蒼の箱庭と紅の記録
空鳥ひよの
第1話 箱庭世界で生きる少女
僕はその付き人として、彼女の傍にいる。彼女に何かあってはいけないと、とある人と約束をしているからだ。おはようからおやすみまで、彼女の傍にいることが僕の役目だ。けれど僕はただ、彼女の傍にいるだけではない。他に果たさなければいけないことがあるからだ。それについては……まだ秘密にしておこう。
この箱庭では一日が現実と同じく訪れる。蒼の付き人である
「……二度寝コースかな」
失礼します、という声と同時に部屋のドアを開ける。彼は静かに足音を立てぬよう部屋に入り、豪華な天蓋のあるベッドのそばへと向かう。天蓋から伸びる美しいカーテンをそっと開けると、そこには穏やかな笑みを浮かべて、安らかに眠っている少女がいた。
「蒼さん、起きてください」
紅也は少女の身体を軽く揺さぶるが、一向に起きる気配はない。今日はどう起こそうかと紅也は頭を悩ませる。とりあえずこれでも試してみるか、と蒼の耳元で何かをささやいた。すると蒼は勢いよく飛び起き、なにやら叫び始めた。
「今日のおやつ無しはダメー!」
「あ、起きましたね」
それを見て紅也は軽く笑った。蒼は笑うの止めなさいと頬を膨らませながら言う。紅也はそれが面白くて、まだ笑っている。
「さあ準備をしてください。朝ごはんはもう出来ていますから」
「う……。わかった」
渋々と、蒼はベッドから抜け出す。もうちょっとだけ眠っていたかったけれどと小さく零すと、紅也がそれを聞き逃さなかったのか「おやつ抜きでいいんですね」と言う。彼女は大慌てで拒否を示し、紅也はそれを見てまたくすくすと笑った。
紅也が部屋から出ていくと、蒼は白いネグリジェからいつもの白と青を基調としたドレスに着替える。これが彼女の私服だからだ。特別偉いというわけではないけれど、一応彼女はこの箱庭世界の主。見た目だけでも、と主らしく綺麗なドレスを身に纏っている。
着替え終わった後は、朝の日課である朝食を食べ、その後は朝の散歩へ出かける。これが彼女の一日の始まり。のんびりとした日々を送るのがこの箱庭世界での過ごし方だ。
散歩ではたまに紅也も付いてくることもあるが、今日は蒼一人だけ。紅也は少し用があると言って、屋敷に残っていた。
「あー、今日もいい天気ー」
ぐぐっと腕を伸ばしながら、蒼は屋敷周辺を歩く。屋敷の周りは草花が咲き乱れており、それを見て癒しを感じる。中には綺麗な花が咲いており、時々蒼はそれを持ち帰り、屋敷に飾ることもある。
箱庭『
彼女の付き人である紅也は、とある出来事で出会ったところを蒼が拾い、付き人として雇った。たまに何か知っているような素振りも見えるのだが、彼はそれ以上の事を何も言わない。
さらにこの箱庭に住まう人物たちもまた、蒼についてはあまり知らない様子だった。何回聞いても「貴女はここの主でしょう?」という返事しか得られない。
蒼は時々、この箱庭世界の事を少しだけ何か歪さを感じるが、あまり気にすることはなかった。むしろそれ以外はまったくもって自由かつ気ままな生活ができる。それだけで十分だと、蒼はそう感じていた。だが、蒼がそう感じれば感じるほど、頭の奥の奥に何かが蘇りそうになる。けれど、それを『思い出してはいけない』という気持ちが強くなり、結局は何も思い出せぬまま。
日課である朝の散歩も終わり、蒼は屋敷に戻る。すると、紅也が屋敷内でバタバタとなにやら忙しそうにしていた。
「何かあったの?紅也」
「ああ、蒼さんお帰りなさい。いやーそれがですね突発イベ……じゃない、屋敷の中で動物が入り込んでしまいまして」
「動物」
箱庭には可愛らしい動物もいれば、住んでいる人に危害を加える危険な動物も存在する。恐らく屋敷内に入り込んだ動物は前者の可愛らしい方だと思われる。蒼は紅也にどんな動物が入り込んだの?と尋ねた。
「猫ですね」
「猫」
たかが猫一匹で騒ぐものなのか、と思いきやどうやら事情が違ったようだ。
「この猫、喋るしさらに台所にあったお菓子を取っていくしでその辺にいる猫とは違うみたいなんです」
「なっ……お菓子を取っていくなんて、なんという泥棒猫!いや、そのまんまか!!」
蒼は嘆いていた。奪われたお菓子はどうやら今日のおやつだったようで、それを知ったら尚更とっ捕まえなければならないではないか、と。蒼も協力をして、猫を探し回ることにした。
だが猫はすばしっこい上に、屋敷内は広い。探すのに困難を極めていた。もしかしたら猫はもう屋敷の中にいないかもしれない可能性もある。蒼は猫が入りやすい部屋を重点的に、紅也は主に屋敷の庭を見回ることにした。
