第5話 予兆
アンデットたち全員の怪我を
陽射しのほとんどを樹冠が遮って、僅かな光芒が差し込む。
透き通った川に光が反射しキラキラと輝きを放っている。
「あっつ〜」
木の枝を持って探検家気分のメイネは、蒸し暑いのを堪えて額の汗を拭う。
森の深奥から随分と離れたところまできた様だ。
その証拠に、すっかり紫の花も見なくなった。
しかしまだまだ人里は遠いだろう。
鬱蒼と木々の生い茂る中で生活を営むような種族がいれば別だが。
先が見えない旅路だが、メイネは余裕綽々。
道中、危機感知能力の欠ける魔物に何度か襲われたが、アンデットたちが返り討ちにしていた。
猪の魔物だったのでアンデット化せずに食糧にした。
調味料もないので味はイマイチだが、果実ばかり食べていたのもあってか満足感はそれはもう凄いものだった。
落ちに落ちた生活の質がアンデットたちのおかげで向上したことで、メイネはすっかり上機嫌になっていた。
そんな時だ。
上空に異変が現れたのは。
「ん?」
突如として仄暗い雲が垂れ込める。
早送りした映像でも観ているかの様に。
更に空間にガラスが割れたかの様な亀裂が走る。
やがて裂け目は広がり、その内側から真っ白な空間が覗く。
「なに、あれ……」
メイネは何か不吉なものを感じ、裂け目から目を逸らせずにいた。
異変はまだ終わらない。
裂け目の内側から巨大な昆虫の前脚が伸び、裂け目の縁を掴んだ。
そして悍ましい何かが強引に這い出てきた。
「っ……!」
メイネはその姿に思わず息を呑む。
全体的に太い何かは、目も鼻も耳もない深海魚のようなつるりとした頭部。
裂けるように拡がり、疎らに歯の生えた大口。
口の横から挟み込むように伸びる鋭利な牙。
四本の腕は昆虫のようで、二つの肘関節と二本の爪。
象のように丸みを帯びた太い足。
この世のものとは思えぬ異形。
異形は裂け目を完全に潜り抜け、落下した。
どれほどの重量なのか。
その衝撃で大地が揺れ、木々が薙ぎ倒される。
逃げ惑う動物や魔物の鳴き声と鳥の羽ばたきが、森の悲鳴のようだった。
振動はメイネの元まで伝わり、酷い悪寒を運んでくる。
「みんな、逃げるよっ!」
焦燥感で満ちた声。
異形とは関わるべきじゃないと本能が訴えかけている。
鼓動が早まり、不安感が吐き気となって喉元まで込み上げた。
「大丈夫、大丈夫」
走りながら自身に言い聞かせ、乱れた呼吸を整える。
森の木々よりも巨大な異形からすれば、メイネたちなど取るに足らない存在だろう。
このまま何もなくやり過ごせる。
そう思いながらも、異形に背を向けているのが怖くて振り返った。
すると、視線を感じ取ったのか異形の顔がメイネへと向く。
身動きできぬ程の重圧が体にのしかかり、生存本能が危機を訴える。
ニヤリと異形の大口が吊り上がり、メイネが青褪める。
その心の隙を見逃すまいと異形が飛ぶようにメイネへ目掛けて突っ込んでくる。
巨体に見合わぬ速度を目の当たりにし、メイネは逃げられないと悟る。
進めていた足を強く踏ん張り急制動をかけて、異形を見据える。
「やるしか、ない!」
呼応して動き出すアンデットたち。
高速で接近する異形に左右から飛び掛かる。
反応した異形が二つの関節がある腕を鞭の如くしならせて振るう。
加速する回転運動を伴った一撃が二体の
地に打ち付けられた
原型を失いかけている
その動作が少し覚束ないことにメイネは気づかない。
そして異形の鞭を掻い潜ったアンデットたちが牙を向く。
異形の体の中で最も細く脆そうな腕の関節と、生物の弱点である頚部に飛びついた。
牙と鉤爪の嵐。
猛攻が異形を襲う。
