吹き寄す風に、氷襲こおりがさね(艶のある白の表地おもてじと、白の裏地うらじかさね)の狩衣の袖を、袖の端と、紅い指貫さしぬきはかま)の裾のくくをなびかせて、紀友則きのとものり高欄こうらん(柵)の上に、かのくつのまま、降り立つ。


「『しばし止めむとどめん(もう少しとどめたい)』なんて言の葉では、とどめることしかできないな」

 遍昭へんじょうの歌を借りておきながら、そんなことを友則は言う。


 在原業平ありわらのなりひら惟喬これたかあざれて(ふざけて)、節会せちえ(宮中行事)に参ることは許されない忌むべき僧のかしらこうぶりを着け、束帯そくたいを着せた遍昭が、五節ごせちの舞を見た時に詠んだ歌だ。

 紀友則きのとものりも、その父の紀有朋きのありともも、貫之の父の紀望行きのもちゆきも、共に見ていた。舞っていた五節の舞姫は


ししもないはく(たましい)では、痛みもないのか」

 友則は、きょ(すそ)を長く引く青海波せいがいはの紋(波模様)のほう(上着)の後ろざま(後ろ姿)を見下ろして、絵に描いた舞人まいうどのように鬼が、とどめられているだけだと分かる。

 言の葉にとどめられただけでも、鬼のししには痛みが喰い込み、息が詰まるものだというのに。


きみ~~~」

 定省を抱えて声を上げる紀善道きのよしみちに、友則は言った。

御簾みすの内にれ」


 善道は、うずくまってあえ定省さだみを御簾の内に引き入れる。

 友則は、かかげられた御簾(上げられたすだれ)に下げられた物忌札ものいみふだを見やる。

「家の全ての門に、物忌札を下げていなかったな。だから、鬼などに入り込まれるのだ」


「鬼って…」

 御簾の内に定省を引き入れた善道は、友則に聞き返す。善道の声は震えて、目は潤み、もう分かっているのに。


「章成は、赤斑瘡あかもがさ(はしか)で、亡くなったのですか」

 貫之が、友則に聞いた。

――貫之がけて(呆然ぼうぜんとして)いたのは、章成が鬼と成ったことではなく、すだまだったことか。


長谷雄はせおが、朝食あさけを食う間に、いなくなったのだ」

 友則はく。

(私)は、行方ゆくえを探しつつ、雅楽司うたのつかさどもに、心地ここちしき者(具合が悪い者)がいないか、物忌ものいみしている家をめぐっていたのだぞ。さらに、鬼の気配けはいまでして――鬼が動き始めてしまったではないか」


 友則は長息ながいきき、吸い込んで、口開くちあく。

「お待ち下さい」

 貫之がとどめた。


 友則は口を開けたまま、とどまり、貫之は御簾の内から簀の子すのこ(外廊下)へと出た。

 鬼は、高欄の上に立つ紀友則きのとものりを振り返る。

 友則はゆうみて(優美な笑顔で)、鬼を見迎みむかう(見返す)。



 この男が、鬼と向かい合って、感じるのはおそれではなく、よろこびだ。



 しかし、こうぶる(かぶった)鳥甲とりかぶとの下の鬼の眼は、紀友則など見ていなかった。

 鬼と紀貫之きのつらゆきは並び立ち、右の足を前に出しつつ、深緋ふかひの両袖を左下へ下ろす。


 響くのは、貫之が肌足はだし簀の子すのこ(外廊下)を踏む音、青鈍あおにび(青みのある薄墨色うすずみいろ)の袖を振る音だけだった。

 ししのないすだまである鬼の、かのくつが踏む音、きらきらしい(きらびやかな)袖が翻る音は、しない。


 側目そばめ(横目)にも鬼を見ていない貫之は、独りで舞っているような心地だろう。


 紀善道きのよしみちは深く息を吸い、吐いてを繰り返し、息を整えて、しょうを取り上げ、がくそうす。

 定省は起き上がることはできず、目だけで、鬼と貫之の背を目守まもる(じっと見つめる)。



 友則は高欄こうらん(柵)に腰掛けた。

「言の葉ではなく、舞で鬼を静められるものか、見物みものだな」

 さがなく(意地悪く)嘲笑わらう。



 貫之は定省さだみと舞った時のように、背のたけ(身長)を合わせていない。袖振りを小さく、足踏みを低くすることもしない。

 なのに、二人の舞は合っていた。


 鳥甲とりかぶとこうぶって(かぶって)いても、貫之の背の丈には足りない。

 青海波せいがいはもん(波模様)に、行き交う千鳥を刺繍ししゅうしたほう表着うわぎ)が大袖おおそでだとしても(袖が大きいとしても)、貫之が振る青鈍あおにび(青みのある薄墨色うすずみいろ)の袖の方が高く舞う。


 それでも、二人の舞は合って見える。

 互いに見てもいないのに。貫之には、袖振る音も、足踏む音も、聞こえていないのに。

 二人とも、善道の楽に合わせているからか。袖振りを、足踏みを、あやまつ(まちがえる)ことなく、舞っているからか。


――鬼は青海波せいがいはもん(波模様)に、千鳥ちどり刺繍ししゅうした左の袖を胸の前に置き、貫之は青鈍あおにびの左の袖を前に置き、左の片膝をく。


 舞い終わり、がく(演奏)が終わり、貫之が側(そば)(横)を見た時には、鬼は消えていた。貫之は口をく。


「手も触れで

 月日つきひ にける白真弓しらまゆみ

   起き伏し 夜は こそ寝られね」


 手も触れずに

 月日つきひが過ぎてしまったまゆみ(白い木)の弓を

 美しいままにしておきたくて ることができないように

 もう手に触れることもできないあなたを想って

 起きても伏しても 夜は寝ようとしても寝られなくなる



「鬼が消えてから、歌を詠んでもな。ここは『波』を詠むべきだろう。『起き(沖)』と『夜(寄る)』を思い付いたのに、どうして弓を詠むのだ」

 弓弦ゆづるという藤原章成ふじわらのあきなり幼名おさななを知らない友則は、言い落とした(悪口を言った)。

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