「どこに行ったのよ、泥棒猫!」
おやつを取られた怒りがこみあげてくる。大人げないとか言われそうだが、彼女はまだ少女。見た目は美しい少女ではあるのだが、中身は未だに幼いままだ。
部屋を一つひとつ開けては見回ると、どこからか水音が聞こえてきた。蒼は最初、紅也が庭の水やりでもしているのだろうか、と最初は思った。だがこんな状況で彼は水やりをするはずがない。水音がする方向へ向かうと、そこは浴室だった。
浴室の扉が僅かに開かれており、蒼はまさかと思いその部屋へ入る。すると浴室では、泡にまみれた何かがもぞもぞとした動きで、浴槽の中にいた。
「いやー、まさかねー……」
泡の中をまさぐると、しなしなとした何かを触った。それを拾い上げると、そこには泡まみれの灰色のなにかが出てきた。
「あっ!ニンゲンに見つかってしまった!!」
「この猫ちゃんなのね!おやつ取った犯人は!!」
「チッ、見つけられたら最後よォ……」
そういって灰色の猫は蒼の手から勢いよく飛び出ていった。猫は浴槽の傍に置いてあった小さな袋を引きずり出す。蒼はそれを見てわかった。これが奪われたおやつだということを。
「……仕方ない、返すわこれ」
「意外と素直なのね?」
「見つかったら返す。これがおいらのルールでなあ」
猫の一人称で、蒼はこの猫がオスであることに気づいた。そういえばこの猫はあまり猫らしかぬことをしているし、おまけに喋っているなんて珍しいと思った。猫は基本、水に濡れることを嫌う生き物であると知識として知っているし、人の言葉をしゃべる生き物ではないことも知っている。
灰色の猫から奪われたおやつを受け取る。急いで中身を確認すると、全部無事だった。それと同時に今日のおやつはクッキーであることもわかってしまったので、楽しみが半減してしまったが。
「ありがと。……それであなたって猫なの?猫にしてはらしくないというか」
「ああん?何言ってますかえ、箱庭の主。おいらのような猫は珍しくないぞお?」
「じゃあお風呂入るのは……」
「我々にとってはエチケットだな!こんな猫の端くれでも、しっかり風呂は入るさねガハハハ!」
灰色の猫は豪快に笑いながら、浴室の窓へと勢いよく飛んだ。そして窓が僅かに開いている部分から猫はそこから出ていった。
「じゃあな!風呂あんがとさん!!」
「ふ、風呂泥棒!」
唖然としながら、蒼はその猫を見送った。まあいいか、とあきれつつも仕方ないかという顔をしていた。猫はいなくなったので、紅也に早速報告をしようと庭へ向かう。すると庭からなにやら悲鳴が上がっていた。蒼は急いで庭の声がした所へ向かうと、そこにはさっき浴室にいた灰色の猫がいた。
「僕の服を使って拭かないでください!」
「ええじゃろ~ええじゃろ~」
「それより奪ったお菓子は!?」
ほれあそこだ、と猫が蒼を指した。蒼の手にはお菓子が入った白い袋を持っており、紅也はそれを見て「なんだ」とつぶやいた。
「いや、なんだってこっちの台詞なんだけど紅也。というかズボン濡れているし、着替えに行きなさいな……」
「あ。……すみません、お言葉に甘えて着替えてきます……」
紅也は申し訳ないという気持ちでその場から立ち去っていった。その場に残された蒼は、灰色の猫の手に一つ渡した。それは先ほど奪われたクッキーだった。
「特別にあげるわ。ただし、もう泥棒をしないこと」
「おー、流石は主!ありがたくもらうでごわす!!」
この猫、口調が意味不明だなと蒼は思った。ただ悪い猫ではなかったので、それはそれでよかったと少しだけ安心した。猫はクッキーを加えてその場から立ち去った。なんだか嬉しそうにしながら歩いて帰っていったので、蒼はそれが少し可愛いと思っていた。
――屋敷内。
紅也は着替えをしに自室へ戻った。だが彼はそれ以外に用がもう一つあった。机の引き出しからとある端末を取り出す。手のひらサイズで長方形のそれを手にし、ボタンを押す。四角いそれは明かりがつき、紅也はそれを素早く操作する。何か文字を打ってそれを誰かに送信した。
『この世界になぜか変化が訪れている。それは本来ありえない出来事がここ数日起きている。彼女に何があったのだろうか、それとも「外」で何か起きているのだろうか。僕からの報告は以上だ』
彼が送信した先――メッセージの宛先は『
END
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