4 風の通り道
「全く音楽になってないな。日々どんどん後退してるんじゃないのか、椎路?」
ひと合わせ終えて、真っ先に顧問から注意を受けた早苗は、黙って首をすくめた。一言も口答えしないことに、一部から、おや?という視線が投げられる。吾郎も調子が狂ったらしい。微かに焦ったような口調で、言わなくてもいいようなセリフを追加した。
「えっと、音楽になってないってのは、その、音に伸びがないと言うか、フレーズも機械的って言うか」
「そこは解ってますんで説明は結構です」
「あ……そう」
やっぱこういうとこ、口下手だよねー、とかなんとか、小声で囁き合う部員たちを聞き流しつつ、早苗は黙って顧問の批判に甘んじていた。屈辱ではあるけれど、自分でも同感だったからだ。
そろそろ六月も半ばだというのに、千歳との会話以来、〝呪い〟の調査はまるで進まなかった。苦手なネットも見たし、準備室の資料も秘かにあさり回ったけれど、新しいことは何も出てこない。いい加減コンクールだって近づいているので気持ちを切り替えようとしても、どうも技術的なところでスランプに入っているらしく、まるでうまくなった気がしない。むしろ、逆だ。
はっきりしていることが一つ。それは、〝呪い〟が本物であれ、フィクションであれ、そういうものを利用してコンクールを乗り切ろうとしている顧問には、やはり不信感を抱かずにいられない、と言うことだ。
同時に、他の部員に対しても何らかの距離を作らずにはおれない、と言うことでもある。夏実達や真菜穂とも一応普通に接しているつもりだけれども、見えないところで最近はわだかまりが出来てしまっている気がする。
見るからに意気消沈している早苗を見て、これは重傷だと思ったのか、吾郎が言った。
「椎路、外で一人で吹いてこい。気持ち切り替えて。緑の中で、気持ちよく、な」
そういう精神論はいいから、もっと具体的な技術アドバイスくれませんか――喉元まで出かかった言葉を、ぐっと呑み込む。さすがにそれは居直りが過ぎると言うものだ。譜面台をつかみ、楽器を抱いて音楽室から出る。
日曜練習なので、靴は全員音楽室の真下の出入り口で履き替えていた。階段を下りると、目が痛くなるような陽光が、開けっ放しの扉から波になって押し寄せてくる。目をすがめながら、くらくらする思いで砂地の上を踏み出す。
今年は空梅雨で、六月の真ん中からすでに真夏日が続いている。いくらか風はあるけれど、直射日光の下で吹く気にはとてもなれない。と言って、校舎の陰だと音楽室に近すぎる。今は吾郎にも部員にも練習の音を聞かれたくない気分だった。
無人のグラウンドの隅を横切って、学校の囲いからも出て、クローバーが広がるフェンス沿いの小道を歩く。バックネットの裏を通り過ぎ、ニレの木が何本か並ぶ場所で、ようやく譜面台を置いた。
楓谷という名前の通り、学校は山がちな地形に建っていて、グラウンドの南側は緩やかな下りの土手になっている。その先は丘陵地帯で、腰ぐらいまでの草が茂る、アップダウンの続く土地が続いていた。何キロか先には牧草地の黄緑が広がっているのが見える。野外で個人練習する時、早苗はいつもこの場所を利用していた。
木陰に入り、土手を駆け上がってくる草風で深呼吸すると、気合いを入れ直して楽器を構える。グラウンドから一段下がった場所なので、校舎の時計台さえここからは見えない。見下ろす方向にも人家はなく、誰の視線にも煩わされずに伸び伸びと音が出せる。まさに〝緑の中で気持ちよく〟という顧問の指示そのまんまな状態に、つい苦笑まで浮かんでしまう。
二オクターブのリップスラー・エキササイズから始めて、ロングトーンをはさみながら、各種
次第に焦りが募り、音にもそれが現れてくる。
だめ。全然だめ。こんなんじゃ、ユーフォの存在感なんて全然――。
思わずマウスピースから口を離してため息をつくと、急に風が吹き付けてきて、楽譜がぺらんと音を立てて宙に舞った。
「わわ!」
片手でつかもうとして、一瞬土手から転げそうになる。真っ先に楽器をかばい、何とか靴を半分土にめり込ませただけでバランスを戻す。慌てて目を走らせると、小さくなった長方形のシートが土手の下へと転げ落ちていくのが見えた。
「やば……」
世界に一つしかない「風追歌」の筆写譜である。コピーでも取ってくれればいいのに、吾郎は何を考えているのか、全員のパート譜を十八年来の手書き譜で練習する方針を続けていた。さすがに紙も古びているので、今年は一枚一枚全てをラミネートの透明シートに封入する措置を執った。おかげで破損の心配もないし、雨にも濡れなくて済んでいるが、紛失したとあっては一大事だ。マジで大目玉を食らうかも知れない。いや、それ以上かも。
ユーフォニアムをできるだけきれいな草の上に安置すると、ダッシュで土手を駆け下る。早苗の背丈より高い草も多いから、獣道を迂回しながらの捜索である。ジャングルみたいな土手の底に行き着くと、一応のわだちが残る細い道が通っていた。けれども、その両側は深い茂みが広がるだけ。うっかり入り込むと、そのままセイタカアワダチソウのトンネルの中で迷ってしまいそうだ。楽譜の落ちた場所なんて、まるで分からない。
(もしかして、この草の山、全部伐採して探す羽目になる……のかな?)
