SUPINA

鳩鳥九

第1話



第一話〝遥かモノクロの向こう〟



(表紙絵はコチラからとなっております)

https://kakuyomu.jp/users/hattotorikku/news/16817330664850554141



 夜が明けたから目を開ける。だけど、何も見えない。

この世界の人間は、寝ているとき以外は必ずメガネをかけている。

否、寝ているときでさえ、殆どの人がメガネをかけている。


この世界の住民は皆、メガネをかけているのだ。


「あら起きた? 朝ごはんもう出来てるから」

「む~」


 私は意識が覚醒したからメガネをかけた。

寝返りを打っているときにメガネを取りこぼしてしまったのだろうか。

枕元に何気なく置いてあるそれは、この世界の生命線とも言えるものだった。

この道具の恩恵を受けなければ、人が見える視界はたったの〝1m未満〟である。


「お母さんは今日いつ出かけるの? 」

「今日は夕方からね。キノコが一番光るから」

「ふ~ん。なら時間あるね」


 私のお母さんや、村の老人のお話を聞く限りだと500年前……

突如起こった正体不明の超常現象〝SUPINA〟によって世界は深い霧に包まれた。

その霧は全ての無線を妨害し、狭い視界のせいで数え切れない事故が起こった。

人々は目の前がどうなっているのかさえ分からず、明日の食事にも困ってしまった。

飛行機は落下し、発電所は朽ち果て、連絡手段は潰えた。


「よく眠れた? 」

「うん! とっても! 」


 先史文明の多くは無線や電気に頼った生活を送っていたため

急激な生活水準の低下に耐えられず、各地で人口が極端に減っていった。

〝5m先まで霧を見通せる特別なメガネ〟が開発されるまでの長い長い時間……

世界中が振り払えないモノクロの霧の中で、鮮やかな物を誰も見たことが無い時代がやってきた。

そんな綺麗な模様や色を識別しにくい世界にも人々は順応していった。

その日の飢えを精一杯凌いでいるうちに綺麗な色に対する渇望も薄れていった。

人々は色に飢えている自覚さえ忘却した。

そして、世界が霧に包まれてから500年

私たちのご先祖様は霧から視界を広げる唯一の手段として

特別なメガネを研究しながら小規模のコミュニティを築いていた。

私はこの村の中で、すくすくと育っていった。


「時間あるけど……どうしたの? 」

「〝キノコの市場〝で本を買いたいんだけど……いいかなぁ? 」

「あそこはダメよ、嘘の本ばっかりなんだから」

「え~……」


 柵で囲まれた鶏が生んだ小さなタマゴで作った目玉焼き

視界が狭くても数人で見張ればなんとか管理できる小麦畑で取れた小麦粉クッキーのようなもの

正体不明の霧の水分を吸い込んで育った様々な食用キノコはこの時代の生命線だ。

それらを、曾祖父の時代からあった大切に使われているボロボロのスプーンとフォークで食べる。


「お母さんわかってないなぁ、嘘の本なんかじゃないよ。

 ご先祖様からのプレゼントだよ! 」

「あんなの嘘に決まってるわ。皆騙されて危険な旅に行っちゃうんじゃないの」


霧、メガネ、キノコ……この3つの文化軸が、私達の生きる基盤になっている。


「……危険じゃないもん、冒険者用のメガネならもっと視界が広がるもん……」

「あんなの普通のメガネと変わんないわ」

「違うもん、5mが10mになるんだよ!? きっとすっごいんだよ!? 」


 お母さんがため息をつく。お母さん自身も普通のメガネしか持っていないのだが、

娘が危ない目に合うかもしれないということを思い、市場に行かせようとしない。


「お母さんも、お父さんもね、市場のおじさんとは仲が悪いんだから……

 ルカが行っても本なんて売ってくれないわ。聞き分けなさい。

 冒険ばっかりするおじさんはね、意地悪な人ばっかりなのよ」


 冒険者を多く輩出し、冒険の戦利品で村を活気付けるキノコの市場

そこで稀に、先史時代の道具を見つけてきて売っているのだ。

私は幼いころ、そこでこっそり小さな絵本を買っており、いつまでも大切にしていた。


「えー……だって……」

「だってじゃありません! いい? あの市場に行ったら危ないのよ!?

 欲に眼が眩んで……メガネが曇って……冒険なんて馬鹿な真似をしちゃうんだから! 」


 滅多に怒ることのない優しいお母さんも、市場と冒険のことになると人が変わったかのように怒った。

市場でのオークションで一生を棒に振った村人は多い。

村の外の未知の領域に唯一触れることができるイベントだからである。

お母さんの一族は皆、市場を利用せずコツコツと服を作る一族だった。

市場に魅せられた者は高望みをしてろくなことにならないと、毛嫌いしているのだ。

だから今日もお母さんは、皮とビニールの破片で濡れても悪くならない合羽を編む。

私はそのお母さんの丸い背中を見て、親戚の中で自分だけ疎外感を持っていたことを感じていた。


「……あなた、まさか……」


 お母さんは、フォークをテーブルに置く。わなわなと手が震える。

カッとなってメガネを外そうとしたが、一度外してしまえば家の中でさえ

私の顔が見えなくなってしまう。

だからお母さんは必死に怒りを堪え、私に〝説教〟をした。


「まさか、市場だけじゃなくて……冒険に行くとか言わないわよね? 」


私は俯いて、コクリと頷いた。消え入りそうな声で言う。


「うん……」


 私は冒険することに強い憧れを抱いていたのだ。

いいえ、違う。勿論冒険もしてみたいけど、それよりも

私はもっともっと色んな〝色〟を見てみたいのだ。

もしかしたら冒険家の人たちはカラフルな外の色を知っていると思うから


「馬鹿な事言わないでよ! 村の外は本当に危ないのよ!?

 真っ青な海も、耳が長い人間も、空を飛ぶクジラも、全部御伽噺のことなの!

 お母さんはあなたの事が大事なの! 市場も冒険もダメ! わかるでしょ!? 」


 お母さんに腕を引っ張られた。反抗はできなかった。謝っても遅かった。

そのまま外に連れ出され、メガネを外す様に強く言われた。目から泪が零れた。

何も見えなかったからだ。怒るお母さんの顔も見えない。すぐ傍に慣れ親しんだ家があるというのに……


「いい? こんなに怖いのよ? 大昔の人は〝夜〟が怖かった。暗かったから……

 でも、今は〝朝〟も〝昼〟も怖い。一歩進めば、崖があるかもしれない。

 這いつくばらないと地面を見て歩けない。

 メガネがあったとしても……たった数m……走ることもできない……」


 反抗する意思はあった。そんな説教に負けないと強く思った。

しかし、メガネを外された状態で強く説教をされると萎縮してしまう。

遥か向こうの景色が見たかった。それなのに、目に見えない仄暗い怪物がすぐ前にいるようだった。


「は、走る練習はみんなしてるもん!

 メガネを付けたままなら……早く歩く練習……お母さんだって!

 冒険家の人の訓練にもなるからって……走る練習!! 」


 市場の人間にとって、冒険者は村の憧れだ。

彼らが冒険をするために必要な〝閉ざされた視界でも早く歩ける訓練〟は

この村なら誰だってお遊びでやったことがあるし

お年寄りの中では健康を保つ体操のように身近なものがあった。

私はそれが好きで沢山練習してる。まだ慣れないけど


「バカ! あんなのお遊びじゃないの! 馬鹿な真似しても意味ないわ!

 お母さんは絶対許さないんだから!! 」


 私は睨みつけられて萎縮してしまった。

そして思わずお母さんが怖くて謝ってしまったのだ。


「……ごめんなさい……」


 そして私は家の中に戻った。方位磁石も地図も、私の手元には無かった。

お母さんの作る服を縫合するための糸だけが、自分の未来を押し付けて縛る。

親子喧嘩になって、親にメガネを取り上げられた瞬間、この世界で生きることは難しくなる。

けれど、そんな現実なんてものともしないような、〝色〟が霧の外にあるのかもしれないと思うと、

私はその感情を押さえつけることができずに、また遠くを向いてしまう。

いつまでも食べきれない朝ごはんをフォークの上に乗せたまま、彼女は遠くを見上げる。



※※※



 お母さんは機嫌を損ねたわけでは無かった。

反省の様子が見られた途端、また〝いつも〟に戻った。

昼過ぎにはいつもの仕事をしたし、夕方にはキノコを採りに行った。

夜にはお父さんが帰ってくるので、お母さんはシチューを作った。

歯を磨いた。水分と石灰の混ざった液体をボロ布に浸し、身体を拭いた。

寝る準備をして植物と虫の音を聞いた。夜に眺める星が無いので、歌を歌った。

私の世界は生まれた時から、目隠しをされている。

おかげで鼻は利くようになったけど

〝青〟も〝ピンク〟も〝オレンジ〟も絵本のお話でしか聞いたことが無くって

それに近い色があっても、この村ではぼやけてばかりだった。


「……メクジラ」


 数年前、こっそり忍び込んだ〝キノコの市場〟のカーテンの色を思い出す。

村の、若者やお金持ち、お調子者や退屈な日々に飢えている人が皆集まる。

子供の私でも買えるようなモノは一つしか無かった。

そこには赤や緑……初めて見るような色があった。

けれど、そこに展示されている色は、外の世界のごく一部だという。

この村の外……霧の中にはもっともっと、見たことのない先史時代の宝物があるというのだ。


「……」


 そこに行けば、もしかしたら……

市場で売られている高価なものよりも更に、貴重で鮮やかな物が手に入るかもしれない。

広大な自然の緑、深く透き通るような青空、反射して照り返す砂漠の黄色の砂……

大人や村長達が御伽噺だと鼻で笑うモノの中には、きっと現実に存在するものだってあるんじゃないかと……

こんな霧が無ければ、もっとこの世界は美しい物に溢れていて、それらを自由に見れるのだ。

そう信じずにはいられなかった。思わずボロ布の枕を抱きしめる。

心臓の高鳴りを、お母さんに聞かれないように目を瞑る。


「……もっと度の強いメガネがあれば……私だって……」


 冒険者用に市場が提供しているシルバーランクのメガネが羨ましかった。

そのメガネを受け取るということは、冒険で得た報酬の一部を市場の見世物として納めるのだ。

ハイランクのメガネであればあるほど、職人の腕と材料の質が問われるので、

冒険に出ない者は、お金を出してもいいランクのメガネは手に入らない。

戦場に出る兵士と、貸し与えられる剣や旗のようであった。


「……別に、このメガネでも……外を出歩くくらいできるし……」


 お母さんの怒った顔と、普段の優しい顔が交互に脳裏によぎる。

〝キノコの市場〟の人々を不快に思っている人は数いれど

一族、家族単位で絶縁しているのはそこまで多くないはずだ。

どうして自分だけ、ここまで焦がれてしまったのだろう


「……家出……しちゃおうかな……」


 願う流れ星も見えないような、家の天井だって裸眼だと見えないような

閉じなくてもいいような瞼を、私は閉じた。

一晩中考えたいことがあるのだ。

考えたいことが、感じたいことが沢山、沢山あったのだ。



※※※



 朝がやってきた。また、霧で屈折した太陽の光の残骸が布団の上を情けなく彷徨う。

結局家出はしないことにした。その代わり、あまり行ったことのない所にこっそり行くことにした。

お母さんには友達の家に行くということにして、夕方くらいには帰ってくればいい。

具体的にはどこまでが危険で、どこまでが冒険者しか進めないところなのか。

その途中に珍しい物が無いか、1人でどこまで進めるか確かめたかったのだ。


「普通のメガネだから走ると危険だけど、うん。結構見えるし大丈夫よね」


 夜な夜な、ワクワクを抑えることができず、結構本格的に準備をしてしまった冒険セットがあった。

旅の装備は身軽であるべきだという妄想にも答えてくれる素敵なリュックだ。

〝メキキダケ〟が3本もあるし、ロープや刃物も揃えてある。

真夜中の自分がどれだけ、眠れなくなるまでそわそわしていたか一目で伺えた。


「毎日ちょっとだけ……歩ける範囲を広げていけたらな」


 生まれるずっと前から一緒に過ごしてきた霧の湿度も、こうなれば旅のお供として頼もしい。

村の北側の森には、キノコと同じくらい、樹木も高くそびえ立っている。

昔なら、針葉樹林だかなんだかの分類分けがされていただろうが

キノコの世界進出に伴って、世界中の植物がシャッフルされて生態系もバラバラだ。

混沌とした母なる大地は彼らとっては、たったの500年……模索中というところだろうか。


「ん~」


 背伸びをする。水を多く含んだ泥と苔の感触が靴を汚す。

この世界のフクロウは朝も鳴く。腐った落ち葉にも負けずに、霧深く鳴く。

あのお母さんの顔を忘れるには丁度いい冒険日和で、思わず鼻歌を歌う。

音と光と匂いと、たった5mのモノクロの世界を頼りに、私は歩く。

木の枝を折り、雑草をかき分け、冒険者以外は進めない立て札までついた。随分歩いたようだ。


「この時間は絶対バレないの知ってるよ。

 みんな遠出してるんだから……いいなぁ遠出、私もしてみたいのに」


 1人の時間が長ければ、退屈な時間が長ければ、どうしても独り言は増える。

私はそんな性格をしていた。だから今は、自分がこれから歩く道と会話をするように歩く。

返事をしてくれなくとも、今はいい。やまびこが聞きたいのなら、いつか山にも行けばいい。


「あれ? ……崖だったんだ……危ないなぁ」


 まるで森が続いているかのように、そこだけ急斜面になっている坂道が岩に隠れて、見えなかった。

近くまで来てようやくわかったことなのだ。そこに座りながら、斜面を見る。

メガネの度はなにも視界の広さだけではなく、並行感や奥行き、遠近感にも影響する。


「ここで少し休んだら、今日は帰ろう」


 土が思ったよりも粘度が高いようで、掛けようとした足が滑った。

石や岩ごと、斜面に転がるように投げ出された。肩を強く打った。


「きゃ……ちょっと! ……待……」



勢いで、メガネが外れた。そのまま見失った。



 13歳の身体は勢いに逆らえず、急斜面を転がっていく。

この世界でメガネを落としてしまったらどうなるか……

私だってよくわかっていたはずなのに、後悔しながら転がっていく。

帰り道を覚えていたとしても、足元が見えなくなるので、かなり危険だ。


「痛……ぁ」


 すぐに帰るつもりだった。お母さんの気持ちだって半分は理解していた。

危険だという認識はあった。冒険への渇望が油断を誘ったのか、

焦る、不安になる。視界が一気にぼやけ、目の前がモノクロの怪物に包まれていく。

どうしようどうしよう、とパニックになり頬を両手で抑える。

この時間帯は絶対に見つからない。

ということは村の冒険者の人たちは助けてはくれない。

メガネが無くても最低限、何がどこにあるか屋内でも確認できる。

でもここは外だ。もし危険な動物に出くわしてしまったら……


「メガネ……メガネメガネ......! どうしよう、メガネ……」



(大声を出す? 〝メキキダケ〟で照らす? 帰り道どこだっけ?

そもそもここはどこ? 崖は? 地図は? 看板? ロープ? どうしよう……)



 なんてことのない一歩が、とんでもないことになってしまった。

〝死〟のイメージが降ってわいたように浮かぶ。世界に自分一人だけになってしまったようだった。

昨日の説教を思い出して、顔が青くなる。一番思い出してはいけないことだった。


「……ご、ごめんなさ……」



「ねぇ」



振り返ると、1人の男の子がいた。



※※※



第二話 〝霧だけの知る 〟



 ――目を閉じている。

 湿る、という表現がいにしえより存在するが、湿っていないという状態がわからない僕らにとって、それは現実感を伴わないおまじないみたいな、意味のない枕詞みたいなものだ。この世界は湿っている、と、僕らはわけもわからず繰り返し口にする。

 湿った世界で、湿った空気を吸って、吐く。そうしていると、過度に供給された酸素がチリチリと脳を痛めて、閉じた瞼の裏に七色の光が散る。不思議だなあと思う、幼年の純真な興味を引き摺ったそれを繰り返して苦しくなって、はっと目を開く。

 あ、と声を出す。またやっちゃった。やめろってさんざん言われてるんだけど。

 起き上がって、重くなった頭を振る。するとかけていた眼鏡がちょっとずり落ちてきたから、慌てて押さえる。

 当たり前の朝を過ごしているのだ。薄ぼんやりとしたブルーグレーを白色に照らす紐で結ったメキキダケを枕元から自らの首もとに移し、部屋を出る。


「あれにいちゃん、いま帰ったの? おはよーっす」

「おーっすチカ。朝帰りってやつだぞ」

「何、今度の冒険は豊作だった?」

「そうそう、聞いてくれよ、」


 兄が仕事帰りのままの格好でもぐもぐとキノコをかじっていたから、僕も適当に顔を洗ってその隣に座る。と、目の前に無造作にメガネが置いてあることに気がついた。兄が仕事用に使っているやつだ。

 思わずごくりと喉を鳴らす。

 やっぱり興味には勝てないので、べらべらと仕事の愚痴を垂れ流している兄には適当な生返事をしておいて、目前のそれに手を伸ばす。


「ってあっ、おいチカてめえ」

「んー、やっぱゴールドランクは格が違うよなあ。この強度、デザイン、機能性! すべてがカッコイイ~っ!」


 兄の手から逃れるべく俊敏に立ちあがり、彼の所持品――旧時代のきわめて重要な遺物を村に持ち帰った英雄にしか贈られないという、超カッコイイ憧れのゴールドランクメガネ――を、ためつすがめつすしてみる。


「ぎゃああっ触んな触んな強度を確かめるな! 壊されたらまたなんかすげえの採ってこねえと貰えねえんだから!」

「採ってくりゃいーじゃん、仮にもベテラン冒険者だろ?」

「仮じゃねえし!」


 やいのやいの、リビングテーブルの周りを騒ぎながら追いかけっこをしていると、ふと、ズバン! と派手な音を立てて廊下に続くドアが開いたので瞬時に空気が凍る。そこには寝起きの悪い母と眠たげに笑っている父とがいて、そして、怒号が飛んだ。


「あんたたち……朝っぱらからうるさいんだけど!? ふたりとも外でやりなさい!」


 母の機嫌は眠気がなくなる昼くらいには治るので、ここは言われたまま逃げるが勝ちである。

 僕は手に握ったままの兄の私物にちらりと目を落として、収まらない高揚感に失笑をこぼし、なんか面白そうだしちょうどいい機会だからこのまま鬼ごっこでもしてやろう、と決意した。

 こんな感じだ。僕というやつは。名前をチカといって、歳は12、遊びたい盛りである。


「はーいかあちゃん! いってきまーすっ」

「なんで俺まで怒られてんだよ……っておいチカ、俺のメガネ!」


 どたばたと家の外に出て、走る走る。視界が悪いのになぜ走れるかというと後ろに日常用にシルバーランクをかけた兄がいるからで、危なければ彼が止めてくれるという信頼があるからだ。ゆるやかな風を切り、僕はたまらず声をあげて笑う。兄がいないと走れない。走れるのは、そうだ、楽しいのだ。

