12 吾郎の述懐

 みんな泣いている。早苗も、夏実も、夢子も、真島や他の先輩たちも、バカ男子達さえも。真菜穂もハンカチに顔を埋めていた。むっつりと表情を消しているのは、吾郎ぐらいなものだろうか。

 吹奏楽コンクールの支部大会が終わった。結果は、初めての金賞。ただし、代表ではない。自由曲は満点近かったが、課題曲にいくつかチェックがついた、と吾郎は報告した。全国大会こそ逃したが、それで無念という気持ちはない。ただ、感無量だった。どちらかと言えば、やはり嬉し涙だろう。

 自分の県を出ての支部大会となると、さすがに日帰りはきつい。楓谷中学吹奏楽部御一行は、二台のバスをチャーターして、一泊二日の旅程で支部大会に臨んでいた。演奏が終わり、帰校途中バスの中で、早苗達はその朗報を聞いた。

 しばらくどんちゃん騒ぎみたいな状態になり、そのうちに数ヶ月分の疲れが出たのか、次々に部員達は寝息を立てだした。隣の夏美も寝入ったのを見て、そろそろと早苗は前に移動した。何事かを考え込んでいる吾郎が、早苗を振り返った。

「あの、先生。ずっとずっと聞こうと思ってました。その……」

「……十八年前のことか?」

 隣の席の真菜穂も振り返った、神妙な顔で、早苗は頷いた。

 髪の毛をくしゃくしゃとかき回しながら、どこか面倒そうに吾郎が言った。

「確かにな。今年あたりがいい機会だとは思っている。最近になって、ようやくあの親子も歩み寄りを見せてきてるし」

「津見倉先生とこの話……ですか? その、『音楽新時代』の記事読んだんですけど……」

「まあ待て。お前、確かに色々と知っているようだが、どうも肝心なところでずれてるようだ。最初に言っておくが、少なくとも十八年前の時点では、〝呪い〟なんてものは一切存在しなかったんだからな」

「え!?」

 びっくりした顔の早苗を見て、真菜穂がぷっと吹き出した。吾郎もうんざりした顔で、

「ほら見ろ。そこから認識が違ってる」

「え、いや、確かに先生ご自身は呪いを否定したい気分なんでしょうが……」

「否定したいとか、そういう話じゃない、存在しないんだ。いいか、そもそもあの年に、この曲を演奏したせいで、けがをしたり、死んだりした人間なんていなかった! 当たり前のトラブルはあったにせよ、霊だの呪いだのを引っ張りださにゃならんような不可解な出来事は、一件もない!」

「そうなん……ですか? ……いや、でも、あの、先生の大事な人が、その、交通事故で亡くなって、その供養だか慰霊だかのために、先生はこの曲を……取り上げたんじゃ……」

「違う」

「ええっ! そんな!」

 耳をそばだてていた何人かが、周りに集まってきた。寝ていた部員達も、眠そうな目を早苗達に向けている。夏実も早苗の傍らに寄ってきた。

「ええと、じゃあ、交通事故じゃなかったわけで……」

「いいや、交通事故だった。バカみたいにはっきりした交通事故だったよ。話してやる。いいか、作曲家がいた。楽譜はあるのに、外に出そうとしなかった。けれども、それは実に見事な吹奏楽曲だった。思いあまったそこのどら息子が、親父の楽譜を持ち出して、コンクールの自由曲にしようとした」

「ままま、待ってください。いったいどの作曲家の話を……」

「だから津見倉峻だよ」

「はあ?」

「まだ分からんのか。『風追歌』の作曲者は、津見倉峻だ。そう光春みつはるってのは、津見倉つみくらしゅんの名前を並べ替えて、別の漢字にして、章一の奴がでっち上げた変名だ」

 ええー? 何それ、ほんと? 押し殺した声があちこちで上がる。しかし、早苗はすでに虚脱状態だった。

「嘘……津見倉さんに抹殺された悲劇の作曲者って話は……」

「どこのバカだ、そんなデマを流しているやつは」

「それはうちの……いえいえ、あの、それじゃ、いったい津見倉さんは何が気に入らなくて、演奏の差し止めを?」

「そりゃ、自分では不出来だと思っていたんだろう。当時、あの人の目指していた作風と大きく食い違うってのもあるよな。もっとも、いちばん大きかったのは、吹奏楽に対する抵抗感……はっきり言えば、偏見だ。いわゆるクラシックの世界とはノリが違いすぎるし、雰囲気も価値観も独特だし、そんなところで仕事をしたら、自分の理想から遠ざかる、とか思ってたのか」

