第13話12 愛しき日々 春 2
「死ぬ?」
あまりにも軽い調子で言われた言葉に、ナギの顔が凍りつく。
「あの日──国が滅んだ夜ね。ゾルーディアが私の前に立ったのよ。そして、私に触れてながら、お前は私と同じだ。だから情けをかけてやろう、と言ったの」
その話の内容は悲壮なものだったが、レーゼの声音は普通で、恐れや憎しみは感じられない。
ただ自分の身に起きた事実を淡々と述べているだけだ。
「だから私は生きてるっていうわけ。醜いおかげで助かった」
「……」
「私にはわかるの。ゾルーディアは情けと言ったけど、それは情けという名の呪いで、あの時きっと、私の中に彼女の悲しみが流れ込んだのだと思う。それがこの痣なのよ」
「わ、わかるのか?」
「ええ。私ね、この痣の意思がわかるの。少しずつ広がって私を取り込もうとしてる。もし私が死んだら、ゾルーディアの一部になってしまうのかもしれない」
「ダメだ!」
ナギは声を上げてレーゼの手首をつかんだ。
「それはダメだ!」
「どうしたの?」
レーゼはびっくりしたように少年を見上げる。いつも熱なく話す少年の初めて聞く大声だ。
ナギの声は、
「レーゼは俺に名前をくれた。言っただろう? ただの番号だった俺は、あの時から人になった」
「……」
「だからレーゼは死んじゃいけない。俺を生かしてくれた人だから」
「だけど……」
「なにをすればいい?」
ナギの目にレーゼが映り込む。レーゼには見えないが、ナギの網膜に少女の姿が焼きついた。
「え?」
「どうすればレーゼは死なずにすむ? 絶対に何か方法があるはずだ」
「……」
レーゼは包帯の奥からナギを見つめた。なぜかナギの目の色が見えた。この忌まわしい痣よりも、ずっと強くて深い藍色。
それは見たこともない海の色だ。
ナギは怒っている。
それも激しく。
レーゼに、ではなく、魔女という理不尽な存在に。
今まで静かで穏やかだった彼の魂が、ざわざわと熱をもって湧き上がっていく。
最初は怒りで。そして滲み出る暖かくて優しい感情で。
レーゼは知る由もないが、それは少年が男に変わる瞬間だった。
ああ、ナギが熱く変化してる……。
この人なら、私をここから救い出してくれるのかもしれない。
だからあの時。ここに来てくれると感じたんだわ。
「わかった!」
唐突にナギは言った。
「え?」
「レーゼ。俺は悲憤の魔女を滅ぼす」
「ええ!?」
魔女のことはナギもよく知らない。シグルから教えられたことは、魔女には決して関わるな、という事のみだった。
魔女とは女の形をしているが、女だとは限らない。そもそも実体があるのかどうかもわからない。
人間よりずっと長い時を生き、強大な魔力を持って、炎や風を操り、禍々しい眷属ギマを生み出して人に
「魔力とはそれをかけた者が生きている間のみ、有効だと聞いたことがある」
「でも魔女は死なないわ」
「俺が殺す」
ナギは断言した。
「俺はもっと修行して、結界をぶち破って外に出る。そして、魔女を探し出して、滅ぼす! そしたら、レーゼは死なない」
「でもその前に、痣が私を
「その前に必ずやり遂げる。そしたらすぐにレーゼのところに帰るから」
レーゼは言葉もなかった。ただ目の前の少年を見つめるだけしかできない。
──ああ。
この人なら、もしかしたら。
本当に私のこと──。
「レーゼは俺を救ってくれた。だから今度は俺がレーゼを救う」
「……ほんとう?」
「ああ、ほんとうだ。誓う」
「約束ではなくて?」
「ああ。誓いとは、約束よりもずっと厳重に、守らないといけないものなんだろう? 誓うのは初めてだけど……俺のこと信じてくれる?」
「……うん。ナギ、信じるよ。だから」
レーゼはか細い右手を差し出した。
「なに?」
「これも本に書いてあった。東の大陸で約束する時のおまじない。小指をこうやって組むんだって」
レーゼはナギの手を取って自分の小指に絡めた。少年とはいえ、ナギの指は硬くて長い。
二人の子どもの指がしっかり握り合わさる。
「誓って。私を助けて」
「誓おう。レーゼを助ける」
まだ少し冷たい春の風が二人を
「ナギ!」
レーゼが少年の胸に身を投げ出したのは、全く自然なことだった。遠い昔、そうやって母が抱きしめてくれた。彼女を唯一愛してくれた存在。
「レ、レーゼ?」
まごついたナギは、それでもレーゼをしっかりと受け止めた。
あなたならきっと私を救ってくれる!
「ナギ……好き、大好き!」
「え、えと……」
ナギはどう答えていいのかわからない。好きという言葉は知っていても、使ったことも言われたこともないのだ。
「お、俺は……」
「私待ってるから」
レーゼはそう言って、素足の
細い、暖かい手がナギの頬を包み込む。白いレーゼの顔の中で一点だけ赤い唇。それが蕾が
「あ……ああ」
ナギにはその舌がひどく雄弁に見えてしまう。彼女の言葉と感情を伝える場所。
おかしい。
妙だ。
俺はどうしてこんなにレーゼの口が気になるんだ。
「ナギ、大好き!」
レーゼはそう繰り返し、戸惑う少年の唇にそっと自分のそれを重ねた。
触れるだけの幼い口づけ。
蝶の
小鳥が実をついばむような。
しかし、少年には初めての触れあいだった。こんな触れ方など、想像したこともない。
「レ、レーゼ?」
初めての言葉、初めての触れ合いが、体を熱くさせる。血液がすごい勢いで体中をめぐり、鼓動がどんどん早くなる。
ナギがまごついていると、レーゼもそのことに気が付いたのか、少年の胸に頬を押しつけた。
「やっぱり、ナギはあったかい」
「さっきのはなに? 唇に……」
「キス。口づけっていうの。大好きって意味なのよ。大好きな人だけにしてもいいの。お母さまが教えてくれた」
「……」
ナギは黙ってレーゼの頭の布を解いた。解かれた布がはらりと足元に落ちてゆく。
「レーゼ」
目の前の少女は、白く濁った瞳と透き通った産毛しかない頭部を持っている。
それでもナギには、その娘が世界中で一番美しく見えた。彼女が
「俺も、レーゼが好きだ」
そう言って、今度が彼のほうから身を屈めた。
「大好きだ。レーゼ」
レーゼの腕がまだ育ちきっていない少年の背中に回される。
二人の幼い口づけは、花に囲まれた早春の井戸端でのことだった。
***
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