 兄はさすがに冒険のプロともあって体力が桁違いだから、追い付こうと思えばすぐにでも追い付けるはずで、しかし僕の気が済むまでは早朝ランニングにつきあってくれた。僕が先に息を切らして足を止めて、名残惜しく兄の手にゴールドランクを返して、湿った世界ではなかなか蒸発しない汗をぬぐう。


「チカぁ、てめぇ、マジありえん、疲れてんだって……」

「はーっ。ごめん! でも楽しかったよ、サンキューにいちゃん!」

「……ま、いいけどな」


 兄は優しい。僕のにいちゃんで、村の英雄だ。なんだっけ、なんかもう覚えきれないくらいたくさんの物を、たくさんの場所へ行って持ち帰り、僕らに豊かさをくれた人だ。ゴールドランクのメガネは彼の象徴でもあって、だから、僕は、どうしようもなくそれに惹かれているのだ。

 クールダウン。無彩色の濃霧にひたされた帰路をゆっくりと歩みながら、僕は兄の顔を見上げてぽつりと溢す。


「ゴールドランク、いいなあ」


 兄は僕を一瞥して肩をすくめた。


「欲しかったら行くしかねえよ。冒険に」

「行きたい」

「じゃあ行け。誰も止めねえ。お前がやりたいことをやればいいんだ」

「それはそうなんだけどさあ」


 なんだかなあ、きっかけ、みたいなものをなかなか掴めずにいた。冒険に出て、活躍して、兄と揃いのメガネをもらったら、どんなに楽しいことができるようになるだろう。そんな夢だけを安穏とした日々のさなかに抱えて、それがはっきりと目標に代わる瞬間をだらだら待っている。踏み出せないのは、なんでかな、わかんないや。

 兄は眠りたいからと言ってさっさと家に帰ったが、僕は母の眠気が覚めるまでは時間を潰したかったから、そのままふらふらと歩き出す。

 優柔不断な僕はそれでも冒険に憧れるから、村の外にはちょくちょく出てまわる。今日もまた気が向いたから、村と外界の境界を越えて、安全性の確証もない道をひとり歩いた。このあたりの地形はもうすっかり覚えてしまっているから、視界は悪いが多少は動き回っても平気だ。地形や気候、土のぬかるみなんかの環境条件がわからないほど遠くには、まだ怖くて行けていないが。

 それでもよかったのだ、この日は。ゴールドランクへの憧れや遊びたいだけの気持ちを持て余して、冒険する決断もできず家族に甘えるばかりの僕でも、それだけでも、よかった。

 ただ、僕はそこに通りすがった――大切なのは、その事実ひとつだ。


「うう、メガネ……」


 霧の最中を散策していると、ふいに、声が耳を掠めた。半泣きで消え入りそうな、女の子の声だった。

 僕はもちろんびっくりして、声のした方へ慎重に歩みを進めた。霧の先になにか僕の把握していないものがある、それはある種の恐怖でもある。だからゆっくり。一歩、二歩、もっと。そして見つけた。地べたで薄汚れた格好でうずくまっている、裸眼の少女の姿を。彼女は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、うわごとのようにメガネメガネと呟いてぺたぺたと土をさわっていた。


「……ご、ごめんなさ……」


(え……なんの……謝罪?)


「ねぇ。……大丈夫?」


 問いかけると、彼女が振り向いて、目があったような気がした。が、裸眼ではとうてい見えないだろうと思ったから、ぐんと近づいて顔をつきあわせる。


「あっ、え? だ、誰!?」

「僕? チカ。ちょっと君を助けようと思ってさ。どうしたの君、メガネは?」


 至近距離だからか真っ赤な顔をして、困ったように視線をさまよわせながら、彼女は涙と言葉の中間くらいの、言うなれば動揺そのものをあわただしく吐いた。


「そ、そう、メガネ! あの、わ、私のメガネが……っ」

「あぁそっか。君、落ちちゃったか。そこの崖から。それでメガネが吹っ飛んじゃった?」


 涙目でこくこくと頷いた彼女に、「ちょっと待ってよ」、と言いつけ僕は荷物に手をかける。

 家を出る際にとっさに掴み、肩にかけていたポシェット。その中身はひとつのメガネケースだ。僕はそれを開いて、少女に贈るにはすこし無骨かもしれない四角い黒淵メガネを、彼女の顔にそっとかけてやった。かすかに両耳に触れた手に、彼女はちょっとくすぐったそうにした。


「はい、どうぞー」

「……わ! うそ。これ、あなたのメガネ?」

「にいちゃんのお古。うちのにいちゃん冒険者だから、もう普通のはいらないだろ。で、僕よくメガネ壊すからさ、いつも予備で持ってんだ」

「お兄さんが冒険者!? すっご……、え、よくメガネ壊すの……?」

「まあな!」

「えぇ……うそお……」


 ブイサインしたら引かれてしまったので、大人しく手を下ろすと、彼女は一息に脱力してずるずるとへたり込んでしまった。もともと涙目だったのが、とうとう決壊して、湿った土の上に透明な雫が落ちる。メキキダケの光を吸った雫はやけにきらめいて見えた。

 え、なんで今泣くのさ。もう解決したんじゃないの。

 僕もさすがに狼狽えてしまう。どうにか励まさないと、と焦って彼女に目線を合わせるべくしゃがみこむ。


「私、し、死んじゃうかと……メガネ、なくて……なのに……よく壊すとか、なんなの。ありえない!」

「な、なんだよ、僕は生きてるぞ。君も生きてんじゃん。平気だよ、死なねーよ」

「平気じゃないよお! 外は、危険なのに、出ちゃいけないのに……っ。なんでよ。意味わかんない!」

「あーっちょっとまって勘弁して。泣くのやめよう。ほら、なんか、さ! 楽しいこと考えようぜ! な?」

「急になに、楽しいことって! 楽しい……、こと……」


 僕は冒険の術については兄の影響で詳しい方だが、泣いている女の子の宥めかたはひとつも知らない。冷や汗をかきながら、苦し紛れに提案をすると、さいわい彼女はぴたりと涙の勢いをおさめてくれた。よかった。知らずのうちにこわばっていた肩から力を抜ける。

 彼女は一転、泣き止み、顔をあげる。やっぱりそのメガネじゃ似合わないかな、と思う。見付かるかどうかも壊れていないかどうかもわからないが、あとで改めて彼女の物も探してみるべきだろう。


「……うん、ごめんね、取り乱しちゃった」


 恥ずかしそうに笑って、涙を拭う。それから彼女は傍らに転がっていたコンパクトなリュックサックを引き寄せ、中からあるものを取り出した。


「チカくんだっけ。助けてくれたお礼に、宝物、見せてあげるね!」

「宝物?」

「ほら、見て」


 泣き腫らした目をしかし得意げに輝かせ、彼女がそれを差し出した。

 小さな、絵本だ。鮮やかな絵具で描かれた表紙には、メクジラ、の文字がある。ページをめくると、まばゆい極彩の、蒼をまとって空を行く鯨の姿が、悠々と描かれているのだった。絵本とは言うが物語は記されておらず、メクジラと云われる空飛ぶ鯨たちの暮らしの営みを、ただ何枚ものイラストが色彩豊かに語っている、そういう本だった。

 絵のなかにちりばめられた、色、それは生命の表現だ。宝石よりも、ずっと深くて、不確実で、きっと美しいのだ。そう思うことのできる、圧倒的な色の奔流だった。メクジラは霧の無い空のなかであざやかに尾ひれを振っている。

 いつのまにか肩を寄せあってその本に見入っていた。きれいなものを目にする機会は、この濃霧に閉ざされた世界ではかぎりなく貴重なものだ。


「へー、いいじゃん」

「うん! 私ね……、この景色が見たくて、ずっと……きれいなものが見たくて」


 憧れを語る彼女はすっかり笑顔で、見えないはずの遠くを決然と見つめていて、


「でも」


 そこで言葉が途切れて、彼女はみるみる表情を曇らせた。

 咄嗟に、また泣かれたらたまらないと思ったから、どうしたの、と聞き返す。彼女は小さく頷いて、おずおずと話し出す。


「冒険……、だめって言うの、みんな……」

「だめ? なんでさ?」


 僕は思わず首をかしげた。

 冒険者は英雄だ。冒険者の功績は単純に村の収入にもなるうえ、持ち帰ったそのものだって僕らの暮らしを発展させる糧となる。それによって市場ができて、小さくても経済がまわる。それに、冒険は、なんだかんだと言っても楽しいのだと兄が語っていた。未知の恐怖との邂逅は、同時に心にまで巣食った濃霧を切り拓く意志の躍動でもある。

 未知の恐怖との邂逅――それを楽しいと呼んでしまう人間が確かにいるわけだから、だめなことなんてひとつもない。


「だってこんなに、危険で……今日だって、たまたま貴方が通りかかったから助かったけど、通りかからなかったら、」

「この辺は冒険者がけっこう通るから、平気だと思うけど」

「そ、そういうことじゃなくて!」


 彼女は困ったような怒ったような口調で言って、開いていた絵本をぱたんと閉じた。それが元通り鞄に仕舞われると、世界が急激に色を失ってしまった気がして、かすかな寂寥が残った。


「そう、あのね、私が怖いんじゃないの。あ、さっきは私が怖かったんだけど、それよりも冒険に行きたい気持ち、まだ大きいから。私じゃなくて、私の家族がね、みんな、誰も、認めてくれないから……。今日はね、家出、ほんとはしたかったくらいで……」

「家出?」


 困ったように頷く彼女。

 僕は言葉を何度か反芻する。家出、家出かあ。家庭という僕らこどもにはおおむね不可欠な日々の後ろ楯を自ら断ってまで、そうしてまできれいなものを見たいのだろうか。彼女にとって家庭の居心地がどうかは知らないが、それでも――それは生半可な憧憬ではない。

 なぜか、気の引き締まる思いがした。

 彼女はうなだれたままで、膝を抱える。


「これからどうしよう」

「……どうって、」


 僕はたんに、率直に、すげー奴だなと思ったのだ。夢に向かう一歩を、家出してまで彼女は踏み出そうとした、それって僕にはできないことだ。知識や体力や好奇心だけ有り余らせて、決断力だの意志だのが少し足りない、僕には。

 そして気づいた。僕のできないことは彼女が、彼女のできないことは僕が、できるのかもしれない、ということに。それは不思議な感覚で、新たな期待への高揚と言うよりも、しっくりくると言った方が近い。そうあるべきだという確信が、刹那、胸の奥に生じたのだ――待ち望んでいた、僕の、きっかけ。


「行こうぜ、冒険。僕と」


 すんなりと言葉が出た。え、と声を出した彼女の顔が上がる。


「だめ? あと、そうだ。君、名前は?」


 彼女は四角いフレームの向こうで目を見張って、じっと僕の顔を見た。世界を覆い尽くしたブルーグレーの霧だけが、ここでちいさな出逢いを果たした僕らのことを知っていた。


「――私は、ルカ」


冒険が始まる。



※※※



第三話〝泥の箱〟



 チカくんの揚々とした気持ちに引っ張られてそのまま北へ北へ、

帰ったらお母さんに怒られるかもしれないけど、帰らなければ怒られないんだ。

なんて、そんな考えも二人分のサクサクと枯れ葉を踏む足音に飲み込まれる。


「そうと決まれば食料を持ってくわ。

 家、このあたりなんだけど……ちょっとだけついてきて? 」

「え……いいけど……冒険することを家族に報告するの? 」


 チカくんの家は思っていたよりも早く着いた。

冒険者の兄……というよりも、ゴールドクラスのメガネを保有しているお兄さんがいる家だ。

私の家よりも大きかった。私のお母さんが作った服、買ってくれないかなーと思ってしまった。


「家族に報告? まさかぁ、こっそり行くんだよ。数日分の食料を持っていくから、ちょっと待ってて」

「あ、……うん。でもお兄さんバレたら怒られない? 」


 家族にバレたら怒られるという自分の体験談を引き合いに出しながら、

思わずチカくんに言ってしまった。すると、思いがけない返事が返ってきた。


「にいちゃんな……徹夜明けで今ぐっすりなんだぜ? 」

「え……あ……そうなんだ」

「さて、じゃあ準備できたし、行こうぜー」

「は、早っ……」


 どうやらこの家だと、あんまり気にしないということで、

多分お兄ちゃんが凄腕の冒険者だと、そういうのはないのかな……

ともあれ、自分の家との環境の差に驚きつつ、私達の偉大なる冒険の第一歩は始まったのだ。

急に決まった冒険だから、具体的な目的地なんて無いんだけどそれでも私は今、機嫌がいい。

チカくんのお兄さんのメガネの掛け具合も馴染んできて申し分ない。

本当にあの冒険者になったみたいだった。


「今からどこ行くの? 私ね磁石は持ってきたんだー」

「にいちゃんがこそっと教えてくれた洞窟がある。

 ……そこに行けば面白いものがあるんじゃないかって」

「おお~、いいですなぁ、面白そうですなぁ」


 チカくんが細い目で私を見てくる。しまった、調子に乗りすぎたかな?

ともかく磁石だけでは冒険は成り立たないということらしく、彼は場所を確認する手段を探す。

私は得意げにリュックの中を漁る。こういう時のために私は昨日準備してきたんだ。


「地図ならあるよ」

「おっ! やるじゃんか、これで随分楽ちんに……」

「小さいころに書いた落書きだけど」

「……」


 嫌な顔をされた。無茶を言わないで欲しい。

市場に行ったことのない人間が得られる村の外の情報だって限度があるんだって、

かなりいいかげんな地図であったことは確かだけど……

そもそも今日家出する予定なんて無かったんだもの。


「……い、いや、大体の地形はまぁ……酷いけど間違ってはいないし……

 何よりも、この地図……というか書き込めるような紙があることが大事だ。筆ある? 」


 筆というよりも、古い羽ペンならある。

フクロウの小さな羽のペンだからそんな立派な物じゃないんだけど……


「オレとにいちゃんの知ってることを書きこめば……その場しのぎだけど、使えると思う」

「わぁ……すっごい! チカくんなんでも知ってるんだね! 」

「まぁにいちゃんに比べたら全然だけどな」


 そっか。チカくんは冒険術だけじゃなくて、こういう知識もあるんだ。

私はすっかり感動して両手をふんふんと振る。

まだ冒険が始まって数時間なのに声が大きい私を見てうざったいと思っているように見えた。


「そんなことないよ!

 だって私、チカくんがいたからいつもは行けないようなところに行けるんだもん! 」

「……え」


 チカくんの目が丸くなる。きょとんとしたように目線が私の顔を見る。

歩きながら地図に書き込んでいた羽ペンが止まる。どうしたのかな。忘れ物?


「あー……うん。そっか、そうかもしれないな……」

「うん? 」

「なんでもないって」


 チカくんはどうしてだか早歩きになり、顔を隠す様に私の方を見ない。

私も早歩きになって追いかけるけど、チカくんはもっと早く歩く。


「あと、〝チカくん〟って言うなよ。同じくらいの歳だろ? 」

「私13歳」

「え……僕は、12……」


 もっと歩くスピードが速くなる。これ以上速いとメガネの視界から外れるから危険だ。

手を繋いじゃえば見失わないかな? なんて焦りながら思う。


「ふーん、じゃあチカ〝くん〟の方がちっちゃいんだ」

「なんだよ、お前だってさっき泣いてただろ? 」

「泣いてるのは関係ないよ」

「絶対ある! 」

「な~い~で~す~! 」


 そのまま、早歩きでどんどん進む。

目の前に広い池が見えたので、チカく……チカはそこにペタリと座る。

私も息を切らしていたので追いついて隣に座り込む。


「と、とにかく池があるんだから、飲み水を汲もう」

「飲めるかどうかわかんないじゃん」

「いいんだよこれだけ透明だったら飲めるに決まってんだー! 」


 凄い早口で言われたので、仕方なく飲み水を汲む。

もしかして私とチカって結構相性悪かったりするのかな?

コポコポと植物の殻を布で巻いた水筒の中に水が入っている。

もうしばらくかかりそうだから、片手で救って水を飲む。うん。飲めそう。


「……ねぇチカ~」

「うわぁ、びっくりした! 急に呼び捨てかよ! 」

「え、だって〝くん〟呼びは嫌だって」

「そーだけどお前……」


 もう少し大きな水筒にした方が良かったかな。1つしかないから二人分には足りない。

もう少し沢山の水をここで飲んでおくのが得策だと思ったので、

私は手ですくって水を飲もうとした。けどやっぱりやめた。カチンと来たからだ。


「チカだって〝お前〟って言わないでよ」

「……だって」

「だってじゃない。ルカでいいよ」

「……ルカ、」

「うん」


 もやもやが晴れたことを確認して私はゴクリと遠慮なく飲む。

まだお互いがどういう人なのかわかっていないからなのだろうけど、

チカは私のことを戸惑いながら不思議そうに見ている。

そりゃ、女の子に色々言われちゃった男の子だから、

気にくわなさそうにむっくりと納得してなさそうな顔を浮かべているときもあるけど、


「あのさ……」

「なに? 」

「さっきは、ありがとう」


私は言葉の意味が分からなかったからどういうことかを尋ねる。


「冒険したくって、ずっと近くのにいちゃんの真似ばっかりしてたんだけど……

 身長とか、知識とか、走る力とか……全然追い付けなかったから……」

「どういうこと? 」

「わ、わかんねーならいいよ! 」


 水筒に入れるはずの水はもう、これ以上入りきらないくらい沢山入っていた。

それに気づかずに私は無意識に言った。


「わかるよ。チカくんはずっと近くのお兄さんのことを見てたんでしょ? 」

「違……そうだけど……ルカはどうなんだよ。兄弟とかいねーのかよ」


話題を変えられちゃったような気がするけど、気にしないで答える。


「兄弟はねー……いないんだ。ずっとお母さんと暮らしてる。

 お父さんはいるんだけどね。あんまり喋るのが得意じゃないみたいで……

 だから、1人の時はずっと遠くの景色を見るようにしてるの」

「見えないのに? 」

「まぁ、ね~……遥か向こうに、もしかしたら綺麗な景色があるのかなって」


 近くのお兄さんばかり見てきたチカと、遠くの景色が見えればいいのにって思ってた私、

なんだかあべこべなんだ。もしかして本当に相性が悪いのかな……

いやいや、こんなことで気弱になってたらダメだ。


「……水筒」

「あ、そうだった」



……行かなきゃ



※※※



 そのまま数時間、日が暮れる寸前のところまで歩き、私たちは例の洞窟までたどり着いた。

大昔にはマジックアワーと呼ばれるその夕方と夜の境目の時間帯の、

元の景色さえ知らないまま歩いてきた私たちには、

ゴツゴツとした空洞に吸い込まれるすきま風を肌で受け止めながら、

音がとめどなく反射して飲み込みそうな闇の合間に足を踏み入れた。

そのなんとも言えない洞窟は、月に一度冒険者が採掘をしてきた場所でもあり、

私たちの最初の目標地点だった。私の絵本とは関係があんまりないかもしれないけど、

見つかるお宝によっては、次の目的地の手がかりになるかもしれない。

それに洞窟の中であれば雨風も凌げるし、一夜を明かすには丁度いいだろうと思ったからだ。


「ここが……市場の珍しい物がほりだされてる洞窟……」

「シルバーメガネの冒険者なら1日で往復できるんだって」

「へ〜、往復ってことは……私たちまだ折り返し? 」


 ひぇ~、やっぱり鍛えてる冒険者は足腰が違うんだと驚きながら、

私はメキキダケの元の土をベリベリと剥がす。

1日でかなり遠いところにまで来たと思っていたけど、

大人やプロからすれば大したことが無かったという事実に、俄然、やる気になってきた。

メキキダケは土壌と接している部位が損なわれたら、そこの成分を補うために菌が活発になる。

使い捨てで一晩しか使えなくなっちゃうけど、強く光ってくれる。


「え? もう使っちゃうの? 勿体ない! 」

「洞窟に行くんでしょ? 夜の洞窟だったら使わなきゃ」

「今から入るの? 朝まで待てばいいじゃん! 」


 身体は疲れてるけど、水分は沢山取ったし、何よりもさっきのプロの冒険者の話を聞いて、

居ても立っても居られなくなったのだ。


「そもそもこの洞窟はもう殆ど掘り尽くしたってにいちゃんが……

 夜にはキリコウモリも出るし……」

「ヤダ! もしかしたら何かあるかもしれない」


 私はチカの言葉も聞かずに、ぬるぬるとした岩に足をかける。

夜の洞窟では、冒険者用ではないメガネなのだから当然、足を踏み外しそうになる。

チカは私の後ろについてくるが、どうにも慎重になっている。

でも、このワクワクが止められない。自然に足が動いてしまうのだ。


「あのな? 洞窟のどの岩にお宝が眠っているかっていうのは、

 経験でわかるんだってにいちゃんが言ってたんだ!