異形が悶え、振り払おうと体を揺らすがアンデットたちは振り解けない。
異形の金属かと疑う程に硬質な頚部には傷を付けるだけに止まった。
しかし、腕には効果があった。
二度三度と攻撃が振るわれる度、節に切れ目が入った。
更に傷口を押し広げる。
そうして三本の腕を切り落とした。
鳴き声なのか、甲高く不快な音が異形の口から漏れる。
異形は残った一本の腕で薙ぎ払い、頚部以外に張り付いていたアンデットを引き剥がした。
メイネは、異形の力を大きく割いた手応えを確かに感じた。
一度目の攻防は優勢だったが、致命傷を与えることは叶わなかった。
「私が、やらなきゃ……!」
村を逃げ出してから僅かな時間しか経っていない。
それでも魔物に何度も襲われ、胆力は養われた。
アンデットたちが体勢を整えたのを確認して、メイネが飛び出した。
足を狼化させた
消えたのかと見紛う程の速度で異形に肉薄し、首筋を狙う。
メイネに振るおうとした鞭腕の付け根に
メイネが既のところまで迫る。
魔力で強化された狼の爪を振るうべく、腕を引いて構える。
しかしその腕が振るわれる直前、異形が後方へ飛び退いた。
「くっ……」
その距離はメイネの射程圏外。
そして、異形の射程圏内。
メイネは攻撃が届かず歯噛みする。
だが残る一本の腕を封じられている以上、異形にはこの距離での攻撃手段はない。
そう思っていた。
異形の腕の切断面から緑の体液がごぷっと溢れる。
表面に現れた体液を突き破り、内側から腕が生えた。
再生された腕の表面を体液が滴り、テラテラと怪しく光る。
「は……?」
完全に予想外の出来事に、メイネの思考が一瞬止まる。
異形はそこに付け込み、即座にその腕を振るう。
ヒュンと空気を切り裂き振り下ろされる腕。
「っ……!?」
反射的に腕を交差させて防御の構えをとる。
異形の一撃を受けた
アンデットではないメイネが受けて無事でいられる様な、柔な攻撃じゃない。
メイネは覚悟を決めきれず、恐怖を抱いてその時を待つ。
そしてその攻撃がメイネを捉えようとした時。
メイネの視界の端に一つの影が飛び込んできた。
影はメイネに体当たりし、突き飛ばす。
「……えっ?」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
メイネがさっきまでいた筈のところにいる影、ルウムを異形の渾身の一撃が捉える。
ルウムの体に計り知れない程の衝撃が加わり、内側で暴れた衝撃が生きていた頃の名残りである体内の組織を悉く破壊した。
しかし異形の攻撃はまだ終わっていなかった。
異形は、
内側に掬い取る様に放った鞭腕はルウムを異形の足元へと打ち落とした。
間髪おかず、象のような太く重い足が持ち上げられる。
これから起こることを理解したメイネの脳が、心臓が警鐘を鳴らす。
激しく脈打つ体が焦燥を募らせる。
心は体に、体は心に。
今まで感じたことのない程、何かを訴えかけていた。
ドサッと地に落ちたメイネが這いつくばったままルウムに手を伸ばす。
「やめてぇぇぇっ!」
気づけば口から出ていた叫び。
それが異形に届くことはない。
物心ついた時から一緒にいたルウムとの思い出が、次々に掘り起こされる。
遊んだり、訓練したり、ご飯を食べたり、水浴びをしたり、寝たり。
いつも、一緒だった。
アンデットになってしまったけれど、それはこれからも続いていくと思っていた。
しかし。
無情に下された足が、ルウムを踏み潰した。
異形が足を退けると、原型を失いルウムだったものがそこにあった。
メイネは理解してしまう。
もう
多くを失ったメイネに残った、たった一つの大切なもの。