絶望的な目で、しばし顔色を失っていると、
「これ……」
いきなり背後から声が聞こえて、早苗は飛び上がった。頭上から降り注ぐ陽光の中、薄いスカイブルーのワンピース姿の女性が、すぐ目の前で佇んでいた。その手に持った透明シートが、きらっと陽光を反射した。
「あ、ありがとうございます! 困ってたんです! 助かりました! あーよかったー。ゴローに殺されるところだった」
シートを抱きしめ、全身で安堵してから、すぐに早苗は気がついた。え、いつこんな人が近寄ってきたんだろう? 上から見た時だって、誰も……あれ?
恐る恐る目の前の人物に視線を移すと、女性はなおも黙って立ったままで、でもどこか可笑しそうに、早苗の顔をじっと見ている。肩までの黒髪がさらさらと揺れる。すっきりした顔立ちの、おとなしそうな人だ。二十歳ぐらいの年齢っぽいけれど、高校生かも知れないし、二十代後半にも見える、ちょっとアンバランスな雰囲気があった。
(うん、まあ、普通の人間には見えるんだけど――)
「えと、あの、あなたは?」
不躾な質問を緩くスルーしてくれたのか、女性はそれには答えず、早苗の手元のシートをじいって見つめている。素人さんが「それは何の音楽?」とか訊こうとしてるのかな、なんて思った早苗は、しかし直後に投げかけられた質問で顔色を変えた。
「そこのリズム……無理に鳴らしてない?」
女性が指さしているのは、曲の中ほど、シンコペーションの続く数小節。別にメロディーでも聞かせどころでもないのだけれど、とりあえずフォルテの表示通り吹いてるところで、でも確かに鳴りにくい印象のパッセージだった。
「え、なんで、そんなこと……あの、この曲、ご存知……」
ちょっと混乱した早苗に、女性は余計な説明を一切挟まず、なんだか独り言みたいな静かな声で、
「ここは、意識して響かせなくていいところ。テナーサックスもホルンも入ってるから。みんなと一緒に、ただ鳴らせばいいの。……自己主張しちゃ、だめ」
呆然と聞いていた早苗は、最後の一言で、あれ、と気がついたように女性の顔を見返した。
「え、それ……吾郎、いえ、布施先生もおんなじこと」
「そう」
顧問の名前を出しても反応らしい反応がない。OGなんだろうか?
