今しかない一瞬を
どら焼きと駄菓子を手土産に葉火の自宅を訪れた憂と虎南は、門前で掃き掃除をしていた巳舌さんに迎えられ、葉火の部屋へ通された。
正確には、部屋の前。
曰く「昨晩はなかなか寝付けなかったようです」とのことで、ノックをしても中からの反応は無かった。
「あの子にも伝えてありますが、これから火富さんと私は外出するので人間はあなた方三人だけになります」
「人間以外は存在するようにも聞こえるんですが」
「もし家を空けるのであれば、戸締りと封印を忘れないように」
澄ました顔で繰り出される冗談は、憂にかつて一夜を共にした日本人形の群れを想起させた。
当時の恐怖が鮮明に蘇る。
それによって憂は言葉を詰まらせてしまったが、巳舌さんは気にする様子もなく綺麗な会釈をした。
「言いそびれていましたが、ありがとうございます」
一体何を指してのお礼なのだろう。
どら焼きに対してなら先程玄関で手渡した際、大変喜んでもらっている。
訊いてみようとするも巳舌さんはピリオドとばかりに微笑して、どら焼きを抱えて去って行く。足取りは軽やかだった。
その後ろ姿を見送って虎南へ視線を移すと、いつの間にか戸をずらして葉火の部屋を覗き込んでいる。
「ひゃー可愛い。葉火さんともあろうお方がなんと無防備な」
虎南の頭に顎を置き、憂も葉火の観察に加わる。
葉火は部屋の真ん中で仰向け、赤いビーズクッションに両の足首を乗せる格好で熟睡していた。
まるでりんご飴のようだ。
その葉火らしさに憂は笑った。
一度戸を離れて、そっと閉じる。
すると虎南が悪巧みを隠そうともしない笑みを湛えた。
「ここは一つ、ドギツイこれっきりをお見舞いしましょう」
「なんだそれ。まさか略してドッキリとか言わないだろうな」
「まっさかー。略したのが今のですよ」
「省略前を教えろ今すぐに!」
と、がなる憂の口を虎南が右の掌で塞ぐ。
もう片方の手で大声を出すなというジェスチャー。
これが葉火の安眠を守るための行動であれば涙ぐましいと言えるのだが、残念ながら、虎南が睡眠を妨げる側であることは先刻の発言から明々白々である。
――嫌な予感がする。
とりあえず頷いてみると口が解放されたので、憂は声を落として言った。
「ここは僕に任せてくれ。知ってる? はひちゃんの起こし方、遠距離編」
「いえ、わたしは助走をつけて鳩尾に飛び込み愛を伝導する方法しか知りません」
止めて良かった、本当に。
会話が変な方向へ発展する前に実践へ移ろう。
目を輝かせる虎南に「よく見ておきたまえ」と偉ぶった前置きを投げ、手荷物を床に置く。そしてビニール袋から棒状の駄菓子を取り出した。
「まずはこのチーズ味」
戸を半分ほど開け、駄菓子を握る力に強弱をつけてクシャクシャと音を鳴らす。
が、これといった反応は無く葉火は依然眠ったままだ。
「次にめんたいこ味」
しかし駄菓子を持ち替えて同じ動作をすると――葉火はピクリと身体を震わせ、がばっと上体を起こした。
はひちゃんのお目覚めである。
虎南は驚愕のあまり青ざめていた。
「猫や幼児の習性じゃないですか! ていうか袋の音って味で変わるんですか!?」
「僕もこれを発見した時は大いに震えた。意味分かんねえもん」
このように音を捉える能力が高いことを、競技かるたでは『感じが良い』というらしい。葉火には才能があるのだろう。正月のかるた大会ではめちゃくちゃ弱かったけれど。
そんな感じの良いはひちゃんは、大きな欠伸と気持ち良さそうな伸びをして、憂達へ顔を向ける。
「あんたらなにやってんのよ」
やや間延びした声で言い、ねだるように手を伸ばす。
