第2644話・動くか止まるか
Side:慶寿院
暦も二月となり、そろそろ春の兆しが見え始めました。近江御所は巷に賑わいが少し届くくらいに落ち着いております。
京の都から政を遠ざけることが、これほど上手くいくとは。
関東は遠すぎ、尾張は京の都とあらゆることが違いすぎる。近江の他に大樹が政をするに相応しき地はないのかもしれません。
何一つ思うままにならぬ畿内を離れ、近江にて伊賀を足利の直轄領とした。足利もまた畿内に頼らぬ政が出来るようになりつつある。
懸念があるとすれば、尾張を止めることが出来る者がいないことでしょうか。ただ、これは畿内にいても同じこと。そもそも尾張は畿内と争うことを望んでいない。
「叡山といい石山といい、動きたくても動けぬ者が畿内には多すぎる」
つらつらと考え事をしていましたが、兄上の言葉で我に返ります。京の都と近江を行き来して朝廷と三国同盟を繋いでいるのは兄上でしょう。残念ながら関白である甥には出来ぬこと。
「時が必要でございましょう。私たちもそうでした」
「理解はする。だが、勝手ばかりされては困る。奴らは斯波と織田が勝手をすると騒ぐが、古くから勝手をしていたのは寺社じゃ。三国同盟の力あるうちに寺社には本来の道に戻ってもらわねばならぬ」
兄上はすっかり変わられましたね。かつては朝廷と近衛のことを考えていたはずが、今は日ノ本の行く末を考えるようになっている。
本当は尾張に行きたいのでしょうね。あの国で新たな世を築きたいのでしょう。私には分かります。
「内匠頭殿はそれを望んでおられるのですか?」
「わしはそう思うておる。いずれにせよ神仏の名を騙る者は出てくる。ならば今ある寺社を御したほうがいいと考える男じゃ」
私は内匠頭殿より近江にいる奥方衆と会うことのほうが多い。かの者たちの話を聞いている限りでは兄上の考えは間違ってはいないはず。
「それに内匠頭と奥方らばかりに頼るわけにもいかぬからの。わしもまだまだ働かねば。ここ数年が後の世を決めることになるはずじゃ」
確かにそうかもしれませんね。
「嘆かわしいことながら大樹の政は久遠なくしては成り立ちません。四季殿、今は産休の名代として桔梗殿と唐殿が務めていますが、かの者たちがいてこそ皆が憂いなく務めを果たせる」
「分かっておる。それもあって、わしや山科卿がこちらに来ておるのじゃ。あやつらが畿内から恨まれぬようにせねば。久遠は穢してはならぬからの。真継の一件は結果として悪うなかったが、それでもあのようなことが続けば恨みが残る。次に似たようなことがあるならば、わしが動く」
兄上はそこまで口に出してしまうのですね。
頼朝公や尊氏公のように世を変え天下を治めんとする者とは、いかな者なのか。古き書などには記されていない真髄が見えたかもしれません。
当人の才覚や力量も大切ですが、なにより多くの者が集い担ぐべき者だと働くのでしょう。
残念ながら大樹は未だそこまで至っていない。ただ、大樹はすべて理解して今がある。
ここまでせねば、この乱れた世は変わることが出来ないのでしょうね。先人はなんと厄介なものを残したのか。
Side:久遠一馬
正木さんの体調はだいぶ良くなったらしい。次の船で帰国出来るそうだ。
ただ、頑固な人だということもあって、ストレスを溜めないことや生活習慣の指導に苦労をしたと聞いているが。
肝心の正木家の評判に関して年末に謝罪に来て以来、改善している。今川家臣の三浦さんが上手くやったと言えるだろう。結局、里見に関わる人は多かれ少なかれ被害者でもあるという認識が広がったのはいい傾向だ。
とりあえず里見の一件は早く過去のこととしたい。里見家再興もすでに関係者で根回しは済んであるんだ。過ぎたことをいつまでも引きずっても誰も得をしない。
そんな今日だが、オレはエルと一緒に太原雪斎さんと会っている。
「安房の扱い。お見事としかいいようがございませぬな」
雪斎さんに褒められると悪い気はしないが、すべてがオレの功績ではない。むしろ、オレはなにもしていないことのほうが多い。特に関東に関しては。
「和尚様のおかげでもあります。三浦殿にも助けられましたしね」
「そういうて頂けると、生きておる甲斐があるというもの」
一時期よりは体調が良くなって、今は僧侶としてのお勤めと学校の教師として働いているが、オレたちは時々雪斎さんと意見交換することがある。主に関東に関して雪斎さんから教えを受けているといったほうが適切か。
やはりこの人は並みの僧侶じゃないんだよね。オレたちのやり方や考え方を理解して自身の知ることを教えてくれるんだ。
今川家中のみならず織田家中で尊敬を集めている僧侶のひとりだ。雪斎さんの評価が上がるたびにかつて対峙していたオレたちの評価も上がるらしく、少し申し訳ないところもあるが。
「今がもっとも難しき時、努々油断されぬように。前古河殿がおられる故、よいと思いまするが、なにかがきっかけで崩れかねませぬ」
関東情勢の見立てはほぼ同じか。上手くいっているが、今が一番難しい時だと雪斎さんも見ているらしい。
「私たちが動けば楽になるのは確かなのですが……」
エルも雪斎さんには悩みを打ち明けることがある。オレたちはどうしても出来ることが多いからな。迷うことも多い。
「大智殿のお考えは理解するが、今は止めておいたほうがよろしかろう。苦しみがあってこそ人々は理解するもの。関東は難しき地故、自らやらせねばなりませぬ」
雪斎さんもオレたちが今動くことは駄目だと思うか。
「内匠頭殿も大智殿も耐えるのは苦しかろう。されど、愚かな人に理解させるのはなにより時が必要。今しばらく耐えておれば、北条に属する者らのように変わりましょう」
確かに、北条に従う者たちは思った以上に織田とオレたちの味方だった。仮に越後の景虎さんが史実のように北条に兵を挙げたとしても、寝返る者は減るだろう。そういう人を増やさないと駄目か。
「関東を平定すると、その先も自ずと見えましょう。あと少し、あと少しの辛抱かと」
その先か、雪斎さんには日ノ本統一のことは言ってないんだけどね。察している。あと少し、本当にそうなんだけどね。ここで焦ってはいろいろと困ることになる。
ほんと加減とタイミングが難しいな。
◆◆
永禄七年、二月。久遠一馬と大智の方こと久遠エルが、太原雪斎と会っていた記録が残っている。
新たに織田家の所領となった安房と関東の情勢について話したとされる。
今川家の臣従時には病に冒され、放置すると命すら危ういと言われたとあるが、この頃にはだいぶ回復したようである。
一馬たちと数年に渡り対峙してきた雪斎の知恵は第一線を退いたあとも確かだったらしく、一馬たちのみならず織田家家臣が相談に訪れたという記録が幾つもある。
雪斎は訪れる者たちに親身になり相談に乗ることで、斯波家や織田家と今川家の関係を落ち着かせる一翼を担っていたと思われる。
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