第2752話・夏の日のこと
Side:久遠一馬
尾張において今も続く賦役は治水関連が一番多い。
木曽三川の治水とあちこちにある川筋の整理、さらに湿地の埋め立てや遊水地を設けるなど、治水は計画的に行われている。
あとは史実の明治用水になるところや知多半島への水路も、出来る範囲で少しずつ手を付けている。
オレが視察に来たのも、そんな賦役のひとつだ。
「みんな頑張っているね」
特に懸念があったわけではない。他の予定の合間に視察が出来そうなところがあったので視察をすることにしただけだ。
夏ということもあって男女問わず上半身裸で働く人たちの姿があるが、この時代では珍しいことではない。
「この辺りも変わりましたね」
「はっ、皆も喜んでおりまする」
現場監督は壮年の武士だ。エルが声を掛けると少し誇らしげに答えた。
それほど親しいとは言えない人だけど、織田家中として十年以上接しているせいか、オレたちを恐れるようなところがない。こういう人と会うと嬉しくなる。
歴史に残るような災害、十年、数十年単位での災害は防げないが、毎年のように起こる小規模な水害はだいぶ防げるようになりつつある。
土木建築が専門のシャーロットと愛美が指導した人たちが一人前となって、こういう難しくない賦役を計画して成功させているんだ。
清洲や那古野などの周辺で田畑を町にすることは今でもあるが、賦役による治水などもあり思ったより尾張の食料生産高は減っていない。
まあ、中には放置されていた土地、非効率なところを開墾している人もいるが、この時代としては一般的なことになる。
「思い出しますなぁ。内匠頭殿が尾張に来た頃、共に汗を流したことを……」
そういや、この人もその頃から賦役に関わっていたんだよな。
「最初は変な顔をされましたね。今思えば、もう少しきちんと理由を話すべきでした」
こいつ、なに勝手なことを……なんて顔をしていた人ばっかりだった。この人も最初は否定的だったんだよな。
「いえ、これでよかったと存じまする。あの頃の我らでは理解出来なんだこと。何事も始める時が一番難しゅうございます」
ちょっとした後悔、それを口にすると壮年の武士は否定するように自分の意見を言ってくれた。
「そう言っていただけると助かります。近頃、頭を下げられることが増えてしまいましたから。私たちだって悩んでいるんですけどね」
「内匠頭殿は出世してしまわれましたからな。されど、知恵は皆で出さねばなりますまい」
その言葉がなにより嬉しい。オレの言葉であっても、きちんと意見を言ってくれることを一番求めていると理解しているんだ。
失礼かもしれないが、歴史に残るような偉人ではない普通の武士がそこまで理解して支えてくれているのが織田家になる。
織田家に限っていえば、もうかつてのような争いの日々に戻ることはないだろう。
「内匠頭殿、くれぐれもご無理だけはなされぬように。皆が案じております」
しばし沈黙の中、賦役で働く人たちを見ていると、そんな言葉を掛けてくれた。
尾張を取り巻く環境が変わりつつあること、領民も理解しているんだよね。オレたちの負担が増えて難しい立場になりつつあることも。
「ありがとうございます。皆のおかげで私はもう少しやれそうです」
領内のみんなは、本当によく頑張ってくれる。オレや妻たちが憂いなく動けるようにと尽くしてくれる人も多い。
人の可能性、これはこの時代に来て教えられたひとつかもしれない。
「あとはお願いします」
「はっ!」
たまには一緒に賦役をしたいなと思うけど、オレにはやるべきことがある。お土産にと持参した金平糖を渡して次の仕事に行くか。
時間は有限だ。
Side:北畠晴具
今日も上様のご機嫌はよいらしい。
いつからであろうか、将軍としておることを拒まれぬようになったのは。今でも願わくは武芸者でありたいという思いは変わらぬようにお見受けするが……。
「一度、田丸にも足を運ばねばと思うがいかがだ?」
僅かな者で茶を楽しんでおると、上様から唐突な問いかけがあった。臣下を通して根回しする前に、わしと倅と本音で話そうというのが上様だ。珍しきことではない。
「ありがたきことでございます」
異論などあるはずもない。
「では奉行衆に命じておこう。あまり仰々しくせずともよい」
「畏まりましてございます」
尾張にはよく来られるからな。南伊勢には院の御幸以来であることを気にされたか。上様と三国同盟は盤石なれど、諸国の者がいかに見るか。そう考えると確かに田丸お成りは悪うないな。
「足利と北畠が結ぶことで、これほど世を変えるとはな。今でも驚くことが多い」
それはそうであろうな。足利は武士を束ねるより畿内と京の都を押さえることを重んじていた。そもそも武士を束ねることなど出来なんだからな。
我らが出来ておるのは久遠がおればこそ。
「天祐、一馬を頼む。そなたと北畠にしか頼めぬことだ」
「はっ!」
斯波と織田も久遠を十分守っておるが、かつて足利と対峙した北畠にしか出来ぬこともある。上様はまことに世のことをよくご存じだ。
内匠頭を東国の王としてはならぬのだ。そのためには斯波と北畠が常に上にあらねば。
「奥羽の件はお任せを。拗れるようならば某が出張りまする」
「軽んじてもよいことなどないからな。そなたがいれば一馬が憂いなく動ける」
伊達も葛西も大崎も、いずこも潰す気などない。当人たちが理解しておるのか知らぬがな。奥羽の季代子らは、かの者らが潰れぬように、子をあやすように優しく相対しておるくらいだ。
公家が世を治めていた頃から幾年月、武士が世を治めるようになり、ひとつにまとまる時もあったが、争いから逃れることは出来なんだ。
公家でも武士でもない者が世をまとめ動かそうとする。これこそ天命と思うて間違いあるまい。
寺社を含めて日ノ本は今一度ひとつにまとめねばならぬのだ。
「あとは関白だな。亜相なら手合わせをすれば互いに通じることが出来るのだが、あやつは無理だ。かというて見捨てるわけにもいかぬ。殿下には世話になっておるし母上もおる」
倅はな。公卿というより武士に近い生き方を好む。上様と気が合うと当人も言うていたほど。
「道はあると存じまする」
少々世を知らぬが、愚か者ではない。また意地を張るほど強情でもあるまい。損得は理解しておるようだからな。
あとは切っ掛けがあれば……。
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