意図を察した憂は葉火へ歩み寄り、棒状の駄菓子を手渡した。
「ありがと。あとアレも欲しいわ。あるでしょ」
「虎南ちゃん、葉火ちゃんがラムネ飲みたいって」
あっという間に駄菓子を食べ終えた葉火に、開封したラムネが手渡される。
それを一気に半分飲み下すと、葉火は満足そうに吐息をついた。
「気が利くわね。二人とも将来あたしのメイドとして雇ってあげる」
「わーい就職きーまった!」
喜びに舞う虎南の頭髪をしげしげと見る葉火だったが、特に言及することはなかった。
「連絡も無しに家まで押しかけてくるなんて、相変わらずあたしを喜ばせるのが上手ね」
「偶然虎南ちゃんと会ってさ。思い付きのまま突撃させてもらった」
言いながら憂は廊下の荷物を部屋へ運び込む。
室内は以前と同じく衣類や漫画本が散らばっている――中でも一目で高級と分かる着物を絨毯にスニーカーが保管されていることには驚かされた。
絶対怒られるだろうな……既に怒られているかもしれない。
とりあえず隅に場所を確保すると、虎南が荷物の上にコートを脱ぎ捨てた。
「ふとあたしに会いたくなる感情は誰よりも理解できるわ。今後も続けていきなさい。そしてついて来なさい」
と、いきなり立ち上がった葉火に誘われ、部屋を出る。
先頭を葉火に、憂、虎南と縦列で廊下を進んで行く。
時間的にお昼ご飯を食べるのだろうか。
「結局のところ葉火ちゃんと遊びたいってのが一番だけど、もう一つ、理由があってさ」
憂は言った。
すると葉火が反転して後ろ歩きをしながら先を促してくる。
当然のように速度は落とさない。
「実は葉火さんのお母さんが、この家に潜んでるんじゃないかとわたしの天才的頭脳が」
虎南が憂を追い越して言う。
「あはっ。なによそれ。面白いこと考えるじゃない」
「でしょ! でっしょー! やったー葉火さんに褒められちゃった! これはもう新学期から高校生でもいいのでは? 夢の後輩ライフです!」
「え、あんた生涯中学生でいるんじゃないの?」
「いませんけども!?」
「紀貫之を斬魄刀の名前だと思ってる奴に受験は厳しいわよ」
「そんなことないもん!」
ぷりぷり怒る虎南の頭を撫でた葉火が「宵越しの明太パスタみたいだわ」との所感を述べた。
「それにわたしは知ってますよ。一芸入試ってものがあるんですよね。であれば、ふふん。わたしは地頭の良さで合格を勝ち取れます」
「あたしは顔の良さで合格貰ったわ」
「葉火さんなら納得です! 受験ってちょろいですね!」
「騙されるなよ虎南ちゃん。はひちゃんは一番取れるタイプの成績上位だから」
冬頃から三耶子と二人でこそこそ勉学に励んだものの、結局葉火には敵わなかった。苦い記憶に憂が人知れず歯噛みしていると、葉火が足を止める。
ここは確か火富さんの部屋だ。
「外出するって聞いたけど」
「だから来たのよ。お母さんの手掛かりを独り占めさせとくわけにいかないでしょ」
にぃ、と不敵に笑んだ葉火が、戸を開いた勢いそのままに入室する。
主は既に外出済みで、中は無人だった。
続き虎南も中へ踏み込んだが、憂は流れに乗るのを躊躇った。
「何してんの、入りなさいよ」
「無断で人様の部屋を物色するのは、ちょっと。それにどうも腑に落ちない。不在を狙って部屋を漁るなんて、葉火ちゃんらしくないというか」
「よく分かってるじゃない」
爽快とばかりに声を弾ませて。
座卓に飛び乗った葉火が、腕を組んで得意げな顔をする。
「おばあちゃんには予め伝えてあるわ。出掛けてる間に部屋を検めさせてもらうって」
「意味ねえじゃん! でもそれでこそ葉火ちゃん!」
「いっぱい褒めなさい」
はひちゃんすごい!
