恋文

 貸し出されていた書物ふみを、図書寮ずしょりょうくら(書庫)の棚に戻すと、棚と棚の間に座り、巻物を広げ、隠れて万葉集まんようしゅうを読んでいた紀貫之きのつらゆきは、顔を上げた。

 紀友則きのとものりが足音もなく忍んで来て、貫之の浅緑の袖の下に隠れた。


「どうしたのですか」

(私)は、いない」

 貫之に聞かれて、袖の下で友則は丸くなる。


 時があって(しばらくして)、倉を覗き込んで、呼ぶ声がする。

「貫之~」

「ここです」

 貫之が答えると同じ時に、友則は袖をはね上げ、起き上がった。


 倉に入って来る凡河内躬恒おおしこうちのみつねを見て、友則は怪しむ。

「どうして(お前)が、剣内侍つるぎのないしの香りをさせているのだ」

「剣内侍の、あ、所にいたから」

「何か言いさして(言いかけて)、めたな。何を言いさして、止めた」


「これは貫之に。紀内侍きのないしから。」

 躬恒はふところから出した結びぶみ(紙を結んだ手紙)を、貫之に差し出した。


まぎらわすな(ごまかすな)」

 友則はおめく。

 躬恒から結び文を、貫之は受け取る。



 凡河内躬恒おおしこうちのみつねは、浅緑あさみどり束帯そくたいをゆるやかに着て、こうぶりけ、紀友則きのとものりよりは丈が長い(背が高い)が、小さい。重たげな目見まみ(目つき)と、両の端が少し下がった口付くちつき(唇の感じ)は、気色けしきしきさま(不機嫌そう)に見えるが、話すと、ほがらな(明るい)声を響かせる。



 貫之は手に息を吹きかけ、あたためて、結び文を解く。

 躬恒は、棚と棚の間に座る貫之の前に座った。

図書寮ずしょりょうは、寒いね。内膳司うちのかしわでのつかさ(帝の食事を作る所)は、かまどがあるから、冬はあたたかいんだよね」

「倉に火桶ひおけを持ち込むことはできないからね」

「倉に隠れて、書物ふみを読んでいるからだ」

 友則は言いながら、貫之が開いた消息しょうそこ(手紙)を覗き見て、鼻にしわを寄せる。

「妹の消息にまで、おうな(ババア)の香りが移ってる…」

 浅緑の袖で鼻覆はなおおいして、消息を覗き込む。



日頃ひごろことす者あり。王侍従おうじじゅうと申して、紀氏のゆかりの君とか、いとどわづらわし。」


【令和語意訳・最近、DMして来る王侍従とか言うヤツがいて~、「紀氏のゆかりの君」とか呼ばれて、マジウザいんですけど。】


一本ひともとゆゑ《ゆえ》に、剣内侍つるぎのないしにも、同じく言寄ことよすらし。あやなし。」


【同じ紀氏だからって、剣内侍にもDM送ってるっぽくて、わけわかんない】



「ひゃはははははは」

 友則は、鼻覆いしていた浅緑の袖を振り、笑みこだる(爆笑する)。

「あなたではないでしょうね。妹のことを明かしたのは」

 貫之に言われて、友則は消息を指差す。

「消息に書いてあるではないか。『ゆかりの一本ひともとゆゑゆえに』と。女房名にょうぼうな(侍女の呼び名)に『紀』と付けば、言寄ことよせているのだ」


 紀友則にも、王侍従――定省さだみ物忌ものいみが明けて会うなり、「紀氏のむすめで、五節の童女わらわを務めたものがいないか」と聞いていた。


ゆかり一本ひともとゆゑ(ゆえ)に

   武蔵野むさしのの草はみながら

      あはれとぞ見る


紫草むらさきぐさの一本を

 可愛らしいと思ってしまったら

武蔵野に生えている草の全てが

 可愛らしく見えてしまうように

血縁ゆかりの人が全て、可愛らしく見えてしまうのです


 紀氏のむすめの全てに言い寄っていることを伝えるために、わざわざ『ゆかりの一本ひともとゆゑゆえに』と書くなど、わざとがましくさかしだったことだ(わざとらしく、かしこいことをひけらかしている)。



内教坊ないきょうぼうのことも、おっしゃってないでしょうね」

「言ってない。まことを教えてしまっては、おもしろくないではないか~。吾がまことを知っていながら黙っていて、真を知らぬ者があやまつ(まちがう)のを見ているのが、楽しいのだ~」

