第20話 海中

「詩子。泳ぎに行こうよ。あ、でもその前にイルカ膨らませないとだね。私がやってみてもいい?」


 未来はイルカの空気穴に口を寄せていた。私が頷くと、さっそく息を送り込む。最初は私の方を見る余裕があるみたいだったけれど、イルカが膨らんでいくにつれて表情は苦しそうになり、顔色も真っ赤になっていた。


「交代しようか?」


 私が問いかけると、未来は一瞬頷きそうになったけれど、唾液まみれの空気穴をみつめたかと思うと、首を横に振った。


「清く正しい関係でいたいので……」

「結構な回数キスしたと思うけど?」

「それとこれとは別でしょ? あのキスはエロくないけど、でも唾液が交じり合うキスって、間接キスだとしてもただのエロじゃん……」


 どうやら妙なこだわりがあるらしい。私は仕方なく、未来を見守ることにした。未来は息を整えたかと思うと、またイルカを膨らませていく。必死で頑張っているみたいだった。


 その甲斐あって、息も絶え絶えになりながら未来はイルカを膨らませることに成功した。どや顔でみつめてくる未来に、私は微笑み返す。


「運動してなかった割にはやるね」


 私が褒めると、未来は自慢げに胸を張る。


「そうでしょ? やればできる女なんだよね。私って」

「それならエロいキスもやればできるんじゃないの?」


 私がニヤリと未来をみつめると、頬を膨らませた。


「ひねくれものなうえにエロいとか、私以外と付き合えないよ?」

「未来だけでいいよ」


 私が微笑むと、未来は照れくさそうな表情に早変わりする。


「はいはい。でも海中でキスするのは、ちょっと憧れるかもね」

「強引に話題を曲げるね」

「恥ずかしいんだよ。分かってよ。恋人でしょ」


 未来は頬を赤らめながら、イルカの浮きを両手で抱えて外へ向かおうとした。日焼け止めを塗りなおしたほうがいいと思った私は手を掴んで引き留める。


「日焼け止め塗ろうよ」

「あ、そうだね。忘れてた」


 私たちはそれぞれウォータープルーフの日焼け止めを取り出して、体に塗る。背中の一部に手が届かなくて困っていると、突然、未来の手が触れた。普段触らない場所に触れられたものだから、思わず体がびくりとしてしまう。


 恐る恐る未来をみつめるも、気付いていないのか穏やかな表情をしていた。


「……ここだけ焼けちゃったら困るからね」


 どうやらからかうような意図はなかったらしく、私もおとなしく「ありがとう」とお礼を伝えた。すると未来は「詩子も塗ってくれる?」なんて頼みごとをしてきた。正直、ちょっと恥ずかしい。けど未来は平気そうにしているし、ためらえばからかわれてしまいそうだ。


 背中を向ける未来に私は勇気を出して、手を伸ばした。未来の白い肌は触り心地が良くて、なんだか胸がドキドキしてくる。


 日焼け止めを塗り終わると、未来はいつもと変わらない調子で「ありがとう」と笑った。なんだか複雑な気持ちだった。私だけがドキドキしてたなんて、不平等だ。


「……その、未来は私に日焼け止めを塗るとき、何も感じなかったの?」

「もしかして、緊張したの?」


 ニヤニヤとした視線を向けられて、私はぷいとよそを向く。


「……悪い?」

「ううん。嬉しいよ。それだけ私のこと、大切だって思ってくれてるわけだから」

「未来も緊張してくれた?」


 私が恐る恐る問いかけると、未来は恥ずかしそうに頷いてくれた。


「……緊張しないわけないでしょ。でも絶対にからかわれるって思ったから、頑張ったの! 好きな人の肌に触れて、うなじとか近くで見て、いい匂いして、緊張しないわけないじゃん……」