二人分の拍手を浴びてご機嫌に拍車をかけた葉火が、意気揚々と捜索開始を告げる。
許可を得ているなら……と憂も入室。
主の留守中も厳粛な空気が漂っていて、自然と背筋が伸びた。
「後で怒られたりしない? 叱られる時は僕と虎南ちゃんも呼んでくれよ」
「平気よ。好きにしなさいって言われたわ。おばあちゃん、あたしらがお母さん捜してるの良くは思ってないみたいだけど――」
そこで葉火は思わずといった風で口元を緩めた。
「あたしの周りにたくさん人がいるのが嬉しくて、止められなかったみたい。その代わりなんにも教えてくれないけど、ま、意地っ張りなおばあちゃんらしいわ」
「……そっか。ごめん、まずは火富さんに話を通すべきだった」
「おバカね。それはあたしの担当よ。あんたらはあたしのことだけ考えてればいいの」
言いながら座卓から飛び降りて。
強気な笑顔で葉火は言う。
「全部終わったら挨拶に来なさい。おばあちゃん、きっと喜ぶわ」
ありがとう、と憂は返した。
突っ走るのに夢中で視野が狭まっていた――子供の自由は大人に守られていることを、忘れないようにしなければ。
甘えることと軽んじることは別物だ。
己の未熟を見つめ直す憂を、早くしなさいと葉火が急かす。
ついには歯をカチカチ慣らし始めたので、憂は慌てて室内を見回した。
唐木の座卓に座布団と箪笥が二つ。床の間は椿を用いた茶花と掛け軸で彩られている。存外物が少なく、目に付く要素はそれくらいだ。
「畳の下に隠れてるかもしれません。わたしマイナスドライバー持ってますよ。取ってきましょうか」
「やめとくわ。前に自分の部屋の畳を外した時、まるで劇画ってくらい怒られたのよ」
わざとらしい身震いののち押し入れを探り始める葉火。
憂は念のため畳を叩いて音や感触に違いのある物がないかを確認していく。
その後、天井を調べたがる虎南を肩車したりしつつ捜索を続けたが目ぼしい物は見つからず、空振りに終わった。
「順当な結果ね。どこかに移したんでしょうけど、この家無駄に広いから厄介だわ。ま、今は口うるさい親戚連中もいないし、のんびり捜すとしましょ」
「外出って車使うよね? 量にもよるけど、隠してまで見せたくない物なら、車に積み込んでるんじゃない?」
「そうなったらお手上げね」
さして残念そうでもなく葉火は笑う。
これまでの冒険こそがお宝よ、なんて言い出しそうな顔だ。
「屋根裏とか行けないんですか? わたしは冒険したいです」
「あたしの知る限りじゃ行けないわね。でも、離れに蔵があるわ。案内してあげる」
葉火と虎南がぴょこぴょこ跳ねるような足取りで部屋を出て行く。
アトラクションの案内人と参加者みたいだ。
楽しんでるなあ、虎南ちゃん。
そしてはひちゃんも。
友達が家を訪ねて来てくれることが余程嬉しいらしい――言葉以上に喜んでくれているらしい。
嬉しくなった憂もノリノリで参加者として加わり、三人は玄関を経由して外へ出た。改めて敷地の広さを感じながら歩いているうち、件の蔵に到着する。
「久しぶりに来たけど大丈夫かしら。熊が住み付いてても驚かないわ」
「僕は驚くよ。そんなはひちゃんに」
二階建ての土蔵。
漆喰で仕上げられた外壁は汚れを物ともせず白く在る。
古い建物ではあるが危険性は無いとのこと。
久しぶりに来たという美少女の言である。
「まずは僕が中を確認するから、葉火ちゃんは殿を頼む」
「嫌よ。あたしが先陣切るから憂が一番後ろを務めなさい」
「嫌だ。熊が住んでるかもしれないだろ」
「あたしだったら熊くらい倒せるわ」
「だとしても。僕が先頭を外れる理由にはならない」
などと二人が揉めている隙に、虎南が素早く扉へ駆け寄り手を掛ける。
「む、結構重ためでぃあですね」