 土の盛り上がりや、金属と雨から出てくる錆のニオイ……岩の成分……

 この洞窟はもう50年以上ずっと冒険者が採掘してきてる、

 〝ありそうな場所〟はもう殆ど掘り尽くしたんだ!って……

 だから焦る必要なんてないんだって、戻ろうぜ? 」


 チカは私の知らない知識で、この洞窟にはもう珍しい物はないかもしれないと教えてくれる。

でも、それはあくまでも可能性の話であって、私のこの胸の高鳴りとは関係……きゃッ!

私は限りなく四角の形をした岩穴の中に足を滑らせて尻もちをついた。

〝限りなく四角い岩穴〟……ということは、誰かが採掘をした跡であった。


「ったく、大丈夫かよ!

 な? いっただろ? その穴は昔の冒険者の先輩が掘った跡なんだ。

 岩に名前と功績も彫ってあるだろ? ……100年前の缶詰を発見したんだってさ」

「うん……大丈夫……あ、れ?」


 後からジャンプして岩穴の中に入ってきたチカが、メキキダケで岩肌を照らす。

苔やザラザラした砂の塊で見えにくくなってはいるが、

17年ほど前に、100年以上前の缶詰(?)を掘り尽くした、と彫ってあった。

ふと、私はさっきチカがジャンプしたことで地面に出来た〝くぼみ〟を見つけた。

私たちはそんなに体重があるわけじゃないのに、こんなくぼみができるとは思えなかった。

私は真下を、掘ってみた。リュックの中のスコップで、


「お、おい……何してんだよ」

「こんなにくぼみができるって、変じゃない? 」

「別に……洞窟の下に空気の層か、柔らかい土があるんじゃないか? 」

「……なんとなくだけど、違うと思う」


 チカはまだ、私みたいにワクワクはしていないんだと思う。

チカは知識を持っているから、私の行動が無駄だとわかってしまうからだ。


「出てくるとしても……缶詰の……蓋とか……」


 この高揚感はなんなのだろう、この感触……空洞にしては……大きすぎるような……

私のスコップが抜けなくなった。底の岩が硬くて刺さった?

違う。〝柔らか〟くてぬかるみに飲まれたのだ。……泥だ。


「プロの冒険者は宝物が見つかりやすい場所がわかるって……言ったよねチカ」

「うん……だからここはもう、ずっと昔に掘り尽くされてるんだ」


 泥に覆われた巨大な空洞が一気に溶けて、床が抜けるかのように、

洞窟の底の、四角い岩穴の、更に下の地面が、崩れていく。


「じゃあさチカ……100年前に眠っているお宝の……真下に……

 更に地中深くにお宝があったら……プロの冒険者の経験でも、わからないんじゃない? 」

「そんな無茶苦茶な偶然……でもまさか……」


 私は水筒の水を全部、その最後の乾燥した土にドバドバとかける。

土は泥になり、足場を支えている硬い土が一気に柔らかくなる。

グチャグチャと水と泥が下に落ちるとともに、私とチカは下まで泥の滑り台のように流された。

100年以上前のお宝の缶詰の採掘跡の下に、500年以上前の……空間があった。


「なにこれ……」


 そこは異常な空間だった。何もかもが非常に硬く、そして直角だった。

規則正しい直線の造形物や、直線状の深くて長い〝溝〟……

〝溝〟の下では2本の平行な……またも金属の棒がずーっと、

メガネでは見えない距離まで伸び切っていた。


「ほら見てチカ、500年前の文字だよ」

「あちゃ~、コレな、〝カンジ〟っていう文字なんだぜ?

 多分、流石のにいちゃんでも読めない……あ~あ、ここまでか~」


 チカが諦めそうになった、その時だ。

私は気が付いた。〝カンジ〟の上に……小さく文字がふってある。

そう。〝ふりがな〟というもので……これなら、……読める。





『地下鉄』





「チカ……テツ……」


私の目の前にある、その空間は、……〝チカテツ〟という名前の〝泥の箱〟だったのだ。


「すっげぇや……この泥の箱……見たこともない色の組み合わせだ……」

「うん。……ところどころ錆てるけど……綺麗……」


 2人で一心不乱に、その泥の箱を触り続けた。

それ以外の文字も色々あったのだが、〝カンジ〟が多用されていてとても読めない。

そして、それだけではなかった。


「そこにいるのは誰だ!? 」


振り返ると、耳の長い男が、弓矢を構えて立っていたのだ。



※※※



第四話 〝闇の迷宮〟


 逃げるぞ、と耳打ちして駆け出した。彼女の手を引きまっすぐに走る。地下鉄というやつはどういうわけか構造がまっすぐだから、見えなくても迷わなくて済む。しかしそれは向こうも同じことで、いくらまっすぐに走っても僕らには身を隠す場所もなくて、だから見えなくても道を逸れるしかないのだ――壁が途切れて見えた刹那、僕は迷わずそこへ飛び込んだ。強引に手を引かれたルカが、急な方向転換に足をもつれさせる。


「きゃ……」

「静かにっ。いい、黙って走るんだ。撒くよ」

「そ、そんなこと」


 できるの、とか、なんで、とか言おうとしたのだと思うが、声にならなかったのは不意に現れた下り階段のせいだ。派手に転げ落ちそうになるのをお互いを引っ張りあって支えた、そのまま、危ないのは承知で何段も飛ばして駆け降り、広がる地下空間を狭い視界頼りに走り回る。壁が見えたら曲がって途切れたらそこへ入るを不規則に繰り返していく。ところが走り慣れないルカがすぐ息を上げてしまって、限界の呼吸をして足を震わすから止まらざるを得なくなった。近くに隠れられそうな小部屋を見つけ、ひとまずそこに入って休もうと決める。

 地下だから真っ暗な小部屋を胸元のキノコがぼうと弱々しく照らす。小部屋の隅にはカウンターテーブルに仕切られたさらに狭い空間があって、僕らはその足元に身を寄せて座り込んだ。ルカが生命的に駆られた動作で水筒を取り出したが、あいにく水はもうないことに気づくと脱力する。


「はー……もう、チカ、なんてことするの! 見えないのにこんな走って、案の定階段であぶなかったし、あぶなかったのに止まんないし!」

「だって逃げなきゃ。あいつ、弓矢構えてたんだぞ。殺されるとこだったんだぞ」

「ころ……っ」


 ルカが息をつまらせ噎せ返った。冷や汗の浮き出た首もとが見えて、さすがに消耗が激しいから不安になる。いやあの男に見つからないかどうかのほうが不安だが、ここで彼女がダウンしてしまえばそれこそもう終わりだと思う。ふつうなら走る機会なんて無いまま育つ。そのうえ長時間歩いて疲弊していた矢先で水もない。僕の感覚で体力を使わせるのはそれだって危険なことだった。


「大丈夫? 疲れた?」

「大丈夫なわけないでしょ。チカはなんで平気そうなの……」

「僕はちょっと鍛えてるから」

「うぅ……私も鍛えなきゃ……」

「うん。それはいいけど」


 それはいいけど、どうする? この状況。

 ひとまず彼女の呼吸が落ち着くのを息を潜めて待った。外に足音が聞こえないかと気を張っていたからそれだけでも消耗を強いられる。この地下空間一面に貼られた冷たいタイルの感触を、これなら足音は消せまいと信じるしかなかった。だが同時に僕らも音には気を付けなければならない。だって。


「あのひと……耳長族、だよね」ルカが膝を抱えてぽつりと言った。「本当にいたんだ……」

「いるよ、でも謎が多い。にいちゃんも会ったことないって。耳がいいからメガネを使わずに暮らせるって、話だけある」

「聞いたことあるよ。市場に忍び込んだとき誰かが言ってた」

「こんなとこに隠れて暮らしてたんなら、見つからないはずだよ」


 互いになるべく距離を詰めて声を潜めて話す。耳長族の耳がいいというのがいったいどれほどかわからない以上、部屋に入ったからって油断はできない。

 焦りに追い立てられている。ルカの呼吸がなかなか戻らないのは身体的な無理だけに起因してはいないだろう。体力にまだ余裕があることを考えればいま周囲を警戒しなければならないのは僕だ、その気負いがまた僕自身にも牙を向く。できるだけゆっくりと呼吸をした。できるだけ冷静でいるために。

 ところが、ふいに彼女がくすくすと笑いだしたから、僕は驚きと焦りで硬直してしまった。


「……でもこれで、シルバーランクは間違いなしだよね。新しい地下空間に、耳長族の住処の発見だよ。すごいよ私たち。やったね、チカ!」


 メキキダケが彼女の満面の笑みを最後に照らして、ふっとその光を収めた。だからか、疲れきっていても心から嬉しげだったその表情が、強くまぶたに残った気がした。呼吸が軽くなる。少し。そうだ、ここは決して絶望一色の局面ではないのだと思い直す。彼女は本当に――夢を抱いてここへ来た。

 しかしだ。それはそれとしてここで光を失うのはかなり、とてつもなく、やばい。植物に必要なのは水と光だと言うが、人間とて自然、それらがなければ死ぬ。ただでさえ緊迫した状況下、足元を支えていたものがどんどん消えてゆく感覚に奥歯を噛み締めた。


「あ、光が」

「だから一晩待とうって言ったのに」

「でもすごい発見はしたし」

「発見は一晩待ったからって逃げねえけど、メキキダケは点かなくなるだろ」

「う、うーっ……そうだけど」


 つい声を低くして抗議すると、彼女はわかりやすくしゅんとして縮こまる。その様子だって暗がりのなかのかすかな印象にすぎない。もうメガネが意味をなさないほど視界が狭いのは、今だけは霧でなく闇のせいだ。僕の胸元でまだ弱々しく灯る一本だけが命綱になってしまった。

 自らの刺々した気分をなだめるために深く息をつく。苛つくのは疲労と焦燥のせいであって彼女のせいではない。責めるよりもやることがある。


「とにかくここを出ないと……水もキノコも要る。耳長族に見つからないように出口を探すんだ」

「ど、どうやって……」

「わかんないけど、休んでても出口は見つからない。進むしかない」


 暗がりにみたび彼女の手を握って立ち上がる。壁づたいに、慎重に歩き出す。彼女はすっかり肩を落として大人しく従った。ただ僕のより少し小さな手が緊張で冷たくなっていた。


「ねえ……チカは怖くないの?」


 抑えられた、というよりも素のままで蚊の鳴くような声が耳を掠める。僕が足を止めると気づかなかった彼女の肩が背にぶつかったが、気にしなかった。


「なんだよ。こっちの台詞だよそれ。この状況でランクアップを喜んでいられるんだから」

「私はただ、冒険できたのが嬉しいから。怖いのは怖いよ。チカは、その、なんか冷静っていうか」

「だって、」


 冷静ではない。冷静でありたいだけだ。


「ルカがへばったら困るよ」

「え」

「だから僕が。君を誘ったのも疲れさせたのも僕なんだから、しっかりしないと……」


 言うと、彼女が黙ったから、もう話は終わったものと思ってまた足を進めようとした。しかし手を引かれ止められて、何、と思って振り返る。表情は見えない。

 彼女がいつまでも何も言わないから、不安になってどうしたのと声を出した。疲れて動けないなんて言われたらマジでどうしよう、とよくない想像が脳裏を走って肩がこわばる。が、それも束の間、漏れ聞こえたかすかな息遣いに動揺した。――また泣いてる? なんで?


「る、ルカ……? ごめんその、責めたつもりはなくて……いやちょっとはあるけど、そこまでじゃなくて、とにかくなんとか出口を探してみるから」

「ごめんなさい」


 遮るように紡がれた。わりあい、はっきりした声だった。

 なおさら当惑して、僕は言い訳を連ねようとする。


「え、だ、だから責めたつもりは、」

「私、自分のことしか考えてなかったんだ。冒険したいとか、発見がうれしいとか、疲れたとか危ないとか怖いとか、それってぜんぶ私のことで。チカは私のために頑張ろうってしてくれてたのに……だから、ごめんなさい」


 話すうちに体温を分かち合って冷たさをなくした手が強く握られた。いまやそれくらいが僕らに残された対話の方法だ。だけど何が言いたいのかは僕にはあんまりわからない。突然謝られて反省されてもさっぱりだ。僕はただ彼女の意思に吸い寄せられてついてきたから、彼女が彼女のことを考えるのを自然で大切には思えど間違いとは思えない。彼女が反省すべきは行動の無鉄砲さでしかない気がするのだけど。


「私も探すね。ちゃんと力になる」

「お、おう……?」

「行こう」


 ともあれ彼女が元気になったからいいやと思って歩き出す。小部屋の出入り口を音の出ないよう慎重に抜け、しんとした地下空間におのおの耳をそばだてながら壁を伝ってどこかへ向かう。

 息を殺して、足音を殺して、自分の鼓動や髪の揺れなんかがはっきり聞こえるくらいになって、不安になるほどの静寂に、ほとんどゼロの視界をもて余して進む。とうに時間の感覚がない。無心に歩いて、光や風がどこかにありはしないかとそれだけを考え続ける、あるいは逃避したどうでもいい事柄なんかも浮かんでは過ぎていく。離れないよう握った手を意識できなくなったのは、長く繋いで温度が等しくなったから。僕らは闇を彷徨うただ一匹の瀕死の虫になる。

 すぐに限界が来た。きっかけなんて大層なものはなくて、不意に歩調が緩んでそのまま足が止まって蹲る瞬間が来た。僕のそれは自然にルカにも伝播して、どこだか知れない地下空間の冷たい壁際にぺたりと背をつけ並ぶ。


「……どうしよう」


 こぼした自分の声の掠れに驚いた。そういえばすごく喉が乾いていると気がついて、水がないことを思い出す。ため息をつく気力も闇に削がれてしまって、朦朧と瞼を閉ざした。


「……チカ?」


 彼女の声が静寂を割いて、なんだかとても安堵した。


「なに」

「良かった、疲れて寝ちゃったかと思った」

「うん、ちょっと寝そうだった。やばいな」

「見つからないね……出口。誰もいないみたいだし……なにも聞こえない……」

「二人で行き倒れか? こんなとこで……誰にも見つからないだろうな」

「やめてよ、不謹慎」

「ごめん、でも、あのさ」

「どうかした?」

「話しながら行こうよ。危ないかもしれないし体力も使うけど……でも……」

「そうだよね。行こう、なんて言いながら」


 よろよろと、互いを杖がわりに立って、掠れきった対話がはじまる。好きな食べ物とか、フクロウやコウモリのこととか、なるべく他愛もない話題を選んでとつとつと繋ぎ歩く。息を殺して闇を行くなんてもうまっぴらごめんだ、正気の沙汰ではなかったのだ。こうしてしゃべっているだけで、体力の消耗は早いはずなのにまだまだ足を進めてもいいような気がするから不思議だった。

 僕らにはもう静かでいようなんて余裕がなくて、だから複数の足音が一目散にこちらへ向かってきたときも驚きはしなかった。出口が見つからない限りは殺されたっておんなじだ。そう諦めてもいたから。


「いた! やっと見つけた!」

「まだ子供の声だったぞ」

「どこから入ってきたって?」

「線路」

「そんなところに抜け道が?」


 いろいろ騒ぐ声がして、音に慣れない耳がきんと痛んだ。

 そうして、僕は、何を考える暇もなく、ほとんど無意識に衝動的に、膝をついて叫んだ。


「たすけてください」


 つられたルカが隣で転びそうになって踏みとどまる。


「なんだなんだ……迷子か? 冒険者じゃないのか?」

「迷子の冒険者ですけど、水がなくて……出口が見つからなくて……」

「ただの迷子じゃねえか」


 ひとり、歩み寄ってくる気配がして、力強く腕を引かれ立ち上がった。暗がりでなにも見えやしないが、彼らは不自由なんてこれっぽっちも無いかのように動いている――耳長族。霧に閉ざされた世界で唯一のほとんど自由に動ける種族。しかし彼らは僕らよりももっと閉ざされた環境にひっそりと暮らしているらしく、真相は謎に包まれている。


「迷子二匹、村に連れてくぞ。あと誰か水をわけてやって」

「はいよー」

「あ、ありがとうっ……」


 ぽんと与えられた水筒を、歓喜してまずルカに手渡す。彼女がしっかりと受け取ったのを感触で確認すると、そこでどっと全身から力が抜けた。

 あぁ――良かった――

 意識が途切れた。



※※※



第五話 〝霧の眠り子〟



「チカ……くん……」


 私はチカくんと別々の小屋に連れていかれた。思わず水筒を抱えた手が震える。

疲れ切っていた身体は逆らうことを許さず、そのまま耳長族の男たちに連れていかれる。

彼らの村といえばいいのだろうか、木と藁紐で組み上がった私の家よりずっと簡素な小屋があった。

寝て、雨風を凌ぐだけが目的のような、そんな家だった。


「2人からメガネを没収し……いや、不要だ。縄で縛るだけでいい」

「? それだけでよろしいのですか? 」


 何やら二人が喋っているが、私はそれを把握することもできずに、

チカと離れ離れになって行くことに鈍く抵抗しながら、意識を落としていった。

最後に見えたのは、長くて後部にかけておぼったく伸びている彼らの耳だった。


「こんなものに頼ったら……耳が悪くなる」


最後に聞こえた言葉が、それだった。



※※※



 動物の肉を齧る音で目が覚めた。縄で手足を拘束されているにも拘わらず、

何故かしっかりとしたベッドに寝かせてくれたおかげか、体力は回復していた。


「チカくん……チカくんは……」

「目が覚めたか」


耳長の男は食べかけの肉を葉の皿の上に乗せて、食事を中断する。


「ツレのガキは別の小屋にいる。……お前たちが無害であるという保証はないから……

 悪いがいくつか質問をさせてもらう。いいか? 」


 この言い方、多分向こうも私たちがただの子供であると推測している言い方だ。

直ぐに疑われたり、危害を加える気は無いのだろう。私は軽く頷いた。


「……お前たちはその……南の村の冒険者なのか? 」

「はい……あ、いいえ、……市場が公認して……は、ないんですけど……」

「なんだ。ごっこ遊びか」

「遊びじゃ……」


ムカッとしてしまったが冷静になる。命あっての冒険だ。私は目の前の耳長の男を何も知らない。


「……ふむ、そうか、まぁいい。

 2日後、お前たちの村の市場の副商長が来るらしいからな。そこで引き渡す」

「な、な、なんで!? 」


 市場の副商長なんてすっごく偉い人が、どうしてここに来るのか、私はとても驚いた。

御伽噺の存在である耳長族のことを、その人が知っているとは只者ではないのかもしれない。


「オレ達が〝チカテツ〟を縄張りの一部にするほんの少し前から、

 南の村の市場の人間との交流があった。小競り合いになったこともあった。

 こっちは耳で戦う。霧の中で弓を使って応戦した。

 戦いではコチラが有利だが、数では負けてしまう。

 そこでそちらの副商長が数年前からこっそり、仲良くなる話し合いを提示しているらしい」


 御伽噺の耳長族と取引した珍しい物を市場で売れば凄まじい利益を独占できるはずだ。

耳長族と仲良くなれば、いいことばかりだと私は思った。

しかしかれこれ数年間ずっと、その話し合いが上手くいっていないという。〟


「そいつにお前たちを引き渡す。それで話は終わりだ。

 人質や交渉の材料にはしないだろうな。オレ達は誇り高きミミナガだ。

 メガネに頼っているやつらとは違うのさ、穏便に済めばそれでいい」


 残りの肉を食べ終わったら、今度は弓や道具の手入れをし始めた。

この人たちは何百年もメガネに頼らなかった一族だ。

視界がかなり制限されているというのに、何故ここまで不自由なく生活できるんだろう。

切り株に、鑢の代わりになる粗目の石を置き、そこで太い木の枝を研いでいる。


「良かったな。無事に家に帰れるそうだ」

「はい。ありが……」


 違う! 違う違う違ーーう! 家に帰れると聞いて、安心しちゃったけど、

それじゃあダメなんだ。だって、私とチカくんの旅が終わっちゃうんだもの!

