『湖での出会い(二)』

 飢餓状態の成虎セイコだったが、その眼は差し出された月餅よりも差し出した女の方へ釘づけになった。

 

 女————というより、少女といった方が正確だろう。少女はまだ幼さを残す身体の線が見えるほどにピッタリな赤い衣服を身に纏っていた。普段の成虎であれば眼を細めてその曲線美を眺めていただろうが、今は何か犯し難い雰囲気を感じ視線を上へと上げた。

 

 少女の顔を直視した成虎は思わず息を飲んだ。

 

 少女は特にどうということもない、或いは何処どこにでも居そうなありふれた顔立ちだったが、何故か成虎は眼を離せなくなってしまった。少女はそんな成虎を大きな瞳で見つめ返す。

 

「どうしたの? もういらない?」

「……え? あ、く、食う!」

 

 少女の声に空腹を思い出した成虎は慌てて月餅を頬張る。少女はその様子にクスクスと微笑みながら近くの岩に腰掛けた。

 

 その後、一気に十個の月餅を腹に収めた成虎はフウッと一息ついて口元を拭った。大食漢の成虎には文字通り腹の足しといったところだったが、胃が空っぽだった先ほどまでとは天地の差である。

 

「ごめんね? 手持ちの月餅はそれで最後なの」

「いや、生き返った心地だ。礼を言うぜ」

 

 申し訳なさそうに言う少女に向かって、成虎は姿勢を正して包拳する。

 

「俺はガク成虎という者だ。生憎あいにく、持ち合わせは無いがこの礼は必ず返させてもらいたい。姑娘クーニャン、良ければ姓を教えてくれないだろうか?」

「名前? あたしは朱凰珠シュオウジュよ」

 

 少女————凰珠の返答に成虎は呆気に取られた。普段は軽薄で余り礼節にこだわらない成虎だったが、流石に命を救われたとなると別である。誠意をもって謝礼するために姓を訊いたのだが、まさか初対面の婦女子が怪しげな大男に、姓どころか名まで告げるとは思っても見なかったのである。

 

「今度はどうしたの?」

「あ……、い、いや……」

 

 再び凰珠が不思議そうに尋ねると、成虎はしどろもどろになってしまう。

 

「ふふ、あなたも名前に生き物の一字が入ってるのね。名は体を表すというけれど、『成虎』という名前はあなたにピッタリね。大きな『虎』さん」

 

 凰珠は口元に手をやり婉然と微笑んだ。その様子に成虎は何故か上手く口を開くことが出来ない。普段の自分であれば『お前も鳳凰みてえに綺麗だぜ』だの何だの歯の浮くような台詞せりふが口をついて出そうなものだったが。

 

(何なんだ、この女は……? こいつを前にすると何だか調子が狂っちまう…………)

 

 今まで幾人もの女と肌を重ねてきた成虎だったが、この朱凰珠という少女の前ではまるで童貞こどもの頃に戻ってしまうかのようであった。

 

「……岳兄さん? お腹でも痛くなったの?」

 

 黙り込む成虎に凰珠が心配そうに声を掛けた。

 

「————い、いや! 何でもねえ! それより礼だ! 何か礼をさせてくれ! カネ以外のことなら何でもする!」

「お礼なんかいいよお。大したことはしてないし」

「そうはいかねえ! 何か困ってることはねえか⁉︎ カラまれてる野郎でもいたらぶっ殺してやるぜ⁉︎」

「そんな人いないよお。うーん、困ったなあ……」

 

 凰珠は少し考える仕草を見せた後、何かを閃いたように懐に手をやった。

 

「————コレ! コレをあげられる人を探してるの!」

 

 成虎は凰珠の掌にあるものを見やった。それは何の材質かは分からないが、紅い鳥の髪飾りのようであった。

 

「……こりゃ、鳳凰か……?」

「そう! あたし、この髪飾りを受け取ってくれる男の人を探してるの!」

「……コイツを受け取ってくれる奴を探してる……⁉︎」

「うん!」

 

 凰珠は嬉しそうにうなずいた。成虎には凰珠の言っている意味が全く分からないが、この髪飾りを受け取ることが礼になるのならばと手を伸ばした。しかし、その手は宙を掴んでしまう。

 

「————何だよ! コイツを受け取ってくれる野郎を探してんじゃねえのか?」

「ダメダメ! コレはあたしに勝った人にしかあげられないの!」

「————ハア⁉︎」

 

 大事そうに髪飾りを仕舞い込んだ凰珠に、成虎は訳が分からないという表情を向けた。

 

「……いや、ちょっと整理させてくれ。おめえはその髪飾りを受け取ってくれる男を探してんだよな?」

「そう」

「んで、ソイツはおめえに勝った奴にしかあげられねえと」

「うん」

「…………」

 

 成虎は眉根を寄せて黙り込んだ。この良く分からないやりとりであったり、初対面の男に易々と名を告げたりと、眼の前の少女は一風変わった思考の持ち主らしい。しかし、礼をすると言った手前、約束を引っ込める訳にはいかない。

 

「……分かった、分かった。勝負してやるよ。碁でも琴でも裁縫でも料理でも何でも良いぜ?」

 

 才能豊かな成虎は武術や琴棋書画だけでなく、料理裁縫など女がするような仕事でも一通り見事にこなせてしまう。凰珠の言う勝負とはきっと男が出来ないようなことだと思った。

 

「ううん、そんなことじゃないわ」

「へ? じゃあ、何なんだよ?」

 

 気の抜けたような顔の成虎に向かって、凰珠は掌を突き出した。

 

「————武術コレよ、武術であたしに勝てたら鳳凰の髪飾りをあなたにあげるわ。それが、あたしがあなたにして欲しいお礼かな」

 

 凰珠はニッコリ笑って構えて見せた。

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