第38話 私のことをからかってますね?
忍ちゃんは、私の部屋に泊まってもらいます……そう言い放った桃井さんの言葉に、俺も久野市さんも固まっていた。とはいえ、俺の驚きはそれほどではない。
知り合って間もない男女が同じ部屋で寝る、それはよそから見ればおかしな光景であるに違いない。だから、桃井さんに事情が知れた時点で、なにかしら動きがあるとは思っていた。
それでも、まさか桃井さんの部屋に泊める、というものだとは思わなかったため、その部分は驚いた。
ただ、俺の驚きとは別の意味で驚いているのが、一人。
「ななな、なんでですかぁ!?」
久野市さんだ。彼女は、食べようとしていたハンバーグを皿に落としてしまうほどに、動揺している。
俺と同じ部屋じゃなくなる、という当然の結論に、そこまで驚くのか。
桃井さんも、そこまで驚かれるとは思っていなかったのか、目を丸くしつつ……こほん、と咳払いをする。
「いい、忍ちゃん。さっきも言ったように、付き合ってもいない年頃の男女が同じ部屋で寝泊まりするのは、よろしくないことなの」
「なんでです!?」
「な、なんでって……わ、わかるでしょ?」
「わかりません!」
あぁ、さっきまで冷静だった桃井さんが、みるみる赤くなっていく。残念ながら、久野市さんには"そういう"貞操概念はあまりなさそうなのだ。
これまで、俺の前でやってきた行動を思い返せば、それもうなずける。
だが、桃井さんもここで引くつもりはないようだ。
「とにかく。だめなものはだめなの。けど、忍ちゃんを一人で追い出すのも心配だから……
住居が決まるまで、私の部屋に泊まって」
「そんな! それじゃいざという時、なにかあったらどうするんですか!」
「いざ? なにか?」
「そうです、またいつ主様の命がねらわ……」
「わ、わー、このハンバーグはうまいなぁ!」
黙って話を聞いていたが、このままではまた久野市さんが余計なことを口走りそうだったので、俺は無理やりその言葉を中断させる。
少し強引過ぎただろうか。いやでも、これくらいしないと……
「木葉くん」
「はい」
「木葉くんは、忍ちゃんと同じ部屋がいいの?」
おっと、こっちにまで話題が飛んできてしまった。
とはいえ、これは俺にも関係する問題だ。ここで、はい知りません、とすることはできない。
なんか桃井さんすごいにらんできてるし、ここは選択を間違えないようにしなければ。
「やっぱり、同じ部屋はまずいかなと……」
「! そうよね、そうよね!」
俺の答えがお気に召したのか、ぱぁっと表情が明るくなる久野市さん。ほっ、よかった。選択肢は正解だった。
だが、桃井さんの表情が晴れる一方で、隣の久野市さんの表情は曇っていた。
「そうですか……私と同じ部屋は、迷惑ですよね……」
「え、いや……別に、迷惑とまでは……」
「いいんです、迷惑だとおっしゃってくれれば、それで……」
ついには拗ねてしまったかのように、ハンバーグを箸でつついている。あまりそういうことは、行儀がよろしくないのでよろしくないのだが、どんよりした空気になにも声をかけられない。
いったい、どうすれば久野市さんを納得させられるだろう。
そう考えていたときだ。小気味よい明るい音が、鳴り響く。この機械的な音は、スマホの着信だろう。
俺ではないし、久野市さんはスマホを持っていない。となると、残るは一人だ。
「あ、ちょっとごめんね」
鞄を漁る桃井さんは、スマホを取り出す。小さなポーチ、という鞄に入っていたのは、ピンク色のスマホだ。
彼女は画面を確認してから、画面をタッチして、スマホを耳に当てる。
「はい、もしもし、桃井です」
「? 主様、彼女は板を耳に当てて、なにをしているんですか? 頭がおかしくなったんですか?」
「あれは、板じゃなくてスマホって言って……まあ、簡単に言うと離れた相手と話が出来るの」
「え!? あ、あんなもので!? そんなこと……
あ、ははーん。主様ったら、私のことをからかってますね? ダメですよ、確かに私は村から出てきたばかりですが、そんなんじゃ騙されません」
「あー……うん。とりあえず、静かにしておこっか」
スマホの説明をするのは面倒だし、とりあえずは通話ができるってことだけ教えておけばいいだろう。それでも信じていないようだが。
まあ気持ちはわかる。俺も初めは似た感じだったし。
あまり騒ぐのもいけないので、静かにしておく。その場には、周囲の賑やかな声と、桃井さんの応対の声だけが聞こえる。
だけど、次第に桃井さんは「え?」とか「そう、ですか」とか、なんか声が暗くなっていく。どうしたのだろう。
それから少しして、通話を終える。その桃井さんの表情は、少し暗い。
いったいどうしたのか、聞きたかったが……電話の相手は、桃井さんの知り合いだろうし。俺がなにを聞くのも変だ。
そう、思っていたのだが。
「電話の相手、後藤さんからだった」
そう呟く桃井さん。明らかに、俺に向けての言葉だ。
「後藤さん?」
「木葉くんの、隣の部屋を借りてる人」
「あぁ」
後藤さんとはどこの後藤さんだと思ったが、桃井さんのフォローで思い至る。確かに、隣人の名前は後藤さんだ。中年の男性だ。
後藤さんと桃井さんは、電話をする中なのか……と思ったが、アパートの大家と住人なら、連絡を取り合ってもおかしくはないな。
現に俺はこうして、桃井さんと出かけているわけだし。
さて、その後藤さんが桃井さんに電話をかけてきた理由。桃井さんの表情が暗い理由。そして俺になにかを言おうとしている。
これらの、答えは……
「後藤さん、アパートを出るみたいなの」
「え……そうなんですか?」
それは、初耳だった。そもそも、後藤さんとそれほど関わることはない。せいぜいすれ違うときに挨拶するとか、コンビニで顔をあわせたりとか。その程度の付き合いだ。
でも、知っている隣人が引っ越すというのは、少し困惑する。
「それで、隣の部屋が空くってことなんだけど……」
「……なるほど」
それから、久野市さんに視線を移動させる桃井さん。その行動を見て、俺は彼女の言わんとすることを理解した。
俺たちからの視線を受け、久野市さんはきょとんとして、水を飲んでいた。
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