お母さんの元に連れていかれたら今度こそ、もう二度とこんなワクワクに会えなくなる。

あの絵本の……あの景色を目指せなくなるなんて、そんなの嫌だ。


「質問をするのは構わないが、そこまで長く喋るのは良くない。

 お互いに情が移ったら面倒だからな、いいか、食事と寝床は……」


 どうしようどうしよう……ここで冒険が終わっちゃうのはダメだ。

私にはもう耳長の男が何を言っていてもどうでも良くなった。

それどころではない。あと2日……それまでに……



ここをチカくんと抜け出して……ここから逃げるしか……でもどうやって……



※※※



 そのまま1日と半分が過ぎた。結局私は時間の殆どを無駄にしてしまった。

行動の自由が制限されているので、食事と睡眠を繰り返していた。

耳長の男もとりわけ貴重な情報を喋ってはくれなかった。

もどかしいと思いながらも、考え事ばかりしていた。


(てっきりメガネも奪われると思ったけど、この人たちは本当にメガネに興味ないんだ)


 また数十分過ぎて、見張りの男はウトウトと首を揺らし始める。

それもそのはず、何せ今は日の出前の時間、明るくなるギリギリの時間帯だ。

耳長の男は私たち2人に、そこまで厳しい追及はしなかった。それに、食事まで与えてくれた。

だけど、私はこんなところで止まっていられない。やっと面白くなってきたばっかりなんだ。

あの〝チカテツ〟の暗闇を二人で歩いた時のドキドキは、

きっと、もっと続くんだって思ったから、


(だから、私は……)


 その時だった。村が、いいや、ここら一帯の森が揺れたような感覚に落ちた。

音? 鈍くも鋭くもある重低音に小屋が揺れる。耳長の男が飛び起きて急に苦しみ始めた。


「あああ、ぁあああ、う、うるさい! なんだこれは! 」


 目の前の見張りだけではない、村全体がその特別な音に苦しんでのたうち回っている。

私も五月蠅く感じてしまったけど、彼らほどではなかった。


(そっか、この人たちは、〝耳が良過ぎる〟んだ……だからうるさくて堪らないんだ……)


 これはともかくチャンスだった。

村中の視線を掻い潜ってチカくんを探すのは無理かもしれないけど、村の外に出ることはできる……

私は、足をばたばたさせて靴を脱いだ。靴下も、

腕の縄は無理でも、裸足になれば、足の拘束だけならなんとか抜け出せる。

2日もそのままだったんだ。少しずつ力を入れていけば、多少なりとも緩む。


(私と同じことをチカくんも考えているんだったら……村の外で会えるかもしれない……

できるだけ離れないと! メガネが無くても自在に活動できるこんな凄い人達が弱ってるんだ。

これが最後のチャンス……)


 私は窓から飛び降りた。裸足に石ころが刺さる。とっても痛い。

そのまま転んでも這い上がって、挫けずに走る。

時々自分の家の美味しいご飯が懐かしくなるけど、でも、今だけは帰りたくない。

私は見てない。まだ納得してない。

チカくんは、お兄ちゃんと同じメガネを貰えるくらいの凄い冒険者になりたいんだって……

だから私は……チカくんとあの、絵本の景色を……〝メクジラ〟を見るんだ……!!


「う、うぅぅう、ま、待て! 」


 音の正体はわからないままで、しかも裸足で、この霧の中で、

チカくんのお兄さんのノーマルなメガネで走るのは、正直無謀だった。

視界5mの中を逃げるように走る。絶対に走ってはいけないと教えられてきたのに、走る。

耳長族の得意の矢も、音の妨害で飛んでこない。何も考えられなかった。一心不乱だった。

途中の固そうな石で手首の縄を切断する、なんて名案も浮かばなかった。

気分が高揚していたのは、このズシンと響く音のせいなんかじゃない。

家族の中で自分だけ、冒険に心を惹かれていたんだ。

それが、窮屈で仕方が無かった。そんな気持ちが私の背中を押してくれているんだ。


「あ、あ、ああああ! ああああああ! 」


 私は叫んだ。とても気持ち良かったから、いつの間にか謎の音も消えていた。

でも耳長の男たちは追ってこなかった。村中がパニックになっているのだ。当然なのかも、

いつのまにか足がボロボロになっていた。切り傷でパックリ切れている。

でも全然痛くなかった。こんなのへっちゃらだ。風を切る音も、土を踏む音も気持ちが良かった。


「走るんだ。走るんだ。チカくんと合流すれば……絶対なんとかなる……

 もっと面白いモノを……色んな色の景色を……見に行けるんだ! 」


 私は足を進める。ドロドロに汚れて、前も後ろもわからなくなっても走り続ける。

そうしていくウチに、ふと、霧を貫通するかのような、光が見えた。

光じゃない。……生まれて初めて見る色……私はその方向へ行く。

絵本でも観たことが無い、澄んだ薄い、けど豊なその色を、

私は生まれてからの知識ではどう形容すればいいのかが分からなかった。

だから見る、近づいて、ちゃんと見た……


「……タマゴ? 」



※※※



 〝チカテツ〟の中を掘り進んだ時と同じ、未知なるものを掴むドキドキ……

ひとりでに輝くその卵にゆっくり触れて、割れないように確かめる。

心臓の鼓動が聞こえたわけではないけど、絶対に何かがあると確信した。

チカくんがコレを見たら、きっとこの気持ちを分かってくれるに違いないと思った。


「でも温める方法とかわかんないし、こんな無造作に草むらに卵が……

 そもそも何の卵なんだろう? ……凶暴な動物だったら……」


 私はさっきの音と関係があるのかなと思いつつ、その卵を抱きしめて木にもたれかかった。

どっと疲労感が襲ってきた。興奮が途切れたのかも知れない。

やっぱり足の生傷は痛かった。今頃になって痛みが出てきた。

どう考えても持ち運びに不便だったけど、私はその卵を手放せなかった。


「綺麗……霧の中にも負けない……ステキな光……」


 私はその卵に見惚れてしまって、割れないように布や植物で包もうとも考えられず、

しばらくじー……っと、その卵を見つめていた。だから背後から来るその男に気が付かなかった。


「おや? そこのお嬢ちゃん……こんなところでどうしたんだ? 」


 私は慌てて振り返る。今度こそ耳長の男が追いかけてきたのかと思った。

卵を抱えてここから逃げることなんてできない。

だから覚悟を決めたのだが……よく考えたら、耳長の男が追いかけてくるには早すぎる。

それに目の前の男は、私たちと同じような服装に加え、シルバーランクのメガネを付けている。

ついさっきまでこの一帯を襲った謎の音の中で、

これほど自由に動き回れるのは耳長族ではなく普通の人間だけだ。ということは、この人が……


「もしかしてあなたが、副商長の……」

「おぉ、子供なのにオレを知ってるのか、

 それよりその卵……まさか〝空飛ぶクジラ〟の卵なんじゃないか? 」


 私は言葉を失った。〝空飛ぶクジラ〟という言葉を聞いて、思うところがあったからだ。

私が幼少から何度も読んでいたあの絵本に出てくる……

〝メクジラ〟の群れは確かに、空を自由に飛んでいる。

虹色の光は霧なんかに負けずに、山や渓谷の峯に沿って堂々と泳ぐ様は、

この世界にもっと、鮮やかな色と可能性があることを示すかのようだった。


「今、なんて言ったんですか!?」


 副商長の男も詳しいことは知らないようだったけど、どうやら空飛ぶクジラの卵と似ているという。

この霧の中でもこんなに目立つ卵なので、決定的だということだった。

そのクジラの名称のことを、あの絵本ではメクジラ、という名前になっていた。

私の目標……こんなところでそのきっかけに出会うことになるなんて、


「それはそうとして、酷い怪我じゃないか、

 血を止めないと……事情はよく分からないけど、村に帰るんだ。

 さっきの音や耳長族……ここはとっても危険な場所だから……」


 その男が私の足の手当や、卵を包む布をあしらいながら帰る様に言った。

ここまで良くしてもらって申し訳ないけど、それは絶対に嫌だ。

せっかくメクジラの卵に会えたんだ。もしかしたら〝親〟もどこかにいるかもしれない。

チカくんのことも心配だし、何よりも私は全然納得してない。

どうにか事情を説明して見逃してもらえないかな……


「ご、ごめんなさい……実は……」


 チカくんと二人で冒険がしたくて、家出をしてしまったこと、

そのまま〝チカテツ〟までたどり着いたと思ったら耳長族に捕まってしまったこと、

2日間、別々の小屋に入れられていたら突然、地面を揺るがす謎の音に助けられたこと、

その音に紛れて、朝焼けの森を走って行くと、霧をも囚われない光を持つ卵を見つけたこと……


「私! 村に帰りたくないんです!

 この卵、チカくんに見てもらいたい……きっとびっくりしてくれると思うから!

 そしたら……どうなるかわからないけど、とにかく、まだ冒険していたくって! ……」


 この時の私は感情の安定感がどっかに行ってしまっていた。

泣きそうになったり、興奮したり、緊張したり、慌てたり見惚れたり、

思えばここ2日間で上手く休むことができた体力を振り絞っているかのようだ。


「そっか、……正直に話してくれてありがとう。

 でも残念だけど、ただの子供がこんな、村から離れたところまで来ちゃいけないんだよ。

 冒険者だっていうなら、話は違うんだけどね」


 そういうと副商長さんは暫く考える。この人は予定通り今から耳長の村に行って、

取引の為の交渉に行くつもりだ。そこに私がどうこうすれば、余計な混乱を招く。

この人に甘えて保護されたら安全かも知れないけど、もう冒険ができなくなるどころか、

チカくんと会えなくなってしまう。


「……どうしても、帰りたくない? 」

「はい……帰りません。例え危険でも、チカくんを置いて帰るなんてできません! 」


 大きな声で言ったものの、勝算は薄かった。副商長さんは市場の人なのだ。

だから安全を考える義務があるのだろう。私は心細くなり、黙ることしかできなかった。

もう少しだけ沈黙が続けば、卵を人質に、走り出すくらいの気持ちになったかもしれない。


「だったら、今ここでキミが冒険者になるしかないよ」

「冒険者? 私がですか? だって……私はそんな凄い発見……あぁ、もしかして」


そうだ。私が抱えている卵は、非常に珍しい御伽噺のクジラの卵なんだ。


「それだけ立派なモノを発見したのなら、キミはもう立派な冒険者だよ。

 キミがその男の子と村を戻ってきた時、その卵を市場に提出してくれると約束してくれるなら、

 今ここでキミを冒険者にしてあげる。

 ……そうなれば、キミのお母さんは怒るかもしれないけど、村のルール違反にはならない」


 さっきの音といい、今日の私は何か神様に愛されているかのように運が良かった。

何か前に進む力が働いているのかとさえ思った。だから副商人ならではの提案に私は乗った。

これで冒険者用のシルバーメガネを手に入れれば、視野は10m……

ノーマルのメガネよりもずっとずっと遠くまで見れる。


「あ、ありがとうございます! やった!

 ……シルバーランクのメガネが貰えるんですよね。……だったら……」


いいや、違うとその副商人は言った。スチャリと私にそのメガネをかけた。


「キミが新しくかけるのは……ゴールドランクのメガネだよ」


 ゴールドランクのメガネの視野は100m……そこには全く見たことのない世界が拓かれていた。

今日は初めての物を沢山見ることができる日だ。私の視界は初めて広がった。

世界がまだ白黒でモノクロなものが多いのは変わらないかもしれないけど、

目の前が見えるようになっただけで、もやもやが晴れたわけじゃないけど、

これで私はもっと、前に進めるような気がしたのだから


「すっごい……すっごい!

 こんなにも……こんなにも……なんでも見えるなんて……

 ゴールドメガネってほんっとうに……すごい! 」


 私は感動で半分泣きそうになった。

現実にあって、生まれた頃から見たことのない物に触れた感覚。

そうだ。確かにそこに、みんなみんなあったことなんだ。

私は契約を交わし、副商長さんにちょっとだけ食べ物や物資を貰い、お別れの挨拶をした。


「待っててね。チカくん……キミにもこの、すっごく綺麗な卵を抱いてほしいんだ

 このメガネと一緒なら、どこにだっていけるんだもの! 」


植物で簡単な草鞋を作って、リュックに卵を大切に入れて、私はずかずかと再び歩みを続けた。



※※※



第六話 〝死の咆哮〟



 轟音が響いた。


「う、うああああ」

「だっ、大丈夫ですか!?」


 低く腹の底が唸るような振動に気分が悪くなりそうな眠くなりそうな気がして、けれど、僕の見張り役を買っていた彼らの方がよほど苦しげにしたものだから、僕は急いて身をよじってベッドから降り、芋虫みたいに彼らの方へ這いつくばった。

 聴力、知覚過敏、彼らはこの轟音のさなかにこの世の終わりみたいに声にならない絶叫をあげてうずくまっていた。ルカも縛られているのだろうし、この村では僕しかまともに動ける奴がいないんだとすぐにわかった。確信する。だったら今は、僕らを助けてくれた彼らを、僕が助ける時だ。


「み、ミミナガのおじさんっ、聞こえますか!? うるさくしてすみません、あの、たぶん僕しか動けないと思うから、この音の原因、僕が探して止めに行きます! だから縄をっ。逃げたりしません、助けていただいたんだ、恩返しだけ、させてください!」


 長い耳を塞ぎにくそうに塞いだ見張りのおじさんが、這いつくばる僕をちらりと見下ろした。明らかに視力を感じない色の抜け切った目で何が見えているのだろう。あるいは僕の声を? ともかく僕は砂まじりの床に頬をくっつけたまま少しずれたメガネ越しにおじさんの目を見返す。彼は音の波に合わせて苦悶の表情を浮かべながら、かすかに思案するように息をつめた。


「絶対、みんな助けるから!」


 言い直す。傲慢なくらいの方が意気が伝わるかなと思ったのだ。するとミミナガのおじさんは苦悶のうめきに失笑を混ぜて溢した。そして震える手が僕に槍を渡す。苦しい途中の彼らにできるのはそこまでだ。縄を切るのは自分でやる。もぞもぞと不恰好に全身を動かして、必死になって手足の縄を刃に押し付け、解いた。やっと立ち上がり、身体が動くことを確認して、メガネのずれを直す。


「ありがとうおじさん、待ってて! こんな音すぐ止めてくるから!」


 叫びながらもう駆け出していた。貧弱な耳を澄まして、鳴り響く轟音の大きい方へ。走る走る。転ぶかも、ぶつかるかも、なんて気にしている場合ではない。命の恩人たちが苦しんでいるのだ。僕がちょっと怪我をしたっていい、音を止めるのが先に決まってる!

 かろうじて木の幹と正面衝突なんて事態にはならず、せいぜい肩をぶつけるくらいで朝の森を駆け抜ける。痛みに食いしばった歯の隙間から浅い息が漏れていく。だが、長くは続かない。不意に木の根につまづいて、僕は勢いのまま派手に転倒した。しかも急な斜面で、湿った土は受け身を取ろうとしたその刹那にどろりと滑った。あっけなく下へ下へ。またこのパターンかよ! なんて叫びたくもなる。けれど方向は間違っていないようで、轟音は、はっきりと近づいて、もう僕でも耳を塞いでいないとかなりきついくらいになって、生理的な反射の涙が滲んできて、やがて滑落が止まった。ぜいぜいと肩を揺する。泥まみれだがたぶん血も混じっている。全身が少しずつ痛い。

 それでもと立ち上がった。ぬかるみに気を払いながら、滑落に耐えたメガネに安堵と感謝をしながら、おそらく音の出所だろうものの方へ目を向ける。全貌は見えないが何かがそこにあることは気配でわかる。疲れた身体が勝手に激しく息を吸ってむせ込んだ。いやな匂いがしていた。冒険帰りのにいちゃんよりひどいにおいがする。滑落してから急ににおってきたということは、空気より重い気体、あるいは液体のミスト。


「……うぁ……、あ、かい……」


 赤い。

 赤はこのモノクロに閉ざされた世界でも誰でも知っている色だ。家畜を捌くとき見る。怪我をしたとき見る。瞼に強い光を当てても見える。僕ら生物の、身体の中の色。

 赤が霧に混じって立ち込めていた。もとより湿った環境だがもっとじっとりした感触がある。においもどうやらここから来ているようだった。

 できるだけ息をしたくないのに鼓動がそれを許さない。たびたび咳をしながらくらくらする頭を押さえ音のする方へ歩く。止めなきゃならない。止めなきゃ。僕だって、この音、この匂い、この赤が嫌で仕方がないから。


「うっ、」


 耐えきれずに少量の胃液を吐いた。せっかくいただいたご飯がどろどろと喉の奥から出ていって黒い泥に混ざる。もったいなくて泣けた。

 進む。もう耳がいかれたのか音が気にならなくなってきた。赤い霧の不快感だけ強烈なままだ。早くぜんぶ慣れろ。いかれてしまえ。僕は進まなきゃならない。恩返しをすると約束したのだから。

 いつの間にやらガクガクと震え出した足を意地だけで前に進める。

 わかっている。わかっている。この赤い霧とにおいのことをなんと呼ぶかなんてわかっている。それでもだ。それ、でも。

 ぬち、と足元で何かが鳴った。

 いっそう鮮烈な、赤を見た。


「……ッ!」


 あまりのことに鳥肌が収まらなくなる。

 吸いたくない「死臭」を忙しない呼吸器が肺に取り込むから、何もかも嫌になりそうだった。

 でも、でも。でも!