「虎南ちゃん! 待て!」
「一番乗りはあたしのよ!」
と、苦戦する虎南へ走り寄る憂と葉火。
肩をぶつけて相手の進行を邪魔し合う二人は、その譲り合わない精神に天罰が下ったのか足をもつれさせ。
転びこそしなかったが速度を落とすことができず――仲良く扉に頭をぶつけた。
木製とはいえめちゃくちゃ痛い。
「……お二人ってバカなんですか?」
返す言葉などあるはずもなく。
肩を竦める虎南からの嘲笑を、甘んじて受け入れるしかなかった――
「言われてるぞはひちゃん。おバカだって。何やったんだよ」
「あたしをバカって言っていいのはバカだけよ。あんたらは条件を満たしてるわねおめでとう」
しかし憂と葉火は、まるで心身共にノーダメージとばかりの澄まし顔で蔵へ入るのだった。
リカバリー上手な年長組である。
蔵の内部は正面の窓から射し込む外光のおかげで、照明を使わずとも視界を確保できた。
箪笥や農具、大小様々な箱が重ねられていたりと物は多いが、よほど無茶な動きをしなければ怪我することはないだろう。
熊もいない。
憂が安堵していると、積まれた段ボールの一つを覗く虎南が華やいだ声をあげた。
「葉火さん! 鞠にけん玉に独楽、その他たくさんの玩具が詰め込まれてます!」
「好きなの持ってっていいわよ。どうせもう使わないやつだし」
「~~っ!」
玩具を腕一杯に抱えた虎南が、あまりの感動に声も出せないといった感じで震えている。そんな中学生の純粋さに憂の胸はあたたかくなった。
「では姉倉先輩。リアカーを探してください。はりーあっぷ」
「業突く張りめ」
欲塗れの中学生だった。
純粋は撤回しよう。騙された気分だ。
「葉火さんは文字通りの太っ腹ですね」
「何を急に毒づいてんのよ。あんた至る所を汚しそうだから大人しく遊んでなさい」
「はいっ! ううむ我ながら良い返事ができました。お気遣い感謝です」
宝の山に夢中でイントネーションの違いには気付かなかったらしい。
絶対に日本刀を見つけると意気込む虎南を残し、葉火と共に壁際の階段をのぼる。
上がって正面の壁には大きな二つの窓が設えられていた。
そして階段と反対側の壁からJの字を描くように三段の棚が設置されていて、段ボールや布に包まれた何かがずらりと並んでいる。
「中身は昔使ってた教科書とかノートとか、体操着やらなんやらよ。あたしのだけじゃないけど」
「全部保管してるんだ。お母さんの物もあるのかな」
「何年か前に全部見たけど、それっぽいのは無かったわ」
そりゃそうか。
残念に思いつつ棚を眺めていると、葉火が「子供部屋みたいなものね」とまとめた。
「にしても埃っぽいわ。これは巳舌さんの怠慢よ」
「まあまあ。最近は特に忙しいみたいだし大目に見てあげなよ」
「あたしらのせいで苦労が三割増しみたいよ。毎晩マッサージして恩返ししてるわ」
楽しげに語りながら葉火は窓を開け放ち、心地良さそうに空気を吸う。
それから身を翻して窓枠に腰掛けた。
「危ないからやめなさい」
「もっと早く止めなさいよ。お尻のとこ汚れちゃったじゃないの」
立ち上がった葉火にハンカチを放ると、なんと葉火は口でキャッチ。
汚れは手で払い、汚れた手をハンカチで拭いた。
「おもしれー女。何やってんの」
「汚れをそのまま落とすより、あたしの手を拭く方がハンカチも嬉しいでしょ。一応聞くけど、洗って返した方がいい?」
「いいよ別に」
「そう答えると思ってたわ。洗うと綺麗になっちゃうから困るわよね」
「やっぱり洗って返してくれ!」
虎南ちゃんといい、僕をなんだと思ってやがる。
閑話休題。
「棚の物って見てもいい? チビ葉火ちゃんグッズ」
「埃が舞うから気を付けなさいよ」
外の景色を眺める葉火に返事をして、棚の端へ移動する。