「ええと、布施先生をご存知なんですか?」
言ってから、愚問だったかな、と思う。布施は今年新任だ。ここの卒業生であっても知っているはずがない……のだけど。
少しだけ早苗を観察するような間を置いて、女性は答えた。
「布施吾郎とは、腐れ縁」
ええっ!? と日頃なら遠慮なく絶叫していたかも知れないが、あんまりに平然としている相手を前に、早苗はただ目を見開いて口を手で覆っただけだった。気分的には卒倒寸前だったけれど。
「そ、そ、それは、つまり……」
質問は半分で途切れた。土手の上から「早苗ちゃーん」と、情けないぐらいふわふわした呼び声が聞こえてきたからだ。振り仰ぐと、葉っぱの海の上にちょうど早苗が立っていた木陰が見えていて、そこに心配そうな顔の女子部員が一人、腰をかがめてこちらを見つめている。オーボエの三年生、美里涼子である。吾郎からのクレーム率が高い人なので、早苗と同じように個人練習を命じられたのだろう。
「どうしたのー? 何かあったのー?」
精一杯声を張り上げているのに全然響いてない叫びが、辛うじて聞き取れた。
「楽譜が飛んでいったのー! でも拾ってもらったから、大丈夫ー!」
早苗の地声は十分伝わったらしい。納得したように頷いた涼子が、しかし、ちょっとだけ怪訝な素振りを見せた。ああそうか、と気づいた早苗が、女性を振り返った。
「あの、せっかくですから、よろしかったら練習をご覧に……」
女性は爽やかに微笑むと、やんわりと首を振って、
「いつも、聴いてる」
「え……そうなんですか!? あ、このご近所ってことですよね? すみません。うるさくて」
学校の近所なら、朝夕の練習の様子など、窓を閉めてもお茶の間に届いてしまってるかも知れない。勝手に解釈して目を伏せた早苗を、なぜか女性はなおも可笑しそうに眺めた。
「調子、悪い?」
えっと顔を上げた早苗の眼と、真面目に心配しているような女性の視線とが、まともにぶつかった。二、三回口をパクつかせてから、ごまかし笑いに逃げる。
「えー、そこまで聞こえちゃうんだ。困ったなー。OGさんの前で、お恥ずかしいです」
「……吾郎は何て?」
「相談できるような問題じゃないし、相談できるような顧問でもないです」
ぶっきらぼうに口に出してから、しまった、という顔を作る。女性は、ちょっと呆れたように、淡い苦笑を浮かべている。
「不憫なやつ」
やや遠い目でつぶやいた女性の言葉に、早苗は目を瞠った。え、それってゴローのこと? 不憫って、何が?
女性はもう一度早苗に視線を戻すと、何もかも心得ているような口調で、ゆったりと、
「ユーフォのことは、吾郎はわからない」
「え? ああ、はい。そうでしょうね」
身もフタもないなあと思う。腐れ縁だというのも、本当かも知れない。
「だから、技術を教えてくれると思っちゃダメ」
「それは……期待はしてません」
「でも」
ざざざざ、とにわかに風が吹き渡って、周りの草の群れがいっせいになびいた。正面からの急な吹きつけに、つい顔を背けて手をかざす。
「誠実さは、本物だから。音楽に対しても、人に対しても」
「え?」
大自然のノイズがさざめく中で、女性の声は不思議と耳元ではっきり聞こえる。あれ、妙だなと思うけれども、風はなかなか止まなかった。
「ちゃんと話してごらん。吾郎と」
心外な言葉でちょっとイラッときてしまう。ひとこと言い返そうと声を出しかけると、不意に風が止んだ。途端に、再び上の方からかすれた声が降りてきた。
「ねえ、どうしたの? 上がれるの? ケガしてない?」
心持ちイラついてるようだ。卒業生がいらっしゃるのに困った先輩だなあ、と苦笑して、眼の前の女性に愛想笑いを返そうとした早苗は、けれども呆然と立ちすくんだ。
そこには誰もいなかった。右も左も、セイタカアワダチソウがゆらゆらと揺れているだけ。
(え、いつの間に……てか、どっちに!?)
その時になって、早苗は女性の名前も聞いていなかったことに気がついた。待っていても、どこからも犬ころ一匹出てきそうにない草むらを見渡して、早苗は諦めてため息を突いた。
なおも何事か呼びかけている上からの声には、適当に手を振って答えつつ、もと来た急斜面を登っていく。さすがに汗が背中を伝う。木陰では美里涼子が練習もしないで早苗が戻ってくるのを待っていた。何か言いたそうな先輩が口を開く前に、早苗は快活におどけてみせた。
「いやー、ひどい目に遭ったよ。危うく楽譜をなくすところだった。風を追いかけるっつーたって、音楽ほど美しいもんじゃないねー」
「え、うん……」
学年に上下関係がないというわけではないが、儚げな弱虫っぽいキャラのため、涼子との会話はついざっくばらんな口調になる。他の部員もみなそうらしい。
「にしても、さすがに田舎町って、その辺に卒業生がうろついてるもんなんだね。うちの部のOGが、こんな裏道を散歩していたりとか」
「早苗ちゃん、その……OGさんって……拾ってくれた人……のこと?」
「うん。もうびっくり」
言いながら、一抹の疑問がないでもない。ホントはあの人、何だったんだろう? でもまあ、そのうち再会することもあるだろうし、聞きたいことはその時でいいか、と思う。それにしても妙にふわふわした感じの人だった。ああいうのを不思議ちゃんって言うんだろうか?