 脳裏でルカが笑っている。にいちゃんがのんびりと愚痴を言う。命を救ってくれたおじさんの苦しむ声が過ぎる。

 僕が。僕がなんとか。しなきゃ。

 あまりに大きな、そう大きな、死を前にしている。死がここにある。ものすごく遅れた現状認識が涙になって頬を伝った。そのとき轟音が。示し合わしたみたいにいっさい止んだ。目の前に横たわる大きすぎる死が、ねばつく温度がその一瞬で濃密な静寂を灯した。ああ。ああ。そうか。死に際だったんだ、あれは断末魔だったんだ、納得が全身を震えになって駆け巡る。

 その大きな生き物はーー

 そのあまりに色鮮やかな生き物の正体は――?


「ああ……、あああ……」


 涙で。

 世界が。洗い流されていく。

 曇りが。霞が。……霧が!

 流されていく。

 ぎゅうと目を閉じた。計り知れない高密度の静寂に耳を塞いだ。うずくまって叫んだ。嘘だと言ってくれ。わからない。こんなの。ルカ。にいちゃん。ミミナガのおじさん。教えてくれ。いいやどうか知らないでくれ。こんな圧倒的な死のことを。僕しか見なかったのなら良かった。誰かがこの絶望に遭わなくてよかった。心底そう思う。

 色が見える。

 色が、見える。

 500年の霧が晴れた。かのように僕には見えた。たぶん違う。湿度は変わらないから。ただ、僕のこの眼に色が見えた。あるはずもない10m先。うそだ。もっと。何十mも続いていた。もっともっと。何百m。そんな先に世界はないと信じていたのに。

 極彩色で流線形で、左右と尻尾に三角のひれを持つ、華やかで巨大なその姿が、ああ、もういいや、言ってしまおう――メクジラの、死骸が、瞼に焼き付いてしまった。

 また嘔吐する。恩人にもらった大切な食事が、赤と混じって濁っていく。拍子、僕の吐瀉物の中にメガネが落ちた。拾う気にもならないし、拾う必要ももうなかった。


「はあ、はあ、はあ」


 頭が揺れる。死臭が満ちている。あかいろだ。それだけではない。桃紫青緑黄橙。人類が500年のあいだ知るよしもなかった鮮烈で暴力的なこの世界のトゥルーカラー。

 急に広がった知覚情報に、とてもではないが脳が追いつかない。目を開くとたちまち気分が悪くなる。いつ終わるんだ、これは。戻るのか、僕の眼は。戻してくれ。こんな思いをするくらいなら何も見えない方がマシだ。美しいもんか。こんなのが美しくてたまるか。なあ、ルカ。いつかメクジラを見たいと頬を染めて語った君。生きているならいざ知らず、頼むからメクジラの死を見るのはやめておけ。血を吸い込むのもやめておけ。できればゴーグルなんかで眼を守るといい。見たくないものがぜんぶ見えるようになってしまうから。

 メクジラの死骸を前に、血溜まりでのたうちまわって、どのくらい経ったのか。恐ろしいことに脳はそれでもこんな視界に順応し始めて、この短時間でなんとか立って歩けるくらいの回復を見せた。うそだろ、と何度目かの呟きをこぼす。死臭だってその頃にはわからなくなっていた。いちばん怖いものは慣れだ、と教訓ひとつ、僕はどうにか動かせる足で移動を始めた。とりあえず沢か何かを探す。死臭がうつった状態では誰に会っても迷惑に違いなかった。

 ひとまず木々を伝って上へ逃れ、周囲に水場を探す。村の近くともあってすぐに沢が見つかる。まだ村はパニック状態なのか誰も出てきていなくて安心する。無心で身体を清め、服に染みた血を丹念に落として、きつく絞ってまた身につける。擦り傷に水の染みる痛みや濡れた衣服を着る気持ち悪さくらい、あの死を見届けた僕にはどうってことなかった。


「……つ、かれた……」


 ぼやく。ぼやいたところで気づく。あの断末魔、間近の轟音に耳がやられたままだった。自分の声がうまく聞こえない。見えすぎる方に気を取られて気づくのに時間がかかった。何度か試しにあーあーと声を出してみるが一向に音が入ってこない。耳はもうだめなのかもしれない。メクジラの死に際の咆哮くらいしか、もう聞こえないのだろうか。それは嫌だな。

 なんておぼろげに考えながら僕が囚われていた小屋へ戻ると、まだそこにミミナガのおじさんはいた。気分が悪いのか座ってじっとしていたけれど苦悶の表情ではない。災厄は去ったようだった。

 ただいま、おじさん。すみません。耳が聞こえなくなりました。

 言えているのかわからないまま、筋肉の記憶だけに従って言ってみると、彼はひどく驚いた顔で立ち上がり、僕に詰め寄ってくる。唇が動いている。わからない。


「ーー! ――!!」

「ごめんなさい聞こえなくて。えっと……そうだな……説明ですよね。クジラの死骸があって。あの音、クジラが最期に叫んでたみたいで……。おかげで耳やられちゃって。眼、は、何故かすごい見えるようになっちゃったんですけど。たぶんメクジラの血のせいだと思うんだけど……。このくらいです。とりあえずご無事そうで良かった。っと、そうだルカは? 無事ですか?」


 言えているのだろうか。

 不安になるが、おじさんが表情を変えたから、伝わってはいるのだと胸を撫で下ろす。が、最後の問いには、なんと重々しい表情で首を左右に振られてしまった。


「え!? ルカに何かあったんですか!?」

「――!!」

「聞こえないですって……」


 ミミナガのおじさんは険しい顔をして、ふと僕の手を取り歩き出す。大人しく着いて行くと、似たような小屋の中、乱雑に解かれた縄の残骸と、ルカの靴と靴下が残っていた。


「まさか。……自力で逃げ出した?」


 こくこくこく、と何度もうなづかれた。


「ま、マジかよ!? ほんっとに強いなルカは……ていうかまさかクジラのとこ行ってないよなっ……!?」

「――!」

「あの、それじゃあ僕ルカを探しに、っていうか、もうここ出てもいいですか? 音もおさまったみたいだし……」

「――」

「だめなの!? なんで!」

「――」

「僕は眼だけでも動けます! 耳だけで暮らしてる人たちが変な心配やめてください。それにルカを放って帰るなんて、あり得ねーから。知識も体力もないのに危険な場所にひとり出てった奴を、わかってて見捨てるなんて、ないから」


 ルカは僕のきっかけになってくれた。ルカがいたから血溜まりの中ですべて投げ出してしまわず済んだ。

 守らなくちゃいけない。

 おじさんの手を振りほどいて走り出した。見えているから、もうどれだけ走ってもものにぶつかることはない。おじさんは追ってこなかった。放っておいてくれたというより、もとより疲弊しているところだったからだろう。


「助けてくれてありがとうございました!!!」


 叫んでおく。叫べているかどうかわからない。でも喉は動く。息が声帯の隙間を通って飛んでいく。うまく言えていなかったとしても、何かは伝わる声が出せたはずだった。

 空っぽの胃がキリキリと悲鳴をあげる。疲労が限界に近い。無視して、ひた走る。木肌は薄いグレージュ、葉は濃い緑青をして、森の続く限り同じ色が続く。見回しながらしばらく行くとすぐにルカを見つけた。まばらな森の木々をすり抜けて何百mも先。たたずんでいた。流石にこれだけ離れていたら顔などは見えないが、華奢な背格好と服装でわかる。

 良かった。無事だった。

 そう思って、まだ走れる、と全身に確信が響いて、限界を超えた足を進めた。近づいてくると彼女の細部まで見えるようになる。やっぱりルカだ。真新しい包帯の巻かれたぼろぼろの足、枝を引っ掛けたような破れだらけの上着、ほつれた長い髪、胸に抱えた何かまるくて暖かな色のもの、そして、

 ――――?


「ゴールドクラスの……メガネ……?」



※※※



第七話 〝入れ違う視界〟



 チカくんの目の色がなんだかいつもと違うように感じた。

様子がおかしいというよりも、たった2日間で大人びたように見えた。

きっと何かがあったのだと私は思った。それは私もなんだけど……


「ルカ!! そのメガネ……それにやけに大きな荷物があるようだけど……」

「あぁこれね。ええっとどこから話せばいいんだろう……

 メクジラのタマゴを見つけたらね。市場の副商長さんがね。

 私を正式な冒険者にしてくれたんだけど……」


私はそそっかしいなりに端的に言葉を選んだ。けど……


「それは何のタマゴなの? それはもしかして……ゴールドメガネ!? 」


 言葉が通じない。様子がおかしいと思っていたんだ。

だって今のチカは何よりも、メガネをかけていないのだ。

そんなことありえないもん。外しているわけでもないし……

彼の目は少しだけ濁って、でも、けれど静謐な美しさを灯している。

白く〝とごり〟を見せているようで、でもこの世界を透かして見ることのできるような、そんな目になっていた。


「あ、そっか、今、僕……耳が……聞こえなくなっちゃったから……ルカ」

「えぇ!? そうなの! じゃあ筆談……あった。ペンと……ああもう

 地図の裏でいいや! 勿体ないけど!! 」


 私は2日ぶりに再会したチカともっとお話がしたくて堪らなかった。

だから、私の手製の、大切な、でも全然正確じゃない地図の裏に書く。



『私はさっきのおっきな音でスキをついて

 チカを探してたらメクジラのタマゴを見つけて

 それでたまたま市場の偉い人と会って

 ゴールドメガネを貰ったんだよ』



 焦った私は慌ただしく汚い字で書く。チカは頷いてくれた。

良かった。耳が聞こえなくなったのは不安だけど、なんとか伝わる。

チカは私よりずっと疲れているようにも見える。



「僕……ルカの……こ、と、心配で……聞こえる? 喋れて、る? 」



『だいじょーぶ』



「色々あって……僕……メガネが無くても……

 全部、全部見えるようになったんだ。

 その代わり耳が聞こえなくなった……」



 えぇええ!!? ど、どういうこと?

さっきの轟音で耳がキーンってなってるだけじゃないの? 治るの!?



『なんで? 全部見えるってどれくらい?