並んでいる箱はもちろん棚自体も少なくない埃が積もっていて、迂闊に引き出せば被害は甚大だ。
慎重さが求められる。幸い箱の外側に赤文字で内容物が記載されているため、知らない誰かの物を引く徒労は避けられそうだった。
ということで。
上段から下段へ視線でなぞりながら右へ右へとずれていく。
なかなかチビ葉火コーナーが来ない。
反対側から見るべきだったか――と、そこで。
下段にある一つの箱に目が留まった。
明らかな不自然。
他と違って内容の記載が無いのもそうだが、この箱とその周辺だけ埃が取り除かれている。
「葉火ちゃん、これ。誰かが触った痕跡がある」
「へえ。面白そうじゃない」
つまりごく最近。
棚から引っ張り出して箱を開けたということだ。
箱を引き抜いて部屋の中央まで移動させると、寄って来た葉火がわくわくした顔で上から覗き込んでくる。
促されて箱を開けると、中には風景の絵が描かれた画用紙が大量に入っていた。
「これ葉火ちゃんの?」
「あたしじゃないわ。何かしらこれ、初めて見た」
葉火は手に取った一枚を凝視して考え込むような顔をする。
そして「あ」と閃きを音にして、言った。
「思い出した。ここ、あたしが通ってた中学校の近くよ。丘の上で描いたんでしょうね」
絵を手渡される。
夕暮れ時の街並み。
感情をぶつけるように、鮮やかなオレンジで塗られた夕陽と空。
その下に広がる街の景色は細部まで丁寧に色付けされている。
大胆かつ繊細な筆致はオレンジ色の一瞬を綺麗に切り取っていて――憂の胸にひとしおの感慨をもたらした。
過ぎた時間は巻き戻らない。
だからせめてこの瞬間を。
そんな想いが、感じられる。
この絵は。
今という一瞬を大切に思いながら、終わって欲しくないと願いながら描かれたのだろうと、そんな気がする。
「……これ描いたのあたしのお母さんね。なんとなく分かるわ。あたし好みだし」
言って葉火は小さく笑う。
その意見に憂も同意した。
「にしてもおばあちゃんってば、回りくどいことするわよね。ツンデレ?」
「火富さんの葛藤をツンデレでまとめるのやめてあげなよ」
思わず笑ってしまいながら憂はツッコんだ。
このタイミングで見つかるということは、火富さんが置いてくれたからに違いない。
母親に会わせたくない一方で葉火の意思も尊重したい――そういった思いを秤にかけて、このような形を取ることにしたのだろう。
かなり葉火側に傾いているのが、微笑ましい。
「気付かなかったら今夜にでも回収されてたでしょうね。ありがと、おばあちゃん。マッサージしてあげないと」
と、上機嫌に箱から絵を取り出していく葉火。
「お手柄ね憂。絵に描かれた場所、片っ端から調べましょ」
「軽く見積もっても百枚以上あるけど――まあ楽勝か」
「そうよ。頼もしい仲間がたくさんいるんだから」
誇らしげにそう言い切って。
葉火は一枚の絵を持ち、憂の首根っこを掴んで窓際まで移動する。
「この絵気に入ったから部屋に飾るわ。あたしもここから見る景色、好きなのよ。結構変わっちゃってるけど、そこが素敵ね」
解放された憂は葉火の隣で、景色と絵を見比べる。
青い空。のどかな緑と建ち並ぶ和風の邸宅。
手前側はあまり変わっていないが、現在の風景には奥に高い建物がいくつも増えていて、絵よりも地平線がでこぼこだ。
そこがいいのよね、と葉火は繰り返して、続ける。
「幼いあたしは、ここから景色を眺めて毎日ワクワクしてたの」
「ワクワク?」
「この中にはあたしと最高に気の合う奴らがいて、いつか出会って一緒になれるんだって」
そこで葉火は憂へ視線を転じ。
「ありがと。応えてくれて。憂達と会えて本当に嬉しいわ」
と、一点の照れもなく、穏やかに微笑した。
不意打ちで。