「はあ……」

「時々そういう作曲家ってのはいるもんだ。そう言いながら、これだけの曲を書いてしまったってのがすごいけどな」

「はい……」

「だから、章一は無理やり表に出そうとした。曲想が楓谷の音の癖によくマッチしていた、と言うのも気に入ったんだろう。親父には、ちょっと内輪で鳴らすだけ、なんて言ってごまかしたらしい。ところが」

「コンクールで使うことがばれて、峻先生が怒鳴り込んできた」

「その通り。なのに、一人、意地になって食い下がった女子部員がいて」

「先生の彼女だったんですか?」

 期待するような声で早苗。けれども、吾郎は苦笑しながら、ただ首を振るばかりだった。

「全く、章一があんなの書くから、急いで何とかせんと誤解が蔓延しそうだな」

「それも狙ったんじゃない? 彼のことだから」

 横から笑いかける真菜穂を、早苗は不思議そうに見た。真菜穂先生も津見倉章一を知っている?

「この人に彼女なんていなかったの。学生時代はずっとそうだったし、教師になってからも……」

「いらんことを言うな」

 いつになく親しげな吾郎と真菜穂に、ますます早苗は混乱する。何なの、この二人?

「で、どこまで話したっけ? そうそう、むちゃくちゃな女子学生がいてだな」

「フルートの一年生ですね。ピッコロも兼任してて、とても上手かったという」

「そう、確かに楽器は上手くて、優秀な部員だった。が……」

「が?」

 わざと一拍置いて、吾郎がため息をついた。

「自宅まで出向いた部員達に、津見倉氏は、とにかく『風追歌』の演奏は許さん、と怒鳴るばかりだった。彼の言い分ももっともだったんだ。権利関係とか、商業契約とか、全部すっとばして楽譜をだまし取ったようなものなんだから。なのに、その女子部員は感情の暴走するままに、自動車で出ていこうとする作曲家を追いかけやがった。あげく、大通りに飛び出して無関係なトラックにドカーン、だ。はっきり言って、自業自得だな」

「せ、先生……亡くなった方にそういう言い方は……」

「だから、死ななかったんだ。死んでなかったんだよ」

「「え!?」」

 今やほとんどの部員が早苗達の会話に息を呑んで聞き入っていた。反応の声も、だんだん大きなものになる。

「確かに半年以上死にかけていた。病院を転々ともした。けれども、死ななかった、しっかり回復して、今でもぴんぴんしてる」

「じゃあ、何で彼女は死んだことに――」

「それこそ、話に尾ひれがつきまくったせいだろう。入院したまま転校したし、転校後は音信不通になったし……楓谷には転入で入ってきた一年生だから、半年もいなかったことになる。顔を覚えてくれた人も僅かだし……あと、なんだか不名誉な噂まで流れてたみたいなんで、本人がその後楓谷とすっぱりつながりを絶ったって事情もあってだな」

「はあ、それは……」

「一方で外野はドラマみたいな悲劇にどうしても持っていきたがるから……死んだという思いこみが、勝手に膨らんだんだ。楓谷の吹部はその後数年間休部寸前で、内部でも情報の伝達がおかしくなってたし、田舎じゃそういうこともある」

「でも、今生きてらっしゃるんなら――」

「津見倉峻がこの話全体を表にしたがらなかったんだ。その部員の事故も、ある程度は彼の責任だしな。こちらもその点に気を遣って、うやむやにした。悪いことにあの親子が壮大な内乱状態に突入して、ますます妙な噂やデマが発生するようになった。それを、俺達は止めようがなかった」

 しばらく誰も喋らなかった。やがて、早苗の横から夏実がおずおずと質問した。

「えっと、十八年前はそうでも、その後の年って、やはりけが人とか、出てたやん? 今年は早苗も……」

「だから、十八年前も、十一年前も、七年前も、この前の椎路だって、俺に言わせれば全部普通のケガだ! 起こるべくして起きた、原因と結果が明白な、百パーセント人為的な事故だ! もっと言えば、あれぐらいのアクシデントは、毎年十分起こり得る!」