 シルバーランクのメガネと同じくらい? それともゴールド? 』



目を白黒させて驚く私に対して、何やら言いにくそうに答える。



「ぜ、……全部……本当に全部……見えるように、なったんだ」



 10m先を見通すシルバーランクのメガネ

そしてたった今、私が偶然にも手にできた100m先を見渡せるゴールドメガネ

チカはそれよりももっともっと、遥か先を見通すことができるようになったのだという。

うぇええ!? とても信じられないことだけど……



『霧が全部とっぱらって見えてるってこと? 』



 チカは長い沈黙の後、頷く。

今のチカは500年前と同じように、見えているんだ。

謎の霧が世界を覆う前の……モノクロじゃなかった頃の景色

カラフルで色鮮やかで、この世界いっぱいにあった色んな色を……



『じゃあさ。この草は何色なの』



「う、薄い……緑……色……っていう名前……でいいのかな」



『あの果物は? 』



「……とっても綺麗な……赤……でも、明るい赤に見える……」



 私は生まれて13年間、あの果物は灰色がかった茶色にしか、見えなかったのに

だから、思わず羨ましく思ってしまって私は地図の裏に3文字の言葉を書いた。



『ずるい』



『ずるい』


『ずるい』

『ずるい』


 私とチカはミミナガの一族の村から数キロほど離れた道を

筆談と言葉でお互いの2日間を整理しながら道中を向かい続ける。

森を抜けて小さな草原を抜けて、橋も掛かっていない川をまたぎ

今度は巨大な山を登る。ゴールをいい加減に決めようと思っていたけど

でもやっぱり、チカの目がずるくて、羨ましくて、なんだかズルくて

ちょっとだけ一方的な気持ちを押し付けるような口論になってしまうんだけど

でも、口論とは言ってもチカは聞こえないから

申し訳なさそうに黙り込んでしまって、私のほうが子供みたいで

それがなんだか嫌で、だから……わかんなくなっちゃって、半日歩いた。


『なんで教えてくれないの? 』


 ゴールドメガネになった私はもう、怖くなってもチカと手を繋がなくても

100m先の景色を見ることができる。けど今チカと手を繋がないのは別の理由だ。

私は今、プロの冒険者と同じくらい凄いアイテムを扱っているのに

霧そのものが晴れたわけじゃないから、見えるだけで色もまだうすぼんやりだ。

それなのにチカは、全部が見えているのに、そうなった理由を教えてくれない。


『喋ってよ。別に口が利けなくなったわけじゃないんだから』


 俯いて、時折私の荷物の中にあるメクジラのタマゴを見て

哀しい表情をしながら、その回答を断った。気まずい雰囲気のまま

道中当てもなく、次なる目的地を探そうだなんて言えないまま

山の中腹の、開けた場所までついたところでもうその日は暮れてしまった。


『やっぱり筆談は嫌? 怒ってる? 』


 私ばっかり訴えて、拗ねられているようにも男んでいるようにも見えて

それがどうしようもなく息苦しくて、嫌な気持ちになった。

山の斜面は今はなだらかだけど、きっと明日には急斜面な地形になる。

私はメガネを、チカは〝眼〟そのものが、もっと広いものを見えるようになって

それは冒険をする上で本当に便利になったのに

でもこの喧嘩をした後のような険悪な雰囲気はなんなんだろう。

私はさっき書いた『ずるい』の文字を手でごしごしと消した。

こんなことするんじゃなかったなぁと後悔して、焚火を起こした。


『も、もしかしたら耳だって治るかもしれないよ? 』


 そうしたらチカは首を横に振る。焚火の火がゆらゆらと揺れる。

きっとチカは耳が治らないことを予感しているのだろう。

そう思うといたたまれなくなって私は空を見上げる。

100m先が見える。100mしか先が見えない。

闇夜に輝くお月様も、今のチカには見えているはずなのに

きっと目に入っている〝情報の量〟が多すぎて、混乱しているのかな。

誰だって最初は慣れないんだ。仕方がないと思う。

でも、それでもやっぱり寂しい。なんでもいいから喋って欲しい。

その時だ。その時チカはがばっとこっちを向いた。


「……ルカも……ずるい……同じくらい……ずるい……」

「え!? 喋てくれた!? 」


『どういうこと? 』


 チカは耳と目がそうなってしまった理由は、教えてはくれなかった。

でもその代わりに『ずるい』と言った。

私とは違うけど、同じ気持ちを教えてくれた。


「僕……が……本当に……欲しかったのは……こんな目じゃ、ない……

 僕はにいちゃんみたいな……ゴールドメガネが……欲しくて……」


私はチカの視界が羨ましい。でも、チカはその視界を望んでない。


「……今……ゴールドメガネ……かけてももう、意味ない……

 見え過ぎる……見たくないものも……視える……

 僕は……冒険して……いっぱいお宝を発掘して……」


 チカが本当に欲しかったのは私のメガネだ。

世界中の色鮮やかな景色を見るより、おにいちゃんみたいになることの方が……



『ごめんね』



「チカ……」

「え? 何……聞こえないよぉ」



『ごめんね』



「キミが視たくないものも、……見えちゃうんだもんね」

「だから……なんて言ってるか……わかんないよ……」



 夜は冷えるから、でも焚火は近づきすぎると危ないから

だから私たちは吐息がかかるくらいまで身体をくっつけて

有り合わせの毛布にくるまって、ゆっくりと意識を飛ばしていく。

ごめんねと書いて、口でも言ってみる。

充分過ぎるくらい気持ちは伝わったようだった。


「ご、め、ん……ね。チカ」

「……なんでルカが……謝るんだよ……」


 チカがどんな経験をしたかだなんて、今だけはどうでもよかった。

その焚火の火のように、白く綺麗になったチカの目が、溜まった泪に揺れる。

このあたりにどういう獣が生息しているかわからないけど

メキキダケと焚火を使えば、1晩くらいなら動物に襲われはしないだろう。

あぁこんなことならもっとミミナガの一族の人に

このあたりの詳しい生態を聞いておくんだったと後悔する。

でもきっと、この心細いような、申し訳ないような切なさは

近くで身体をくっつけあったって、解消されるものじゃないんだ。


「……無視したのは……僕の方だから……だから……

 チカが謝ることなんか……無いんだ! 」


 自分の言葉を自分で聞き取れていないということもあり

けれど、チカはそれでも感情を押し殺せないまま、ぎこちなく吐く。

私もどうして謝りたくなったのか、ちゃんと整理が出来ていなかったし

大きな感情が揺らめいて仕方がないから、ペンを動かす手が止まる。


「……タマゴ……」

「だ、だから……なんて言ってるか……わからないけど! でも……」


 私は起き上がってメクジラのタマゴを触る。

この世のものとは思えないような模様と色を再確認しながら

もうすぐ生まれそうな。でも、今はもう少し眠っていたそうな

そして、チカが何かの視線を向けていたかのような、そんなタマゴ……



『チカ』



「な、なんだよ。ルカ……」



私はチカが見ている色づいた景色が見たかった。

チカは私がかけているような憧れのメガネが欲しかった。



『もしこの旅が終わっちゃってもさ……』



まだ、喧嘩の途中なのに

どうしてこんなにも、くすぐったい言葉が、出てくるんだろう。



『そしたら一緒に、育てよう。メクジラの……赤ちゃん……』



 副商長のおじさんとの約束、破っちゃうことになるけど

お互いの憧れと、この見えている視界を、取り違えちゃったけど

沢山の驚きがあった代わりに、旅のゴールが曖昧になっちゃったけど

キミがさっき、どんな怖い景色を見てしまったのか

私はまだ何も知らないけど……でも、嗚呼、そっか……



『きっと、笑ってくれると思うの。メクジラの赤ちゃんだって』



 私の思い描いた絵本の中にいた空飛ぶ不思議なクジラなんだもの

きっとすっごく色めいて、怖くないよって笑うに決まってるんだ。



「わ、……わ、……」



 チカは一瞬、その文字が読み取れなくてびっくりして

それで少しだけ間を置いてから、ぽうっと頬を赤く染めた。

焚火の明かりのせいなんだろうけど、でも、それが分かった。



「わ、……わかった。うん。そうしよう! きっとそれがいい。

 僕も……とっても素敵なことだなって……思うから……! 」



 くすぐったくて堪らない。私の心が筆で撫でられているかのようだった。

私はタマゴを壊れないようにそっと抱いて、また毛布に戻る。

ペンをしまってしまったからもう、チカに言いたいことは伝わらないけど

でも少しだけ私とチカは見つめ合った。タマゴを包むように

焚火の揺らめきが空気を温めて、深い霧に気流の渦を作る。

その色と、タマゴの深淵な渓谷のような模様と

白く美しく濁ったチカの瞳を、私はメガネを外して

おでこをくっつけて、見つめる。

きっとチカも私の瞳孔をじぃっと見てる。

かすかな揺らめきが触れ合う。



「ねぇチカには何色に見えてるの? 私の瞳」



「……え? ……なんて、言ったの? 」



やっぱりちょっぴり不便だけど、今はこれでもいいんだ。



「なんでもない」



私はこそばゆい気持ちをそのまま笑顔に押し出して、毛布をがばっと被る。



「おやすみ」



※※※



 燻った炭の匂いで目が覚める。

焚火の後が真っ黒に炭化して昨日の景色が嘘みたいにボロボロになってる。

火の粉が飛んで毛布が少しだけ焼けている? 気がするけど

猛獣に襲われなかったのだからこれでいい。

もっともっと北の方には、獣避けの匂いを出すキノコもあると聞くから

これからの冒険に合わせて、もっといい道具が欲しくなる。



「あれ、チカ? 」



 チカはもうとっくに毛布から出ているみたいだった。

朝の心地の良い風に充てられて、じぃっと山の峯を見ている。

私はどうしたの? と聞いたけど答えない。そうだった。聞こえないんだ。

私はペンと地図を出す。でも、もっと遠くの景色を見つめるチカは

なんだか真剣で、とてもすました顔をしていたから

近くの転がっている岩と相まって

整っているような……なんというか絵になっていた。



『どうしたの? 』



「あ、ルカおはよう。……なんか……小さな建物が……ある」



そういえば、仲直りしてないのに、普通に喋りかけてくれてるんだ。嬉しい。



『どこに? 』



 ゴールドメガネを使っても見えないということは

100m以上も先の景色なんだろう。そう考えたら本当に凄い目だね。



「……なんだろう、白くて……一部が高くなってて……まるで……」



1時間も歩けば到着するところに、それはあるという。



「……研究所」



※※※



第八話 〝世界の秘密〟



 一夜明けたおかげかずっと取れなかった気分の悪さもだいぶ和らいで、僕はルカの手を引いて歩いた。昨日は心身の疲労と知覚の混濁に圧されて握る気にもなれなかった小さな手は、この数日の冒険でがさがさしてきたけれど変わらず暖かい。それだけでいくぶん気分が晴れるから、足取りは自分で驚くほど軽い。


『なんだか霧が濃いみたい』


 だいぶ目的地に近づいたところで、ぎゅ、と手を握る力が強まったから振り向くと、ルカがいそいそとペンを動かしてそんなことを言った。

 山道だった。行く手は木の根っこだらけで険しいはずだが、回復してきた体調、結束した心象、フクロウの羽毛を数えられそうな僕の眼、ルカもゴールドランクなのだから、人生でいちばんスムーズに進める道だった。息は上がるけれど、緑豊かな山だから水場を見つけるのにも苦労がない。


「そうなの?」

『霧が あっちの方から流れてきてて」


 ルカがメガネの奥で目を細めながら行く手を指差す。僕の眼には霧が見えない。が、確かに霧の深いところで成長するキノコの植生が多いことはなんとなくわかった。


「ええっと。向こうのほうに霧の発生源がありそうってこと? へえ……」


 行けばわかるだろうからと足を早めた。


「霧の濃いところってさ、いっぱいあるけど……何が原因で霧が濃くなるのかは、分かってないんだよな。にいちゃんもその手の調査よく呼ばれるらしいんだけど、見つかるのはキノコばっかりでうまくいかないんだって。あの研究所。霧の濃いところにわざわざあるってことはそういう研究してるのかな……ごめん。喋れてる? 伝わってる?」


 ルカがこくこくとうなづいたので安堵しつつ、一段と高い木の根によっこいしょとよじ登り、彼女から荷物を受け取る。身軽になった彼女が登ってきて、荷物を返す。慣れたやり取りだ。適度に休憩をとって、合間に雑談する。ルカもそろそろ筆談に慣れてきた。


『見学とかしてみたいかも』

「相手にしてくれるかな。子ども2人で」

『大丈夫だよ! もう立派な冒険者だもん』

「そっか」


 足を進める。

 研究所がルカにも見えてくるあたりまで近づくと、さすがに僕にも湿度の上昇が肌でわかった。ゴールドランクのメガネは霧の流れを視ることができるようで、ルカが確かにあそこからだと眼前の建物を指差す。


「ルカ。卵は毛布にくるんで、鞄の奥に隠しておくんだ」

『なんで?』

「いい人がいるとは限らないだろ。すごいお宝を運んでると、嫉妬した冒険家に狙われることもあるって、にいちゃんが言ってたんだ」


 ルカは神妙に頷くと言われた通りに卵から光が漏れないよう毛布に包み、荷物の中に隠した。それから僕たちは意を決して薄白く分厚い扉を叩く。ルカが口を動かして何かを言う。たぶん、すみませんどなたかいらっしゃいますか、みたいなことだろう。

 何度かノックと呼び掛けを繰り返して、二人して顔を見合わせたころ。ようやく重たい扉が開いた。


「――」


 姿を見せたのはしわくちゃな顔のご老人で、気難しそうな目にはシルバーランクのメガネをかけていた。くたびれた白衣が目を引くが、背筋はまっすぐ伸びていて、全体的には健康そうな印象を受ける。

 薄いレンズの奥の目は真っ先に僕に向いた。たぶん、僕がミミナガでもないのにメガネをかけていないから。


「――!」


 老人がくるりと背を向けて建物の中に入っていく。ルカがペンを握る。


『「まさか」って言ってた』

「まさか……? なんだろう」


 ルカは首をかしげて答えた。

 老人はすぐ小走りで戻ってくる。その手にはペンと小型のホワイトボードが抱えられていて、僕に向かってそそくさと何かを書き記し始める。まるで、僕の耳が聞こえないことが一目見ただけでわかったみたいに。

 老人は達筆な平仮名でこう言った。


『お前、メクジラの血に触れたな?』


 僕は咄嗟に老人の手からボードを奪い取った。ルカに見られるわけにはいかなかったから。でも、手遅れだったみたいだ。彼女は目を見開いてうろたえたように僕を見て、唇を震わせ、何かを言った。ごめん、聞こえない。


「……あなたは、メクジラの研究をなさってるんですか」


 首肯が返ってくる。骨張った手が無言で突き出され、ボードを返すよう促してくる。僕はルカの顔を見る。不安げに揺れる黒い目が、ゴールドメガネ越しに僕を見返す。

 なにも言えない。ボードを返そうにも手が震えてうまくいかない。あの圧倒的な死の光景がまだ網膜に焼き付いている。メクジラにきらきらとした憧れを抱くルカには、いちばん知られたくない景色が。


「――」

「――――」

「…………」


 ひとことふたこと、博士らしき老人とルカが言葉を交わしたようだった。十中八九、メクジラの血とは一体なんなのかという話だろう。ルカが視線を迷わせながら僕の肩を叩き、震える手からボードを引き抜いて博士に手渡してしまった。僕はうなだれる。諦めるしかない。どのみちもう隠せはしない。


『メクジラの血を体内に摂取した者は、霧に惑わされない目を得るが、代償として聴力をうしなうことがわかっている』

「…………そう、ですか……」

『近くに死体があっただろう。あれに触れたのか?』

「……ええ」

「――」


 ルカが泣き出しそうな顔をしたから、あわてて彼女の手を握り、じっと目を見つめて首を振った。僕は大丈夫だから。君が泣くことじゃない。彼女は涙の溜まった目をそのままに、曖昧に頷いて返す。とりあえず泣かないでいてくれるみたいだ。よかった。


『入りなさい』


 老人はそう書き付けると踵を返し、僕たちを研究所の中へ招いた。僕とルカは互いの手を握りしめたまま、薄汚れた白衣の背について歩く。

 霧が濃い。肌にじっとりと湿気がまとわりついている。それに少し埃っぽくて、なんだか嫌な感じのにおいもしている。握る手に力が入った。


『君にはすまないことをした』


 研究室らしいところにたどり着き、使い古された椅子に座ると、博士がそう綴った。僕らは勧められるまま別の椅子に腰掛ける。椅子がたくさんあるようだけど、施設内に博士以外の人の気配はなさそうだ。

 どういうことですか。問うと博士はよどみなく答えた。


『あれはここから逃げ出してしまった個体だ。再捕獲がうまくいかず、わたしが殺処分した』


(………………、…………、……え?)


 思い出す。森をつんざき死の気配を含んだ轟音と、赤い霧、鉄の臭い。僕らを助けてくれた恩人たちが苦しみのたうち回るさま。必死で駆けていったこと。駆けていくしかなかったこと。吐き気。落としたメガネ。どす黒くぬめる地面。そうだ。

 そう、だ。あのクジラは、血を、辺りにぶちまけて死んでいた。どう考えても自然な死にかたではなかった。何者かから爆発物に撃たれたような――


「――!」


 ルカが両手で口許を覆い、肩を震わせている。

 僕はそれでようやく静かな動揺から抜け出して、彼女の肩に両手を添えた。


「博士。その話は……彼女には刺激が強いので……できれば別室でお願いしたいんですけど」

「――!」


 ぽか。ルカの拳が僕の肩に当たる。けっこう本気で殴ったみたいで普通に痛い。なんだよ、と思うと彼女はむくれた顔で、涙の溜まった目で。紙を筆圧でくしゃくしゃにして。


『もう隠さないで!』

「え、うわ、ごめん。泣かないで」

『もう一人で抱えないで!』

「いやでも、」


 でもじゃない、とばかりに丸めた紙を顔に投げつけられた。とうとう決壊した涙が彼女の頬を伝う。うつむいたゴールドメガネのレンズに雫が落ちて流れる。ああ汚れちゃう。大事な超カッコいいメガネが! 僕はやっぱりどうしたらいいかわからず、ただごめんと繰り返す。

 でも、だけど。やっぱり隠さないと、君はこうして泣くじゃないか。


「――!」


 彼女が涙ながら博士に詰め寄った。「どういうことなの」だろうな、と聞こえなくてもわかった。博士は彼女を目に面倒そうに顔をしかめて、しっしと片手を払う仕草をした。僕は彼女の背を宥めるようにぽんぽんと叩き、ごめんねとささやいて、博士に向き直る。


「殺処分したというのは、一体なぜですか」

『メクジラは霧を生む有害な生き物だからだ』

「……霧を……生む?」


 博士はホワイトボードに細かい字をびっしり書き連ねて寄越した。字が綴られ終わるまでの耐えがたい静寂を、僕らは固く手を握りあって凌いだ。

 殺処分。殺処分か。あの災禍とさえ呼べるおぞましい赤い光景を、目の前のこの人が作り出したのか。そう思うと背筋が凍るような心地がする。が、耳の聞こえなくなった僕に悪いことをしたと謝ってくれたし、悪人と決まったわけでもない。まだ逃げ出す時ではない。とにかくも話を、事情を聞かなくては。


『500年前にこの世界を覆った謎の霧、“SUPINA”は、メクジラと呼ばれる不可思議な生物の噴き上げる潮だ。この潮はあらゆる電波を妨害し、人々から視力を奪い、世界を湿った薄暗いものに作り替えてしまった』

「……」

『われわれはメクジラが霧の原因であることを突き止め、長年調査をしていた。もっと奴らの生態がわかれば、人類が霧を克服する手立てが見つかるかもしれないと』


 ペン先が動く。僕らはじっとして、緊張に冷えた手のひらを固めている。


『そこでまず見つかったのが、メクジラの血液が人に霧への耐性をもたらす薬となることだ。多くの同僚が視力を求めてそれを飲んだ。しかし、重大な副作用があった。メクジラの血液は脳に作用し、聴覚機能を完全に破壊する』


 完全に破壊。……そうか。

 薄々は感じていたけど、やっぱりこの耳はもう死ぬまで絶対に聞こえないのか。にいちゃんの朗らかな声も、母の眠たげなぼやきも、ルカの楽しそうなよく弾む声も、僕にはもう。


『さらに言えば、個人が霧への耐性を持ったところで、通信機の妨害などには対処できない。根本的な問題は解決しない。メクジラの血液を薬に使うという案は、すぐに棄てることとなった』

「……それで、殺すことに……?」


 博士は大きく頷いてみせた。

 悲しみと衝撃と、いろいろなものがない交ぜになって言葉が出てこない。メクジラは、霧の原因。世界人口を十分の一まで減らしたという伝説の大災害の、元凶。人類からあらゆる鮮やかな色彩を、絶景を奪い去った。そんな凶悪なものだったなんて。

 僕らが小さな絵本に見た空飛ぶ鯨は、あんなにも鮮やかで、美しくて。ルカが目を輝かせて、ほんのり頬を染めて、宝物だと語ってくれた、そんな、きらきらした、憧れだったのに。

 どうしたらいい。

 だって、僕らは今――メクジラの卵を隠し持って、守っているのだ。

 ルカのこめかみに恐怖からだろう冷や汗が伝っている。

 下手な真似をしなければバレはしないだろうけど、でも、このままじっとメクジラの卵を守って持ち帰ることは、果たして正しい選択なのだろうか? 博士の言うことが本当なら、メクジラは人類の敵で、駆除の対象で。

 いや待て。なにも殺すと決まったわけではないかもしれない。実験動物としてだけでも。そんな淡く破滅的な期待が過る。


「この施設……霧が濃いですよね。個体が逃げ出したって言ってましたけど、他にもメクジラがいるんですか?」

『いや。あれが最後だった。しかも、卵を宿している貴重な個体だった。わたしは別にメクジラを皆殺しにしたいわけではない。霧を晴らしたいだけなのだ。だから、なにか遺伝子にアプローチができれば、霧を出さない赤子を生み出せるのではないかと、生体実験を試みた。が、逃げられてしまった』

「そんな……」

『君たちは死体の付近に極彩色の卵を見かけなかったか? わたしが探したときには見つけられなかったが』


 来た。

 恐れていた問いだ。

 僕は迷わず首を横に振った。いいえと声帯を震わせた。万一隠すつもりで隠せなかったら、後から自ら申告するよりもリスクが大きいからだ。それからルカの方を見る。彼女は全身に悲壮を浮かべて震えている。迷っているのかな。メクジラの赤ちゃんを、守っていいのかどうか。殺していいのかどうか。

 一緒に育てようって、言ってくれたもんな。

 その言葉を思い出すたびに、なんだか胸が暖かくなる。

 だけど。でも。どうしたらいいのか、なにを選んだらいいのか。わからなくなってしまった。

 博士は残念そうにため息をつく仕草をした。僕らが研究の役に立たないとわかるとどっと力を抜いたみたいで、煩雑に散らかった紙を足で払い、椅子に深く座り込む。埃っぽい研究室は持ち主の様子につられて急にくたびれて見えた。


『こちらの話はこのくらいだ。そちらは他に聞きたいことはあるか?』

「…………」


 いいえ、とは、言えない。

 言いたいことが山ほどある気がした。胸のなかが苦悩と葛藤でぐるぐるしている。だがなかなかうまい言葉にはならない。なにより、ルカの背負った荷物のことが気にかかる。メクジラの卵を、この博士に渡すか、どうか。



※※※



第九話 〝奔放への明順応〟



 少しの沈黙が続いた。表情の読めない博士の腕が止まる。

私はポロポロと零れていた涙を思いっきり拭った。

博士の眉毛がピクリと動く。探りを入れられてるのかもしれない。

これ以上チカを不安にさせちゃダメだ。ダメだけど……でも……


(この卵……やっぱりそうだったんだ……)


 死に体になって傷を負ったメクジラのお母さんが

最後の力を振り絞って出産をしたメクジラの命なんだ。

あの極彩色の卵にはこの世界で生きて欲しいっていう

お母さんの壮絶な願いが詰まってるんだ。……

チカはその亡骸を目の当たりにしてしまった。

それなのにアタシは、……思わず、隠し事をしてほしくないからって……


(チカはもう、一生耳が聞こえなくなって……

……私は……絵本の景色を……)