嬉しいことを言ってくれた。
何度言われても、泣きたくなるほど嬉しい言葉。
僕も心からそう思うよ、葉火ちゃん。
「ありがとう。素直に受け取って大喜びさせてもらう」
「あたし好みの返答ね。褒めてあげる」
あたし好み――それはそうだ。
葉火が好むだろう形で、本心を伝えたのだから。
剣ヶ峰葉火が姉倉憂を理解しているように。
姉倉憂もまた剣ヶ峰葉火を理解している。
喜ばせるくらい、朝飯前だ。
「僕達のおかげもあるだろうけど、葉火ちゃんの周りに人が集まるのは、葉火ちゃんが魅力的だからだよ」
「それはその通りね」
葉火がいたずらっぽく笑って。
憂はわざとらしく呆れた風で笑い返す。
「お母さんと会うの、怖くない?」
「誰に向かって言ってんのよ。楽しみに決まってるじゃない。今すぐにでも会って一晩中語り明かしたいくらいだわ」
「だよね。言うと思った」
そうして欲しいと憂は思う。
葉火の母親がどんな事情を抱えているのかは分からないけれど――親として。
一人の人間として。
剣ヶ峰葉火がどれだけ魅力的な人間なのかを、知って欲しい。
一晩程度じゃ語り尽くせやしないだろうけど。
「思い知らせてやろう、お母さんに。剣ヶ峰葉火は最高だって」
「あはっ。燃えること言ってくれるじゃない」
二人は一層笑みを深めて。
どちらからともなく拳を出し、コツンと、突き合わせた。
「それじゃ早速現場へ――って言いたいとこだけど、あたし十四時からバイトなのよね」
「へえ、珍しい時間から」
「あたし目当ての団体客が予約入れてるの」
「何が行われるんだ……?」
男子禁制とのことだが、一体どこまでが本当なのだろう。
葉火のことだから全て真実に違いない。
「ということは明日、と思わせてバイト終わりに行くってことか」
「分かってるじゃない。大正解よ。人集めて肝試ししましょうか」
「やめときなよ。はひちゃんビビりなんだから」
「それはあんたでしょうが」
和やかなムードから一転、二人が仲良く言い争いを始めたところで、虎南が階段を駆け上がって来た。頭には狐の面、首にはけん玉をぶら下げて、手には羽子板とでんでん太鼓を握っている。
「丁度よく聞こえちゃいました! 肝試し可決です!」
「虎南ちゃんはダメだよ。夜だし」
「えー!? そんなー!」
〇
悲痛な叫び声をあげたのち不満たらたらで暴れ回る虎南だったが、母屋へ戻って葉火が手料理を振舞うと機嫌を直してくれた。
その後葉火と虎南は汚れを落とすため一緒に入浴。
憂は漫画を満喫。
そうしてあっという間に時間が過ぎ、出勤する葉火を店の前で見送って。
譲り受けた玩具の数々を名瀬家まで運ぼうとしたのだが、
「お兄ちゃんとはここでお別れです。今から友達の家に見せびらかしに行くので」
と辞退されてしまった。
ならば友人の家までと食い下がってみたが、これもあえなく拒否。
一人残された憂はこれからの予定を考えて、一度帰宅することを決めた。
どこへ行くにしても、水着を持ち歩くのはまずい。
そもそもこれ、いつ渡すのがベストなんだ。
その辺りも自室に腰を据えて計画するとしよう――憂は紙袋を後生大事に抱きかかえ、早足で家路を辿った。
無事、家の前に到着。
ほっと胸を撫で下ろし、次にどこへ保管しておくかへ思考を切り替えようとした、その時だった。
「やっほー憂くん! 来ちゃった。会いたくて」
と、背後から可愛らしい声が聞こえてくる。
恐る恐る振り返った先には――あざとく愛らしく微笑む夜々の姿があった。
「……いらっしゃい夜々さん。僕も会いたかった」
虎南ちゃんの仕業だな。
憂はこの来訪が偶然でないことを即座に理解した。
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