それさえも、あんな意味のわからない化け物に奪われなければならないのか。
「あ……あ゛ああぁぁぁァっ!」
我を失い、メイネの喉が震える。
感情が可視化されたかの様にメイネの魔力が荒れ狂い、紫黒の奔流が辺りを支配した。
メイネの体に変化が起こる。
その全身が徐々に獣のそれへと移りゆく。
完全な狼化を果たしたメイネ。
月の照らす夜の様な美しい漆黒の毛並みが、巻き起こる風で揺れる。
「あ゛ああああぁぁぁァァっ!!!」
魔導書が浮かび上がると、暴れ回っていた魔力がメイネの周りに収束し、鯨波の如く解き放たれた。
一瞬の静寂。
凪いだ世界。
それを破ったのは大地の脈動。
異形が落下した時よりも遥かに激しい振動が世界を揺さぶる。
地面が隆起し、大地が内側から破られる。
這い出てきたのはこの地で命尽きたあらゆる生命の残滓。
骨だけになり動く筈のないそれらが数えるのも馬鹿らしくなる程次から次へと現れる。
木々が薙ぎ倒され、開けた森の一区画をアンデットが埋め尽くす。
その空間はどこまでも拡大を続けた。
異形からギシギシと歯軋りの様な音がなる。
「うるさい」
その音が癪に触ったのかメイネが低い声で呟く。
目にも止まらぬ速度で動き出したメイネの軌跡に漆黒の影が差す。
黒い光条となったメイネが異形の背後に現れる。
すると遅れて異形の体に幾つもの裂傷が現れ、四つ腕が千切れ飛び、緑の体液が噴き上がる。
「殺れ」
独り言の様な声音に、無数のアンデットたちが反応する。
再生しようと体液が蠢く異形の傷口をアンデットたちが食い破り、体内へと侵食していく。
異形は再生も許されず、内側から体組織を破壊され、夥しい数のアンデットに群がられる。
その巨体が覆い隠され、ぐちゃぐちゃと肉が崩れる音が蠢動するアンデットたちの下から聞こえる。
「そいつが生きていた証を、この世から消して」
メイネの命令が下ると不快な音は更に激しさを増す。
それからどれだけの時間が経っただろうか。
やがて音が止み、アンデットたちの骨の山が瓦解していく。
現れたのは異形の肉片。
大量の緑の体液とバラバラに欠けた甲殻。
「チッ」
それを見てメイネが舌打ちする。
「来なさい」
そう言うと、人骨のアンデットがキチキチとメイネの側に歩み寄った。
メイネが人骨のアンデットに手を翳すと、人骨のアンデットの胸部に暗黒の渦が現れる。
躊躇なくズプリと渦の中に手を突っ込んだ。
そこから手を引き抜くと、その手には何かが握られていた。
それは真っ赤な魔導書だった。
面白くなさそうにそのページを捲る。
そしてある呪文を見つけ、唱える。
「
真っ赤な魔導書が黒く輝く。
片手を上げたメイネの、その手の上で巨大な球状の青黒い炎がグツグツと鳴動する。
手が振り下ろされると、青黒い炎球が異形だったものの残骸目掛けて放たれる。
炎球が触れると肉片が焦げ、体液が蒸発し悪臭が立ち込める。
更に炎球が地にぶつかると質量を持っているかの様に、轟音が響き渡る。
それは異形を焼き尽くすだけにとどまらず、草木に波及し森を青黒い炎で染める。
「……」
メイネが、今は何も無くなった、異形がいた場所を見下ろす。
冷たい眼差しに何かが宿ることはなく、ただ無関心に振り返る。
そして一歩踏み出した時、メイネの狼化が解ける。
体が空っぽになったかの様な脱力感に襲われ、メイネは蹌踉めき膝を折った。
「なんか、疲れた……」
青い炎の牢獄から抜け出す体力も魔力も気力もない。
そんな時だ。
また空に裂け目が現れたのは。
「ちょっと、無理かも」
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