 私はそういう結末に辿り着きたくて冒険をしてきたわけじゃないんだ。

地下の泥の箱も、ミミナガの人達も、副商長さんの時だって

こんな気持ちになるために、ここまで歩いてきたわけじゃないのに


『どうした? 随分と具合が悪いようだね。そこで横になるといい』

「……あ、いや……」


 チカは一生懸命に時間を引き延ばすために何かを考えている。

それなのに私は堰が切れたように怒涛に溢れてくる嫌な気持ちの整理ができない。

キョロキョロと辺りを見渡したり、自分の口元を抑えたりしたい。

でもそれさえもできないから、私はチカの腕を強く握る。震えるな。


『遠慮はしなくていい』

「……見た、……ことがあるかもしれない」


チカは言葉を切り出す。


『何を? 』

「ボク達は2日前、村の副商長が卵を入手したところに立ち会ったことがある。

 彼は市場を管理しているから、取引をするために村に戻ったんだ」


チカの瞳孔が揺れる。

チカはアタシを落ち着かせるために嘘をついて、博士を引き離そうとしているんだ。

でも、それでもその嘘は危険なんじゃないのかと思わずにはいられない。


『その卵の模様は? 』

「今まで見たことがないくらい、言い表せないくらい繊細で綺麗な模様をしていた」


ほの暗い研究室には、湿った紙の束が何枚も重なっていた。


『村の者がその卵を入手した現場はどこだ? 』

「この研究所からミミナガの村までの中間くらいだよ。

 ……博士の目標を実現させるためには……追いかけなきゃいけないんじゃないかな」


 博士はシルバーランクのメガネを持っていた。

ということは昔は冒険家だったのか、もしくはそれと同じくらいの技術を持っているのか。

いずれにせよ、シルバーランクのメガネを持っているということならば

小走りで走っていけば1日ほどで村につく。


『市場で競売にかけられる前に村について卵を割ってしまえばいいと? 』

「あ、……あぁ……そうだ」


 少しでもハッタリを突かれてしまうとバレてしまうであろう嘘をつき

チカはこの場を穏便に潜り抜けようとしている。

私は怖くて、その場でヘタリと尻もちをついてしまった。

こんな時に酷く自分が情けないとさえ思う。

何もできないどころか、気持ちの整理さえできていないのだから


『わかった。情報の提供に感謝する。

 私は自分の研究を〝終わらせに行く〟とする』


 博士はぎょろりと目線を変え、茶色の袋の中に入っている長い筒のようなものを取り出す。

研究室の角のスペースは日用品や薬品などでごちゃごちゃしていて

初めて見るなんだかよくわからないものばかりであった。


『この辺りはミミナガの一族の中でも特に過激な派閥もいると聞く

 キミ達の目的地がどこなのかは知らないが

 私が帰ってくるまで、ここで好きなだけ体を休めるといい』

「……」


 私もチカもこの博士の表情で全てを察した。

この博士の研究への意思ははっきりしており

そのためにはまだ生まれても無い命を奪うことに一切の躊躇いが無いのだろう。


「わかりました。ルカ……彼女の気分が良くなるまでは休ませてもらいます」

『あぁ、そうするといい』


 こうして博士は研究所を後にした。

チカは内側から木の棒でロックをかけた。念のため、ということなのだろうか。

アタシはこの場から逃げ出したかったが、感情が体を追い越してしまっていた。

だから本当に研究所の長いソファに座り込んで、俯きながら黙り込んでしまった。

博士のソファは年季の入った臭い匂いがしたが、でも私の家よりかは清潔な気がした。


「ごめんチカ、泣いちゃ……あ、筆談しなきゃだった……紙……羽ペン……」

「え、え……うん」


 チカはわざわざ紙と羽ペンをポケットから差し出してくれた。

お話をするために大切なことを忘れてしまうくらいには

本当に私は気が動転しているのだろう。まだ呼吸が荒い。


『ごめんね。本当に、ごめん』

「いいよ。とにかく落ち着こう。

 深呼吸とか……とにかく、水を飲めばいいんじゃないか? 」


 最低限の水と食べ物だけが生命線だった。私達はそれを細々と食べて繋ぐ。

まるで世界がこの研究室だけになったみたいだった。

モノクロの霧の世界は、たまに私にこの世界の〝狭さ〟を教えてくれる。

それに絶望することもあったし、それに救われたこともあったのだ。


『あの博士。何を考えているのかわからなかった』

「でもたった一つだけわかることがある。

 あの人はメクジラの最後の卵を壊してしまおうとしているんだ」

『うん。それがあの博士の研究の答えだから』


 私は卵が入っている布を抱きしめた。

どうしてだろう。トクントクンと鼓動が聞こえているような気分になった。

この卵はきっと生きようと必死になっているのだろう。

そんなに遠くない未来に、この卵は孵る。

それがこのメクジラの赤ちゃんにとっての冒険になるのだろうか。


『この子を殺させたくないよ』

「うん」


 チカは優しく頷いた。頷いた時のチカの耳は綺麗だった。頼もしいけど可愛かった。

でもこの耳はもう一生、使い物にならないのだ。この冒険で失ったものだ。私の知らないところで


『博士が村で副商長にさぐりを入れたら、チカの嘘がバレちゃう。

 そうなったら次に狙われるのは私たちかもしれない』

「あぁ、だからここから一刻も早く立ち去らないといけない」


 あの博士が私たちに優しくしてくれたのはチカが〝特別な目〟を持っていたからだ。

こちらが本当にこの世界で最後の一つになったメクジラの卵を持っていると知ったら

あの博士は本気で私たちの命を狙ってくるに違いない。


『筆談のメモも全部燃やして処分しないと』

「そうだな。証拠になってしまう……でも」


 チカは何かを言いかけた。

少しだけ気持ちが落ち着いたとはいえ、これからの旅路ずっと博士に命を狙われるのは怖い。

例え年齢的な問題で体力に大きく差があったとしても、襲われるかもしれない不安があるのは辛い。

だから、チカの提案に従うのが普通だと思うけど、それでもチカは重苦しく口を開いた。


「ルカはいいのか? それで」

『なんで? 』


 その時だった。ドアを思いっきり叩く音が聞こえた。けたたましい音が心臓に悪い。

いや、正確には私には聞こえたのだけど、チカには聞こえていないのだろう。

博士が戻ってきたのだ。戻ってきたというよりもまだ遠くに行っていなかったのだろう。


「おい貴様ら!! 開けろ!! やはり卵を持っていたのか!! 」


 博士はこの扉を固定させたことに気が付いていなかったらしく

強行突破をしようと何度も何度も体当たりをしている。

ただの木の棒でつっかえにしているだけだから、破られるのは時間の問題だ。


「なんで……! 」

「……あの博士は最初から僕達を怪しんでいたんだ。

 だから僕のハッタリにひっかっかった振りをして、扉の近くで聞き耳を立てていたんだ」


 私は思い出したかのように慌てて紙と羽ペンで意思の疎通を図る。

けれど恐怖心が勝ってしまい、手が震えて羽ペンが持てない。

このままでは殺されてしまうと思うと、どうすればいいのかわからない。


「卵を寄越せ!! そのメクジラは生まれてきてはいけない存在なんだよ!! わかっているのか!! 」


 老人が扉を叩くたびに、研究所の上の棚から埃が振ってくる。

年季が入りつつも、まだ老朽化はしていない建物なのだろうが

ギシギシと振動が伝わって今にも壊れそうだった。


「……ルカ!! 立ってくれ!! 頼む!!

 僕ではあの男がどういう脅迫をしているのかも聞き取れないのだ!! 頼む!! 」


 私はチカの懇願も空しく、そのまま地面に座り込んでしまった。

両腕で目を覆って、まるで現実逃避をしているかのような……


「……」


 もういい。もうわけわかんない。どうしたらいいかわかんない。

この研究所の構造がわからないから、出入り口も1つしかないのかもしれない。

どちらにしても、もう私の夢は叶わないのだ。だから冒険はここまでだ。

この世界から霧を取り除くということは、メクジラを殺してしまうということ

絵本の中の素敵な景色なんて、最初から無かったんだ。

それなのに私はチカを巻き込んで、それで耳まで聞こえなくなっちゃって

でも、だけど、なんとかしなきゃいけなくって……

どうしよう。どうしようどうしよう。どうしようどうしようどうしようどうすれば……


「ルカ」


昂った博士の怒声が聞こえる。

そんな中、チカは私に優しく言った。


「もういい。わかった。メクジラを引き渡そう……

 それでキミの命が助かるなら……」


 二つの命と一つの命なら、二つの命が助かる方を選ぼう。

いや、これはチカの言葉ではない。チカが私を説得させるためだけの言葉だ。

私はそれが信じられず、ショックで、また泣きそうになった。


「あの卵を博士に……その、……任せてしまえば……

 いつかこの世界から霧は消えてしまう 」


私は羽ペンを落とした。


「ルカの夢は……カラフルな世界を冒険することだったんじゃないのか?

 小さいころに見た絵本みたいな綺麗な景色を、旅したいんだろ?

 だったら……メクジラは……いない方が……ルカの夢が叶う」


 今からでも博士を追いかけて、卵を〝処分〟してもらえば

私の本当の意味でのカラフルな冒険の夢は叶う。

それを聞いた途端、私は思わず大きく口を開けて叫んでしまった。


「ち、違う!! そうだけど……そうだけど違うの!! そんなのダメ!! 」


私は紙と羽ペンをもう一度ギュッともってチカに書いて伝える。書かなくても伝わってたけど


『ちがうよ!! 』

「……ごめん」


 もう頭の中がぐちゃぐちゃになる。せっかく水を飲んで落ち着いたのに

またチカを困らせてしまうのは嫌なのに、それなのにどうして


『私! この子を抱きしめて分かった。この子だって生まれたいんだ。

 それがこの子にとっての冒険なんだよ。例えお父さんとお母さんに会えなくても』


 命の危険だというのに、私は今チカに逆らって時間を浪費してまで我儘を主張している。

それをチカは真剣に聞いてくれている。でも、口角だけは少しだけ上がる。

扉を叩く音がまだ続いているというのに、不安なことばかりなのに

ここ数日のチカはずっとそう、いつのまにか少しだけ、私よりも少しだけ先にいる。


「……でも、この子を生かすということは……

 ルカの冒険の邪魔をしてしまうのと同じなんだ。それでもいいのかい? 」


『わかんない。わかんないけど今は……』


私は立ち上がった。涙を拭いて羽ペンで書き殴る。

まだ冒険は終わっていない、チカの耳のこともメクジラのことも

今は考えちゃダメ。振り回されちゃダメなんだ。


『逃げよう』


 チカと目が合った。同じことを考えているときは、筆談なんてしなくていいんだね。

戦えないのなら逃げればいい。世界の見方を変えて、順応すればいい。


「うん。そうしよう」


 私はもう一度チカと手を握る。もう離さない。

心臓の周波数を共有しているような、そんな感覚になっていく。

私はこの卵を、守るために走らなければいけないのだから


「せーので走ろう。僕の手の握る力を2回強くする。それが合図」

「わかった」


 博士は何かが爆発する音とともに衝撃で扉を破った。

部屋の中に入ってくる。何かの筒のようなものを持っていた。

500年前の飛び道具なのだろうか?

1発ごとに爆薬を手動で仕込んでいるのだろう。錆による老朽化が酷そうだった。

何か脅迫や取引じみたことを言っているようだけど

向こうも冷静ではないのでよく聞こえなかった。


「せー-のっ!! 」


 チカが2回、私の手をぎゅっと握る。

駆け出す合図だ。私は一目散に研究室の中を走っていく。

私は床に散らばったメクジラの研究資料を踏みつけながら進む。


「待て!! 待て貴様ら!! 」


 問題はあの鉄の筒? の飛び道具をどうやってやり過ごすかだ。

チカとジェスチャーでどこまで作戦会議ができるかどうかわからないけど

今ならなんでも、できそうな気がするから!


「相手の老人はシルバークラスのメガネ……

 だけどこっちはゴールドクラスのメガネとそれ以上の特別な目……

 いくら相手の飛び道具が凄くても……50m以上離れれば、相手の視界には動かない」


『はい』


 こういう時のために作っておいた『はい』『いいえ』のメモが役に立つ。

他にも『嫌だ』とか『やめて』とか『トイレ』とか『バカ!』がある。

走りながらでも簡単なコミュニケーションなら取ることができる。

こういう時のために作っておいて良かった。


「向こうは老人だ。今は20mくらい離れている。

 相手の飛び道具は1発ごとに補充しないといけない……

 室内でも霧は出るから、ジグザグに走ろう! 」


 博士が一発撃ってきた。早い。

でも見当違いの外れだ。アッチだって戦闘のプロではない。

卵の入った袋を前に抱えながら走っていけばいい。

短期決戦を望んでいるのは博士の方だけなのだ。


「……見て! 博士が何かごそごそと取り出しているよ!

 やっぱりあの錆びた筒みたいなのは、オンボロなんだ!

 使い慣れてない骨董品に、無理やり火薬を入れてるだけなんだよ! 」


 私は少しでも希望にしがみ付く為に、博士の方を見て

トントンとチカの肩を叩いていった。チカは聞こえなかったけど

アタシがどういう気持ちなのかを汲み取ろうとし……


「ルカ! 違う! あれは……」

「へ!? 」


博士は筒をいじっていたのではなく、カバンの中からメキキダケを取り出したのだ。

それも、1つではない。3つも!


「逃げられると思うな!! 」


えぇええええ! 一度に3つも使っちゃうの~!


「な、なんて贅沢なことを……! 村だったら叱られちゃうのに……! 」

「今は呑気なことを言っている場合じゃないだろ! 走れ! 」

「なんで呑気なことを言っているってわかったのよ~」


 博士はメキキダケを使って研究室中を照らした。

何度も何度も本棚を曲がって、木の匂いやカビの匂いのする棚の並んだ一室をジグザグと進む。

もう30mは離しただろうけど、まだ博士の〝視界〟の中に私たちは入っている。

メキキダケのおかげで、きっと博士の視界も補われているのだろう。


「……チカ! 撃ってくるよ!! 」

「な、え!!? 」


 弾丸が一発、チカの眉間を襲った。

私とチカは左に曲がるはずだったのに右に曲がって強引に倒れこんだ。


「し、死ぬかと思った……」

「間一髪だったね……でもなんで……絶対避けれないと思ったのに……」


博士が苛立ちながら言った。


「……メクジラの〝血の煙〟で視力が向上した者は霧を見ないようにする力が備わるだけではない。

 動体視力、視神経の伝達速度、空間認識能力も上がるのだ……〝クジラの子〟め……救われたな」


 チカ、そんなに凄い人になっちゃったんだ。

ゴールドクラスの冒険家になりたいっていう夢が叶う前に

冒険家よりも凄い存在になってしまった。そう。

今のチカなら、世界中のカラフルな景色が見えるのだ。

メクジラを殺すことなく、私の見たかった景色が……


「キミと一緒なら、……」

「ルカ、何か言ったか? 」


『なんでもないよ』


 1度完璧に銃弾を避けられたのが幸いし

ジグザグに棚の迷路を走り続け、博士とさらに差が付いた。

これでもう、後は逃げ切るだけだと思った。

だけど見通しが甘かったのだ。


「……行き止まり……」


 さっきの銃撃で左に曲がろうとしたところを右に曲がるように誘導された。

やられた。……視界と体力のメリットがあっても、年季の違いが出てしまった。

博士は冒険家ではなかったが、機転はよほど効くらしい。

さっきの銃撃で左に曲がろうとしたところを右に曲がるように誘導された。

やられた。……視界と体力のメリットがあっても、年季の違いが出てしまった。

博士は冒険家ではなかったが、機転はよほど効くらしい。

もうこちらに打つ手がない。向こうで新しい弾丸と火薬を摘める音がする。

博士はもうあと少しのところまで迫っている。


「……これではクジラではなくネズミだな。

 さぁ……その卵を渡したまえ、今なら命までは取らん」


 もう何もかも打つ手がない。袋小路に追い詰められた私たちは

何かを投げたり、ひっかけたり、撃つ前に避けたり、交換条件を提示したり

打開策が何一つ思いつかないのだ。でも、決心が鈍ることが無かった。

私もチカも、ここで卵を渡すつもりはないのだ。


「嫌だ……この子は生きたがってる! だから渡さないよ!! 」


 博士は何も言わなかった。ただただ筒をこちらに向けた。

もう寸前で避けるくらいのことしか思いつかなかった私はお腹に力を入れた。


「ルカ!! 袋が!! 」


 博士が引き金を引こうとしたその瞬間、卵の入った袋から金切声が聞こえた。

これは、違う。産声だ。……袋の口からメクジラの赤ちゃんがひょっこりと顔を出す。

メクジラの赤ちゃんは今、この瞬間、この世に祝福されて生まれて来たのだ。

その声の大きさに、私たちも博士も思わず耳を塞ぎ、よろける。

幼体とは思えないその声量の大きさと高さに、棚に置いてあるガラス細工にヒビが入る。


「今しかない! 走って逃げよう!! 」

「うん!! 」


 手を握りなおして私とチカは袋小路から脱出する。

一瞬生まれた隙でしか無かったので、暴発でもしてしまったらどうしようかと思ったけど

無防備だった博士にあの声は腰が抜けたのか、気が動転したのか

右往左往に手をバタバタさせて落としてしまった筒を拾おうとしている。


「ぐっ、待て、待つのだ……」


 博士の足の周りに研究をしてきた試験管や書類の束が散乱し

博士は思わず足を滑らせてしまった。私にはそれが、何かの意思が込められているのかとさえ思った。

そして私たちは、研究所の外に抜けたのだ。


「チカ……」


 苦し紛れに放った最後の博士の一発は

この世界の深い深い霧に阻まれ、空しく破裂音だけが響いた。


『帰ろう』


 私はもう一度だけ、チカの手を握りなおした。

抱えた袋の中には、いつの間にか眠っていたメクジラの赤ちゃんの寝息だけが聞こえていた。



※※※



最終話〝近くカラフルな気持ち〟



 この短い旅のあいだに僕は、命の終わる瞬間も、始まる瞬間も見た。どちらも悲壮に息を切らしながらのことだった。どちらも同じ鮮烈な色の前でのことだった。けれど、片方は孤独で、片方は、手を握りあって頷きあった人が隣にいた。

 それだけで走れた。散々な旅だったけど、それでも僕らは走った。

 研究所からとにかく離れるため、休憩もそこそこにほとんど落ちる勢いで山を下り、ぜいぜいと肩で息をして。本当の本当に体力が尽きたところで立ち止まった。水を飲み、鼓動を落ち着かせ、食糧を補給した。卵から孵ったメクジラの赤ん坊は何も知らないみたいに彼女の腕の中で心地よさそうに眠っていた。


「なあ、ルカ……これから、どうしたい……?」


 あまりの疲労にひたすら無言で食糧を咀嚼していた僕らは、谷底の小川のほとりでようやっと口を開いた。ルカはゆっくりと水を一口飲み干してから小さな頷きを返して、抱えたままの赤子に目を落とす。赤子とはいってもあの巨大なメクジラの幼体となると大きさはひと抱えある。ずっと抱き上げているのも大変だろうに、ルカは文句を言うでもなく、ただ愛おしそうに新たな命を見つめていた。体表から発せられる極彩の淡い光が彼女の頬をやわらかく照らしている。

 ああ、母の顔だ。と、直感してしまう。僕の母を思い出したとかではなく、もっと普遍的で根源的な、母の顔。

 だから、問いの答えが書かれるよりも前に、彼女の言いたいことがわかった。

 生きたいんだろう。

 ルカは、その子と一緒に。


『名前を考えよう』


 ルカは、抱いていた赤子を草の上に下ろすと、ボロボロになったメモのしわを丁寧に伸ばして、そんな言葉を綴った。


「名前? もしかして、この子の?」


 首肯。


『私とチカで、一緒に考えよう』

「一緒に……」


 それじゃあまるで僕がお父さんみたいだ。

 なんて考えてしまったからちょっと気恥ずかしくなって、小川の流れに視線を移し、そそくさと水筒に水を汲んだ。立ち上がって、そっぽを向いて、そろそろ行こうかと声に出した。ルカは返事を遅らせた僕に目をしばたたいたけど、素直に荷物をまとめて赤子を抱え直す。

 と、眠っていた赤子が細腕の中からぴょんと跳ね上がった。


「おわっ!?」


 宙を泳ぐように尾ひれをばたつかせた赤子は、きらきらと極彩色の光を撒き散らしながら僕の肩に飛び乗ってくる。いや重い重い。けっこう大きいんだから、飛べるなら自分で飛んでいてほしい。

 バランスを崩しそうになった僕をルカがとっさに支え、結局ふたりで赤子のひれを片方ずつ握る形に落ち着き、ふたりと一匹で歩き出す。鳴き声は僕には聞こえないけど、尾びれを揺らす赤子が上機嫌なのはなんとなく伝わってきて、どこか暖かい気持ちになる。

 ずっと緊張が続いていた。少しくらい、今くらい、平穏を噛み締めても許されたい。

 深く息をする。

 

「……とにかく、急いで帰らなくちゃ。なんとか逃げ切れたけど、博士はきっとまだ追いかけてくる。追い付かれる前に、どうにか村の大人に会って、助けを求めよう。子ども二人だけでずっと逃げ回るなんて無理だよ。他の色んなことは、安全になってから考えたい」


 赤子が僕を見上げて尾びれを揺らしている。おまえは無知でご機嫌でいいよな、と思うけど、そのままでいてほしい、とも痛切に思う。きらめく流線型の命はまだ無垢で、まっさらだ。生まれただけの赤子に罪はないんだ。罪は、ないはずだ。

