよな……。


何にしてもこの二人の怒りようは半端じゃなかった。自分のことのではないのに、僕以上に怒ってくれている。

自分の痛みに鈍感すぎるとヒカリさんは言うし、いつもの軽口が抜けた美鈴が少し気になる。


自分には味方が居るのだと、凄くありがたいことに思えた。



――――――――――――

お待たせしました、第5話です。

いつもお待たせしてすいません。

以上で事件翌日の話は終わりです。

能天気な主人公は未だ携帯の電源をオフにしていますが…

そろそろオンにしましょうかね。

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