 かぶせるように、早苗が反論した。

「いや、待ってくださいっ。でも確か本仙寺に、津見倉さんたちがずっと通ってるお墓があって……それって、ここの〝呪い〟がらみでご不幸になった方のお墓なんじゃ――」

「ああ、猫の墓か?」

「「「猫っ!?」」」

 素っ頓狂な叫びが一斉に上がる。吾郎は物憂げに鼻で息をついて、

「楓谷で暮らしてる時にずっと飼ってた猫だろ? 家族同然に可愛がってたからな。そういえばあの親子が本格的にケンカ別れしたのって、あの猫が死んだ直後からだったか……で、その猫がどうしたって?」

「な、なんでその猫は、お亡くなりに――」

「老衰だろう。二十年近く生きてたらしいからな。大往生で、家族に見守られながら幸せに息を引き取ったって聞いたぞ」

 もはや何も言うべき言葉がなくなって、ただ沈黙する早苗たち。吾郎が、そう言えば、とふと思い出したように、

「こう言っちゃ失礼だが先日の酒科のじいさん、あの人も大往生だったはずだ。結局死因は、前から止められてたアルコールを前日の夜にこっそり飲んで、脳溢血でぽっくりってことだったと思うが。だよな、酒科?」

「えっ!? は、はいっ、そうです。そ、その節は、お騒がせしまして……」

 後部席の方から夢子がしゃちほこばった声を返す。今更だけど、夢子のあの件が〝呪い〟がらみなんかじゃないことは、とっくに分かっていたことのようだ。さすがに罰当たりっぽい話なんで、訂正するにしかねていたのか、単に決まりが悪すぎて言えなかったのか。

「これでわかったろう。他の怪奇話の類も、要は『風追歌』の年だからってみんなして過敏になってただけだ。あるいは、思い込みから来る錯覚か、集団幻覚とかだな」

「いやあの、小さな話だけど、誰もいないところで声を聞いたとか、気配を感じた、とかは……」

 原西が諦めきれない様子で食い下がる。吾郎はゆるーく笑って、小学生の坊やにでも対するように、

「うん、それはな、堂々巡りなんだよ。確かに見た、聞いたってみんな言う。でも、たいていの場合、録音も映像もない。気のせいだ、とか、記憶の塗替えだ、みたいな反論を正面から覆せた例が、一回でもあったか?」

「そ、それはっ、でも」

 ひと理屈こねようとした原西を、吾郎はすかさず手で止めた。

「百歩譲ってそれが幽霊の声だとして、で、その何が〝呪い〟なんだ? 音楽室の怪談なんて、どこの学校にでもあるし、体験者だって山のようにいる。それと、楓谷のこれと、どこが違う? これは所詮、吹部の中でだけでしか盛り上がれない、ローカル伝承の一つに過ぎん。もう一度言う。〝呪い〟なんてない」

 はっきり言い切られて、何人かがさすがにショックを露わにする。原西もすっかり降参の体で、「そこまで言い切られたらなあ……」と腕組みしながら上体をどっかりとシートに預ける。後部席から真島が声を上げた。

「じゃあなぜ先生達は、これまでそんな風潮を放置なさってたんです?」

「俺は折に触れて、つまらん流言や迷信に惑わされないように、とは言ってきたつもりだがな。まあぶっちゃけ、これだけの昔話をする決心がつきかねたというのもあるし……生徒達も行動が慎重になるから、悪いことばかりじゃないと思ったのは事実だ。今年の場合、しかしそれは悪く出たようだ。椎路、済まなかった」