 僕にはもう見えない、深い霧の元凶であることも――

 正直言ってまだ整理はつかない。つかないけど、今こうして赤子と敵対せず戯れてしまっていることが答えのような気もしている。

 ルカが何かを言うためにひれから手を離したので、赤子は僕の方にじゃれつくようにすり寄ってくる。恐る恐る色鮮やかな体表を撫でてみると、思ったよりざらざらしていて、思ったより温かい。


『村の人に事情わかってもらえるのかな』


 ルカは僕にじゃれつく赤子を不安げに見つめた。

 そう、メクジラの赤子だなんて大発見もいいところなのだ。本来ならば重要な遺物は村の市場に提出して、偉い人に厳重に管理してもらう決まりだ。

 だけど、わかっている。もうルカはこの子を手放す気はないのだろう。ルカは、っていうか。……僕らは。


「あるかもしれない。でもま、そのことは大丈夫なんじゃないかな。僕がなんとか説得してみる。いざとなったらにいちゃんを通せば、市場の人とは仲いいし」

「……」

「それにさ、この子、こんなに僕らになついてくれてる。それを引き剥がすほど村のみんなは冷たくないでしょ、たぶん」


 笑って言いきればルカの顔がさらに曇った。あれ、どうして。彼女は何かを口頭で呟いたみたいだけど僕にはわからない。ただ赤子がくるりとルカの方を向いて、まるで慰めるみたいにその肩にひれを触れさせた。生まれて一日も経っていないのに、人の気持ちがわかるのだろうか。あるいは、ルカが孵した子だからルカには敏感、とか? 僕には脈絡なくじゃれてくるけど、ルカと接するときのこの子は、ときおり彼女の気持ちを汲んだような素振りをする。


「ルカ? ごめん僕、何かよくないこと言った?」


 彼女はしばらく答えなかった。僕らはそのまま急ぎ足で村へ向かい続けた。深い茶色の木の根を越え、緑の茂みを掻き分け、薄ら青い水面を見つければ水を汲み。道中、僕には聞こえないけど赤子が泣き出したみたいで、ルカがおろおろと水を用意したり食事を差し出したりもしていた。メクジラは雑食らしく、けっこうどんなものでもよく食べる。僕らの食糧、節約しないとなあ。

 そんなこんなでばたばたしているうちに彼女の機嫌も普通に戻って、日が落ちてきたからさすがに野宿をしようと準備を始めたあたりで、彼女は長い長い手紙を書き綴った。焚き火の焔に赤子が近づかないよう僕が見張る隣で、熱心にメモに向かって、ペン先を動かして。

 思い出す。本当はつい昨日のことなのだけど、遠い昔のことみたいに追想する。こうして夜になって焚き火のそばで、ルカと身を寄せあって、何もわからないまま言葉にならない言葉を交わしたあのときのことを。思い出すと胸の辺りがやけに浮わついて落ち着かなくなる。揺らぎ昇っていく火花のように。ゆらりゆらりと舞ってしまいそう。

 僕は努めて無心になって赤子の背を撫でた。そうしていると落ち着くみたいで、いつも無邪気に動き回る赤子も大人しくしてくれるのだった。


「――!」


 とん、と肩をつつかれ、紙が手渡される。見れば、ゴールドメガネのレンズ越しに真剣な彼女の目が、僕をじっと見据えている。僕はつつしんで受け取った。

 なんだろう。こんなにも改まって彼女が何かを伝えようとするなんて。

 赤子の見張りを彼女に代わってもらい、僕は彼女の綴った一生懸命な筆跡を夜の隅にたどり始める。


『ずるい』

「……」


 一言目が、それだ。

 なおさら昨晩のことを思い出して、心臓が大きく脈打つ。


『帰らなくちゃいけないのはわかるよ 今のままじゃ危ないし、大人に頼るべきなのもちゃんとわかってる でも、私、不安なんだ』


 横目に彼女の様子を伺う。愛おしげにメクジラのひれをつついてみて微笑んでいる。彩度を落とした夜の世界の真ん中で、カラフルにきらめく赤子と彼女が並ぶと美しいなあ、と率直に感じる。紙に目を戻す。


『頼れる大人なんていないもん』

「……」

『村で話をつけるなんてムリだよ 副商長さんは確かにやさしかったけど 私の一族は市場の人とはすっごく仲が悪くて 赤ちゃんのこと もし市場の人が許してくれてもお母さんは許してくれないと思う

だから家出したんだ

冒険だって、私は最初から許されてなくて 帰ったらきっとものすごく叱られるって、思い出しちゃって それが怖いの』

「……ルカ、」


 思わず名前を呼ぶ。目が合って、どちらからともなく逸らした。読み進める。


『チカが連れ出してくれて、私のためにたくさん考えて助けてくれて、すっごく感謝してる チカと一緒ならなんでもできるって思うし チカと一緒ならなんでもやろうって思えるよ だけど、』


 考えている。

 僕は。

 ――僕は、どうしたいんだろう?


『私のわがままで始めた旅で、チカをひどい目にあわせちゃって、このまま逃げてもずっと追われて危険で、だからって帰っても私の一族とのごたごたに巻き込んじゃう 私のせいでチカをたくさんツラい目にあわせちゃう』

「そんなことない!」


 咄嗟に声が出る。遊び疲れて微睡んでいた赤子がぴくりと背びれを震わせて、ルカが唇の前に人差し指を立てる。ご、ごめん。


『だからね、チカに選んでほしい』


『これまでずっと、ずっと私がわがまま言って、チカがそれを助けてくれてたよね、でも、だから』


『今度は、チカの番だよ』


 僕は文字を追う目を止めて考え込んだ。そうだ。ずっと余裕がなくて忘れかけていたけれど、僕には足りないものがあった。それは意志だ。鉄砲玉みたいに勢いよく、強くてまっすぐな、意志。気持ちを、願いを、実際の行動に変えてしまうほどの心の力。ルカには最初から備わっていたもの。僕がルカにばかりすがってしまういちばんの要因でもある。

 それで、ここまで来て、意志をもって僕に選べというのか。

 なにを今さら?

 僕が君の泣くようなことを選べるわけがないのに?

 ルカは――

 ずっと、ずっと、眠る赤子の背を優しく撫でている。


『私は、この子を守りたい』


『たとえ、私がもう冒険できなくても、夢が叶わなくても。この子に未来を見せてあげたい。この子は生まれたばっかりで、たくさん、たくさん希望がある』


『子どもの夢は、きっと、奪われなくていいはずなんだ。本当は、奪われちゃダメなはずなんだ』


『だからこの子の冒険を守りたいの。お母さんに何を言われても、苦しいけど、怖いけど、譲りたくない』


『チカは、どうする?』


 そんなの決まってる。問われるまでもない。

 手紙はそれで終わっていた。僕はそっと紙をたたんで大切に仕舞いこむ。顔を上げればいつのまにか焔の弱くなった焚き火がぼうと夜を照らしていて、傍らには眠る赤子と、優しい母の眼差しをしたルカがいる。

 霧の見えないこの目には、夜空の遥か遠くに、星が瞬いて見えている。何もかもが輝く、これがルカの夢見ていた世界だ。確かに、濃霧に閉ざされたモノクロの世界よりかは美しいに違いない。けれど。

 どこを見渡しても、僕にとっても、傍らにある温もりひとつよりも大切なものなんて見当たらなかった。どうしようもなく、美しく思えてしまった。どんな景色よりも、僕の手を握っていてくれた彼女と、彼女の愛するちいさな命の温度が――この世でいちばん、美しく思えた。

 もう迷わない。


「ああ……」


 なんだ、ここにあったじゃないか。

 あったんだ。

 僕の意志が。

 不安や理屈に押し負けるいとまはない。考えるよりも前に決まっている。動き出すよりも前に、心の真ん中に、とっくに灯っていた光だ。そうだったのか。こういうものだったんだ、意志っていうやつは。


「ルカ」


 赤子を起こさぬよう声を潜めて、僕は手を伸ばした。

 彼女は一瞬だけ視線を迷わせた。これから起こるだろうたくさんの困難が見えていて、怖くてたまらないのだろうに、それでも、じっとこらえるように口許を引き結んでいた。僕にはわかる。それはこの子がいるからなんだ。彼女がこんなにも自分の気持ちと向き合って、言葉にできて、それでいて気丈に穏やかにいられるのは。夢を諦めてもなお強く在ろうと願える、そこに灯る光は。僕にはわかるよ。きっと僕らは同じものを持っているんだから。


「ずっと一緒にいるよ」


 当たり前、だろ?

 両腕いっぱいに彼女を抱き締めたから表情は見えなかった。でも抵抗されなかったんだから、とりあえずはいいのかな。


「不安なときとか、怖いときとかさ。今までとおんなじだよ。一緒に乗り越えよう。君がお母さんと話すときも、手を繋いでおこう。どうなるかわかんないけど、でも、僕らで、ふたりでこの子を育てよう」


 夢は、叶わなかった。

 僕の夢は、カッコいいメガネを手に入れること。彼女の夢は、カラフルな景色を旅すること。

 僕らは夢破れた旅路の先でこの世界を覆う災厄の根源に触れた。本当は博士の方が正しいのかもしれないとは今も考えてしまう。霧に閉ざされた暮らしは狭苦しいものだったと、霧が見えなくなった今の僕ならわかる。人類のためを思うならこの赤子を殺すべきだ。

 けれど、僕らは別に神様でも英雄でもない。そんな御大層なのは願い下げだ。世界なんてどうでもいい。人類のことなんてあまりに大きくてよくわからない。

 ちっぽけな夢破れた子どもでしかない僕らに、今わかることは、とても少ない。

 ひとつは、眠る赤子の身体が温かいってこと。

 ひとつは、……


「ルカ、大好きだよ」


 これが僕の意志だってこと。

 抱擁を解く。彼女と目が合う。やっぱりって言ったら悪いけど、やっぱり泣いていた。不安や恐怖や、申し訳なさ、安堵、歓喜、何もかもが混ざったみたいな涙だった。口許は結ばれたまま。赤子のために嗚咽をこらえているのだ。

 彼女は、強くなった。

 強く在るのは、まぶしくて大切だけど、苦しいことなんだとわかった。僕は手のひらで彼女の涙をひとすじ拭った。


「明日もまた急がなきゃだ。さ、交代で眠ろう」


 彼女は頷き、ごしごしと涙を拭って、少し焦げた毛布にくるまった。僕は消えかけの焚き火を前に座り直して、上空に白く輝くひときわ大きな天体が半分くらい空を回るまで、赤子の様子を見張った。




 村に帰りつくまで、幸いなことに博士との邂逅はなかった。ただ途中で食糧が尽きてしまって、僕の目を使って食べられるものを探しもしたけど足りなくて、本当にギリギリの旅路になった。最後の半日は水しか口にせず険しい山道を歩き続けた。とにかく生まれたばかりの赤子が飢えないように、貴重な食糧はなるべく赤子に回していた。

 僕はミミナガの部落に立ち寄ることにした。ルカは不安そうにしたけど、僕が行きたいんだと言うと信じて頷いてくれた。

 ルカを翻訳者にして、ミミナガのおじさんと会話をした。おじさんは開口一番に「無事でよかった」と言ってくれたらしい。そして「この間は助けてくれてありがとう」と。僕が助けたわけでは全然ないから首を横に振ったけど、ありがたいことに食糧を少し分けていただいた。メクジラの赤子はというとミミナガの人がちょっと怖いのか鞄にこもって出てこなかった。


「本当に、本当にありがとうございます」


 それから、……ずるいかもしれないけれど、博士についてを話した。あの轟音はある老人が引き起こしたもので、僕らは今その老人に追われていて、もしかするとその人がここへ僕らを探しにくるかもしれないから、そのときはどうかしらを切ってください、と。

 大人を頼る。

 ミミナガのみんなは轟音の原因になった人がいると聞くと明らかに表情を変えて弓矢を背負い直していた。物々しさに気圧されてしまうけれど、怖いとは思うけれど、こうするのがこの子のためにはいちばんいいはずだ。

 ルカが僕の手を強く握りしめていた。


「それじゃあ、よろしくお願いします」


 手を振って部落を抜ければ、村まではすぐだった。

 ルカが滑り落ちたぬかるみ。懐かしいねと笑えば彼女は苦々しい顔をした。やはり村が近づくと不安になるのだろう。彼女の不安を感じ取ったのか赤子がひれを使って不器用に彼女の背を撫でている。たった数日で撫でるなんてことまでできるようになって、赤子の成長はめざましい。

 大丈夫だよ。一緒なら乗り越えられる。命の危険だって何度も乗り越えてきたのだから。

 村への道を進むと、他人の気配を感じ取ったのか赤子は鞄の中に引っ込んだ。僕らは固く手を結んで歩く。そんなに長いあいだ村を離れていたわけでは決してないのに、何もかもが違ってしまったように感じながら。

 いや、違ってしまったのだ。

 僕には色が見える。彼女はゴールドランクのメガネをかけている。そして、守るべき命と共にある。


「――にいちゃん! ただいま!」


 村の誰かに何か言われるより先に、真っ先ににいちゃんに会いたかったから、僕は彼女の手を引いたまま村の中を走って突っ切り、自宅のドアを勢いよく開いた。

 自宅のリビングルームがこんな色だったことを初めて知った。母や父やにいちゃんの髪や目の色さえも、初めてこの目にとらえた。この目にしかとらえられない。


「――!? ーー!」

「にいちゃん~!! 会いたかった~! ちょっと冒険してきたぜ! この通り元気に生きてるよ! こっちは一緒に旅してくれたルカって子! あ、ごめん! 僕、耳が聞こえなくなっちゃったから筆談してもらっていい!?」


 がたがたがた。椅子を転がして家族全員が急に立ち上がったから振動が足元に伝わる。ルカの方をチラリと見てみればちょっと気圧されて半歩退いている。赤子もすっかり引っ込んで出てくる様子はない。

 わたわたと父が紙を用意して、母がペンを持ってきて、兄がそれをふんだくって殴り書きをする。


『聞こえないってなんだ!? メガネは!?』

「メガネはいらないから捨てた! ちょっと色々あって僕、目がすっごくよくなっちゃったんだ。耳が聞こえないのは、代償? ってやつなのかな」

『じゃあ、もしかして、二度と聞こえないのか』

「うん」


 家族間に動揺が広がる。

 でもまだまだ話すことがあるから、止まっていられない。


『そのルカちゃん? もゴールドメガネみたいだが』

「うん、すげーだろ? 僕らもう立派な冒険者なんだ! ……っても、もう冒険はしないかもしんないけど……」

『何か遺物を!?』


 ルカと目配せをする。繋いでいた手を離して、鞄を下ろし、袋を開ける。中に縮こまっていたメクジラの赤子が僕の顔をもぞもぞと見上げた。


「怖くないよ。僕の家族なんだ。みんな優しい」


 頭を撫でてやると、恐々といった仕草で赤子は袋から鼻先を出した。たとえメガネがなくたってこの鮮烈な体表の輝きはわかるだろう。家族に向き直れば、みなが口を開けてぽかんとしている。

 僕は倒れた椅子をひとつ引き直してどっかりと座った。姿勢を正し、真剣さが伝わるよう、兄の目を見て、宣言する。


「僕らはこの子を守るつもりだ」


 ルカが袋の中から赤子を抱き上げた。赤子は不思議そうに背びれをきらきらとぱたつかせる。


「お願いだ。協力してほしい。この子は怪しい研究者のおじいさんに命を狙われてて危ないんだ。それに、市場に引き渡すつもりもない。僕らにこうしてなついてくれてるから、僕らが育てる」


 困惑。

 相手の顔がよく見えるこの目があれば、声が聞こえなくてもわかることがある。

 さあ、来い、話し合いなら何時間でも折れる気はない。僕だって強くなった。意志があるんだ。僕の、僕らの願いなんだ。

 ルカが赤子をあやしながら口を動かして、何かを言っている。家族は突然のことに目を白黒させながらも、ガキんちょの僕らの話を真剣に聞いてくれる。

 何かを言い終えた彼女は倒れていた椅子をまたひとつ立て、座って、僕の手を握り直した。家族が目配せする。


『何があったのか、全部教えろ。話はそれからだ』

「……わかったよ」


 不安はある。

 僕らの選択は決して正しくない。全部を伝えれば反対されるかもしれない。でも霧の真実を今ここで隠したところで博士が追ってきた時には発覚するだろう。それなら言っておいた方がいい。なにより、にいちゃんに嘘なんてつきたくない。

 僕は信じている。


 そうして。


 ぞろぞろと連れたって村を歩いた。

 僕、ルカ、兄、父、母。

 兄は言った。「お前がそんなにはっきりやりたいこと伝えてくれたの、初めてだな」と。母は言った。「いい子が息子に着いていてくれたみたいで安心した」と。父は言った。「とにかく生きて帰ってくれてよかった」と。

 僕らは市場に押し掛け、村の偉い人たちを集め、メクジラの子どもについて、危ない追っ手の存在について話をした。少し怖いけど、メクジラの災厄性に関しては家族の判断で隠し通すことになった。にいちゃんが率先して話し込んでくれて、副商長さんはむっとしていたけれど、なんとか話はうまく片付いた。言いつけがみっつある。市場へこまめな経過報告と赤子の顔見せをすること。メクジラの生態について、ふたりで本を書いて、市場の売り上げに貢献すること。危険があれば何でもすぐに伝えること。

 そしてこれから僕らはルカの家に向かう。全員で、頭を下げるつもりだ。心配をかけてごめんなさいと、それとメクジラの子どものことを認めてくれと。何時間かかるかわからないが、何時間でも粘ってやるぞと思う。父母が長期戦を覚悟してメキキダケを余分に持ってきてくれている。僕にはいらないんだけどね。

 ルカは歩きながらまた「ずるい」と言いたげに瞳を揺らして僕を見ている。ずるいよね、ごめん。だけど、だからこそ。僕の持てる全部をこれから君のために使わせてほしい。僕はうれしいんだよ。これから母親に叱られに行くというのに、君がもう怯えた素振りを見せないことが。ずるいと羨んでしまうくらいに、信じてくれたんだろう。僕の家族のことも、僕のことも。


「なあルカ、忘れてないだろ?」


 彼女が首をかしげる。


「この子の名前をふたりで考えるって話だよ。いろいろ話がついたら、すぐにやるからな。いい案、今のうちにたっくさん考えとけよ」


 不安ばかりに思考をとられないように。

 この子の未来に夢を見るんだ。


 ルカの手を握り、人にだんだん慣れてきたのか堂々とじゃれついてくる赤子の背中を撫で、まだびっくりしているにいちゃんにはどうだすごいだろうと胸を張り。

 カラフルな世界で独り、だけど仲間の輪の中で、守りたい夢のすぐ傍で、モノトーンの濃霧に閉ざされたちいさな村の片隅で、僕は歩いた。

 立ち向かうために。

 旅路の果てで辿り着いた、愛しいすべてのために。




おしまい

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SUPINA 鳩鳥九 @hattotorikku

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