「つくづく、さがなし(性格が悪い)ですね…」

「なので、決して真は言わぬぞ~」

 友則は口の前に浅緑の両袖を重ね合わせる。


「何の話なの」

 躬恒が聞くと、友則は向き直り、重ね合わせた両袖を開く。貫之は浅緑の袖で、小さやかな友則を包むと、躬恒に言った。

王侍従おうじじゅうなる者が、紀氏のむすめのことをたずねても、何も言わないように」


 凡河内躬恒おおしこうちのみつねは、口開けて、何かを言いさして、閉じた。心にもあらず(無意識に)、手がふところを押さえる。下がった口縁くちびるの両の端が、まして(ますます)下がって、そして、口を開いた。


「……その王侍従に、剣内侍つるぎのないし返事かえりごと(返信)を届けちゃったんだけど…」

 友則が嗅いでいたのは、躬恒のふところにあったむらさきの紙の剣内侍の結び文に濃くきしめられたこうの残り香だった。


「剣内侍も、紀氏だったよね」

 躬恒の問いに、友則は浅緑の両袖を振り、笑いののしる(大爆笑する)。


「あのおうな(ババア)、今夜このよるに、王侍従をつぼね(部屋)に引き入れるつもりだ」

「そんなっ、だって、年齢としが、親子、いな祖母おおばと孫ほど、離れているじゃないか」

 慌てる躬恒に、友則は、はなやかに笑む。

「鬼は、なまめかしいしし(若々しい肉)を好むのだ」

こ~わっ」


 

「躬恒。王侍従は、何処いずこに居ますか」

 躬恒に聞く貫之に、友則は言う。

「おもしろいから、放っておけ」


 貫之は気色けしきばみ(不愉快な表情を隠さずに)、友則を見下ろす。

「物のまぎれで、紀内侍に何かあったら、どうします」

「妹想いなことだな」

「父に頼まれているのです」

「あのおのこに、五節ごせち童女わらわ正身そうじみ(正体)を教えてやればいいものを」

いやです」

 たちまちに貫之は言い閉じた(断言した)。



 定省さだみの初恋の正身そうじみ(正体)は、内教坊ないきょうぼうあねらがたわぶれに阿古久曾あこくそ――いとけない(幼い)紀貫之きのつらゆきを、童女わらわ装束しょうぞくさせたものだ。



「躬恒、王侍従は、何処いずこに。」

「――……剣内侍からの返事かえりごとをもらって、大喜びしてたから、もう内侍司ないしのつかさに行っちゃってるだろうね…」

 躬恒の答えに、貫之は妹の文をたたんで、束帯そくたいふところに入れ、万葉集を巻き直すと、立ち上がり、棚に置く。


 紀貫之きのつらゆき凡河内躬恒おおしこうちのみつねは、図書寮ずしょりょうの倉を出て、あゆみ出す。年が明けて二尺にしゃく(約六十センチ)も積もって、消え残る雪に滑らないように、浅沓あさぐつの足元を見つつ。

 紀友則きのとものりも後を付いて行く。滑らないように、かのくつ藁沓わらぐつ草鞋わらじ)を縛り着けている。越国こしのくに(北陸と新潟)に田舎いなかわたらい(地方住み)していた時の習慣ならいか。



 貫之は、躬恒から少し離れて、友則のそば(横)を歩いた。

まことを言ってはおもしろくないから、言わなかったのですか。――あれは、生霊いきすだまだったことを」

 かすかな声で、友則に聞いた。



 生霊いきすだま

 生きている人の身から、あくれた(さまよい出た)すだま



「今さら聞くのか。――あれは生霊いきすだまではないぞ。玉の緒が切れていた」

「玉の緒…」

(お前)は見たことがないか。生霊と会った時に、教えてやる」

「……会いたくないですね……」

 貫之は長息ながいき(溜息)をいた。



 年が明けて行われた帝の元服元服(成人式)のうたげで、藤原章成ふじわらのあきなりは、青海波せいがいはを舞うことはできなかった。

 章成の赤斑瘡あかもがさは消えたが、継兄ままあには死んで、忌み(喪中もちゅう)となったからだ。

 忌みのために、紀貫之も、紀善道きのよしみちも、定省さだみも、章成に会うことも、消息しょうそこ(手紙)のりもできない。

 ただ紀長谷雄きのはせおから、小野宮おののみや――惟喬これたかが、みちで倒れ伏した章成を助けたということを、聞いただけだった。


 章成は、あれを病でおびれて(うなされて)見た夢と思っている。

 くびられた(首を絞められた)定省は、うつつに《現実に》善道の家に来たと思っている。「あれほど、章成を怒らせてしまって、かたじけない(申し訳ない)」とまで言っていて、心良こころし(お人好ひとよし)なことだ。


 定省が、代わりの舞人まいうどとして紀貫之をと、藤原叔子ふじわらのとしこに申し出たが、認められなかった。

 紀善道きのよしみちが言った通り、他の藤原氏の公達きんだち(息子)が選ばれて、青海波を舞った。

 定省の方が上手じょうずと見えるほどのさまだった。



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