 いきなり目の前で謝られて、早苗はどぎまぎした。つい、適当に受け流してしまう。

「あ、いえ、はい……でも……」

「まだ何かあるか?」

「ええと、結局『音楽新時代』に載ってた先生の大切な人って」

 また吾郎がため息をついた。

「どうしてもそこに行くのか?」

「いえ、秘密にしておきたいんなら……でも、最初の演奏の時にそんなに情熱的に動いてくれた人なんて、いったいどんな人なのかと」

「じゃあ、紹介しよう」

「え、いつですか?」

「今。ここで。目の前にいる」

 目をぱちくりする早苗達の前で、お気楽に真菜穂が手を振っていた。

「はぁ〜い」

「「「「えええええーっ!」」」」

 バス全体が絶叫した。さすがに、運転手が迷惑そうに後ろを振り返る。

「やや、やっぱり真菜穂先生が、布施先生の恋人……」

 早苗が両手で頬を押さえながら言った。吾郎はもうため息にも飽きた、と言う顔で、真菜穂に顎をしゃくる。お前が言え、と言いたいのだろう。真菜穂が早苗に向き合った。

「どうも話が微妙に食い違っていると思ってたの。まあ、私達が気を回しすぎたってことなんだけど……私は布施吾郎の妹です」

 今度の絶叫は寸前で止められた。すかさず、真菜穂が唇に手を当てたからだ。それでも、何人かの部員がかみついた。

「何で!? 姓が違うじゃないですか!?」

「……一つにはそれを言われるから、隠しておきたかったんだけど」

 あーあ、と言う顔で真菜穂はため息をついた。

「それは、私がバツイチだから。離婚後に姓を変えるのが面倒くさくって」

 何人かの部員が沈没した。男子が多かった。どんでん返しの連続に、誰もが呆れかえったような沈黙の中で、突然早苗が絶叫した。

「ちょちょ、ちょっと待ってください! ていうことは、先生の妹って、二人いるんですか?」

「――それは俺も初耳だな。何の話だ、椎路?」

「は、はぐらかさないで! 前に言ったじゃないですか! あの、先生とは腐れ縁って自己紹介してた女の人、私、知ってます!」

「あれか。なんだか時々妙なことを口走っているとは思っていたが……お前、からかわれてるんだろ。何て名前の人なんだ?」

「いえ、ずっと訊きそびれたままなんですけど、その、うちの演奏なんかもいつも耳にしてて、多分学校の近くに住んでる人だと……」

「うちの中学の半径三百メートルに人家はない。知らなかったのか?」

「ええええっ!?」

 一人で驚きの声を上げる早苗。いぶかしげに見やる吾郎。一方で、部員達は心持ち緊張気味に、じっと押し黙って早苗に注目している。

「私、私ずっと会っているんです! 最近会ってないけど、ええと、そうだ、ゲネプロの時! 私がケガした一日目、舞台袖にスカイブルーのワンピースの女の人、いたでしょ、一年生!?」

 バスの中の一年生は、一度顔を見合わせてから、一斉に首を振った。みんな揃って落ち着きをなくしていて、顔色が悪い。

「いたよ! 私に教えてくれたのに。夏実を……」

「……久目を?」

 言いかけて、今さらのように非現実感に捕らわれる。なんであの時、彼女はあんな警告を出せたのか? 一つ首を振って、急いで別のことを思い出す。

「あの、私いつもバックネットの向こうの木陰で練習してて、そこで何回か……あ、美里先輩! 見たでしょう? 楽譜が飛んでいった時! 私の前にいて、しばらく話をしてた……」

 中ほどの席にいた美里涼子に、早苗は詰め寄った。

「証言してください! 二十歳前後ぐらいの、爽やかな感じの女の人!」

「早苗」

 真横から猪阪輝未が割り込んだ。妙に感情のない顔だ。

「私も姉ちゃんも……ここにいる何人かも、ずっと言えなかった。言ったらどうなるか分からなくて。だから、どうか美里先輩のこと、責めないでほしいんだけど」

「……何……言ってるの?」

 全身の動きを止めた早苗の前で、小柄なオーボイストは、やっとのことで言葉を搾り出した。

「早苗ちゃん……はっきり言うね……」

 涼子の声は震えていた。か細い声で、顔まで青ざめている。

「あの時ね……いなかったよ、誰も……ううん、早苗ちゃんが誰かと話をしてるのは見えてたけど……誰もいなかったし……声も……」

 この人は何の話をしているのだろう? すごく単純な話をしているみたいなのに、日本語の意味が分からない。質問を繰り返そうと口を開きかけた早苗に、輝未が追い討ちをかけた。

「早苗が、時々誰かを見たり意識したりしてたのは、みんな知ってた。でも……そういう時、早苗の視線の方向にはいつも誰もいなかった。あんたは……虚空を相手に、頷いたり笑ったりしてた。ずっと」

 思いっきり頭を殴られたような衝撃だった。よろめいた早苗は、そのまんま床にしゃがみこんでしまった。そんなバカな。あたしは会った。あたしは話した。見た。触れた。

 じゃあ関係者の幽霊? いや、この曲を巡っては、結局誰も死んでない。そもそも「風追歌」の年だけ現れて、しかも一人だけにしか見えない幽霊など、存在自体がおかしすぎる。

 なら、あの人は――私を色々と導いてくれたのは、一体……


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