気を取り直して草の上の愛器を抱き上げる。日差しに当たっていた側が熱くなっていた。思ったより時間を食っていたらしい。改めて気合いを入れ直して、ソロパートをさらい直す。土手を上り下りして女性と会ったことが気分転換になったのか、いくらか音の抜けが良くなっている。
(あ、いける、かも)
久々にいい感触をつかんだ気分になっていると、背後から声がかかった。
「よく鳴ってるじゃないか。なんでその響きが合奏で出てこない」
顧問先生のお出ましだった。慌てて涼子が、練習してきます、と言うように、向こうへすっ飛んでいく。何か皮肉でも言い返そうとして、早苗は吾郎が無防備なほどほっとした顔をしているのに気づいた。
――ちゃんと話してごらん。吾郎と。
女性のセリフを思い出す。どんな顔をしたらいいか分からなくなって、早苗はただ軽く頭を下げた。
「まあ、スランプは一人で抜け出られたらいちばんいい。底力がつくからな」
もっともらしいことを口にして、道を戻ろうとする吾郎。ここまで出向いて、言うことはそれだけか!と内心でツっこんでおいて、早苗は唇をニヤリと曲げた。
「先生には腐れ縁の女性がいらっしゃるそうですね?」
ぎくっとした顔で、吾郎が振り向いた。
「な、なんだ、それは?」
「いえ。そのような女性がいると、ちらっと伺ったもので」
女性、と言う単語を強調すると、吾郎は目に見えてうろたえたようだった。早苗は噴き出しそうになるのを、やっとのことで自制した。
「いるか! おお大人をからかうんじゃないっ。腐れ縁、なんて言葉、使えるのは身内ぐらいなもんだ!」
「身内? はん、妹さんですか、やっぱり」
「何!? 椎路、お前、妹のことを知ってるのか!?」
うわあ、はったりがどんぴしゃり。知られざる吾郎のプライベートを言い当ててしまって、早苗は一人で感心した。にしても、何でこの人、こんなにうろたえているんだろう?
「えー、そりゃ、知り合いですもん」
「あ!? お前、どこからその話を聞いた!?」
吾郎の声がいくらかなじるような強さを帯びてきた。まずい、これじゃまたムダな言い合いになる、そう判断した早苗は、早めにショウダウンする手に出た。
「え、えーと、私も、そんなに具体的なことは……その、先生を困らせるようなことは、決して」
「話をずらすな! 誰から聞いたと訊いてるんだ!」
「え、ほ、本人からですが……いや、だからその、決して悪気はないんで、はい」
せっかくだから、色々こっちの有利になるように話を引っ張ればいいのに、何でこんなに卑屈なんだろうと、早苗は自分が情けなくなった。でも、今回はそれで助かったようだ。吾郎も早苗がそれほど大したことは知らないと判断したらしい。やおら、がすっと教え子の両肩をつかむと、むっつりと頷いた。早苗も頷いた。意味不明のまま意志の疎通は成功し、二人は無言のまま身を離した。
「喋るなよ」
と吾郎。
「はい」
と早苗。何でそんなに妹のことを隠すのか分からないが、家庭で色々あるのかも知れない。〝呪い〟とは関係なさそうだし、まあ、この程度のプライバシーは守ってやってもいい、と思った。
満足したようにもう一度頷くと、吾郎はそのまま去っていった。
ほう、と息を吐き出して、しばらくぼーっとしてから、唐突に早苗は笑い出した。
何てみっともない顔してたんだろ。あんな顔も見せるんだ、ゴローって。
思い出しながら、そもそも顧問とこういうくだけた会話をしたのが初めてだったことに気がつく。教科担任の先生達となら、たいがい冗談の一つ二つぐらいやりとりしてるのに。
――誠実さは、本物だから。
そうなのかも知れない、とちょっとだけ思う。出会いがもう少しましで、〝呪い〟の件さえなければ、吹奏楽マニア二名、強い同志愛で連帯感を育めたことだろう。でも、第一印象はこれから修正の余地があるとしても――いや、だったらなおのこと、納得できないし、許せない。
どうして〝呪い〟を放置するのか。「風追歌」ほどの名曲を、こんな不名誉な評価に甘んじさせるのか。なぜ解明するとか祓うとかしようとしないのか。今日にも誰かに不幸が降りかかるかも知れないと言うのに。
あんまりに可哀想だ。犠牲になる部員も、「風追歌」も。
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