 顔を真っ赤にして、もじもじするその姿が愛おしくて、気付けば私は未来を抱きしめていた。いつもよりも露出の多い水着だから、たくさん肌と肌が触れ合う。


「ちょ、ちょっと。詩子……?」


 未来は耳の先まで真っ赤にしていた。


「好きだよ。未来」


 私がささやくと、未来は恥ずかしそうに微笑んでつげた。


「私も好きだよ」


 しばらく抱きしめ合ってから、二人して更衣室を出ていく。外は相変わらず日の光でまぶしく、海はきらめいていた。私は未来の隣を歩きながら問いかける。


「そういえばさっき言ってたけど、未来ってさ、海の中でキスしたいんだ?」

「悪い?」

「別に。やっぱりロマンチストなんだなって思って。ロマンチックなキスを求めてるわけだし。愛欲に爛れた関係は苦手?」

「そういうのは大人になってからだよ。高校生は高校生らしくしないと」


 未来は恥ずかしそうに顔を伏せて、砂浜の上を歩いていく。


「もしもそういう機会があったらどうする?」

「……私は詩子みたいにエロくないからしないよ」

「そっか」


 私は、少し興味がある。そういうこと。未来の言う、エロいキスに。でも未来が望まないのなら別に無理強いはしない。残念だけど。


 波打ち際まで歩いてくると、未来は振り返ってささやいた。


「詩子こそ、どうするの? そういう機会があったら、さ」


 じーっと興味深そうに私をみつめている。どう返事をするべきなのだろう。分からないけれど、ここは未来に合わせておくべきか。嫌われたくないし。


「未来と同じでしないよ。私も早いって思った。高校生には」

「ふーん。詩子にも常識があったとはね。意外」

「非常識な回答の方が良かった?」

「そっちの方が詩子らしいと思った。ただそれだけ」

 

 どうしてか未来は不機嫌そうに唇を尖らせている。私はくすりと笑って、未来をみつめる。


「未来って、むっつりさんだね」

「ち、違うし。詩子が気を遣ったような気がしたから、嫌だっただけで。私、そういうの分かるんだよ? 多かったから。気を遣われること」


 未来は寂しそうに体を小さく左右に揺らしている。きっと本心なんだろうなって思った。未来は私に心を許していて、私にも心を許してほしいと思っている。それを覆してしまったから、不安に思っているのかもしれない。


 恥ずかしいけど、ちょっと頑張ってみるかな。


「正直なことを言うと、未来と二人でエロいキス滅茶苦茶したい」

「なっ……」

「愛欲をぶつけあいたい」


 顔を熱くしながらつげると、未来も顔を真っ赤にした。でもさっきみたいな寂しそうな表情ではなくて、どちらかと言えば楽しそうだった。


「……やっぱり詩子って変態だね」

「高校生の性欲って強いんだよ。好きな人に対しては。未来は違うかもだけど」

「私だって……」


 咄嗟に出てしまったのか、未来は慌てて自分の口を塞いでいた。


「私だって?」

「なんでもないよっ! ほら、早く泳ぎ方教えてよ!」

「はいはい。とりあえず一旦イルカの浮きは置いて、海に入ろうか」


 私は未来の手を握って、海の中に歩いていく。


「なんだか二人で入水してるみたいだね」

「冗談でもそんなこと言わないでよ」

「でも好きな人と入水ってロマンチックじゃない?」

「……それはそうかもだけど」


 胸のあたりまで海につかると、私は横から未来を抱きしめる。未来は恥ずかしそうな顔で私を睨みつけてきたけれど、それでも離さない。


「ほら、想像してみてよ。月夜の海で二人きりで手を繋いで溺れていく。幻想的で綺麗だよね。私、理解できなかったんだ。心中とか。でも今なら分かっちゃうんだ。もちろん、する気はないよ?」

「……嘘つき」


 未来は寂しそうな表情をした。


「ばれちゃったか」


 私が苦笑いすると、未来は私の手を引っ張ってさらに深く、海の中へと歩いていく。私はそんな未来の耳元で言葉を紡ぐ。


「好きすぎて辛いんだよね。たまに、大昔から未来のことが好きだったように錯覚することがあるんだ」

「……気のせいだよ」

「夢をよくみるんだけど、そこで私と未来は仲のいい友達でさ、その関係を壊すのが怖くてなかなか気持ちを伝えられずにいて。でも何とか頑張って、思いを伝えようと未来を呼びだすんだよ。でも夢はいつもそこで終わる。気持ちを伝える直前に」


 高校に入って未来に一目惚れをしたときから、そんな夢をみるようになっていた。現実では赤の他人なのに、夢の中では私たちはとても仲がいいのだ。


「だから私、とても幸せなんだ。現実で未来と付き合えて。夢の中では伝えられなかった言葉も、現実ではいくらでも伝えられる。好きだよ。未来」

「……もしもその好きが偽物だとしたら詩子はどうする?」


 私の気持ちが偽物なはずはない。例え仮定だとしても、想像するのは難しかった。けれど深く深く考えて、やっぱり私はこの気持ちを振り払えないだろうなと思う。


「どうもしないよ。ただ楽しむだけ。私の本当の気持ちがよそにあったとしても、仮に未来がその偽物の気持ちを植え付けたのだとしても、それでも私は未来のことを好きでいる」


 未来は複雑そうな表情だった。かと思うと、突然、私の手を引っ張って水中に引きずり込んだ。キラキラする海中で、未来は悲しそうに微笑んでいた。けれど私の頬に手を当てたかと思うと、そっと私の唇に口づけをする。


 そして、そのまま私を抱きしめ、……口の中に舌を伸ばした。

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