第29話 たまゆらの記憶
早く行きたいと言ったら、お母さんにしかられた。ずっと寝たきりだったんだから若い男の子だって動けなくなるの、だそうだ。せっかくはこべを助けたのに自分はヨレヨレなところを見られたらかわいそうじゃないのと。
それを私に言ってしまうことがもう、かわいそうだと思う。
世理くんの回復を待っている間、私はなんだか落ち着かなかった。そわそわしてダメ。そんなわけで教室に戻る計画は延期になっていて、私は保健相談室で事情を知っている
「やーっと会えるのかい、白馬の王子サマに」
週末にお見舞いに行くと知らせたら、先生はそう言ってからかった。助けてくれた人だけど、馬には乗ってないし王子じゃないって言ってるのに。
「昔はただのやんちゃぼうずだったってば」
「ほう。やんちゃボウズとおてんばムスメでお似合いだね。そういうの、われ鍋にとじぶたって言うんだよ」
もう何を言ってもむだなので、私は先生をほうっておいてプリントに取り組んだ。
病院にはお母さんとお父さんと一緒に行った。お見舞いのお菓子とお花を持ってバスから降りると、立派な建物の総合病院だった。
受付で病室の場所を聞き、そちらに向かう。エレベーターの中も白い廊下も、すうっとする空気に包まれていた。消毒液の匂いだろうか。
「あ、
教えられた病室の手前の廊下で、おばさんに声をかけられた。
「五行さん、こんにちは。やっと来られてうれしいです」
お母さんがあいさつしているのだから、この人が世理くんのお母さんなのか。幼稚園の頃には私も毎日のように会っていたはずなのに、よくわからない。
だけどおばさんは私がすぐにわかったみたいだ。あれ、もしかして転落事故の時にもいたのかな……私、とんでもないところを見られているんじゃ。
「ああ、本当にはこべちゃんだあ。大きくなったけど、顔はかわらないよね。世理がひと目で見わけるはずだわ」
「……こんにちは」
なつかしそうに言われて、私はぺこりと頭を下げた。だけどおばさんは申し訳なさそうな顔で両手を合わせた。
「ごめんなさい、もう来てくれる時間だって言ってるのに、あの子中庭に散歩に行っちゃったの」
「あら、そんなに元気になったのね」
「そうよ、もうさっさと退院したいから筋トレするって言って、しょっちゅうあっちこっちブラブラ」
母親同士は昔のつきあいもあるから気安く話している。私とお父さんは困った顔になってぼんやりしてしまった。
「じゃあ、私たちも行ってみるかい、はこべ。それとも待っていた方がいいんでしょうか」
「あ、すみません。そうですねえ、じゃあ行ってみますか?」
すれ違うことはないだろうし、というおばさんの案内で、またエレベーターで一階におりた。
連れられて行った中庭は、日当たりのいい芝生の広場だった。真ん中には大きな桜の木があって、外周にぐるりと歩道が作られている。おかしそうにおばさんは言った。
「この道をね、グルグル歩いてるのよ。えーとね」
初夏の明るくて強い太陽が、向こうから照っている。逆光を透かして、私は反対側を歩く一人の男の子を見つけた。白いTシャツはもう半袖で、グレーのスウェットパンツ。
それが世理くんだとなぜかわかった。
自然にひとり駆け出した私は広場を横切って近づく。向こうも私に気づいたみたいで立ち止まり、驚いた顔をしていた。その顔は、想像した中学生の世理くんそのままだった。
――想像? ううん、違う。知ってる。
私、世理くんを知ってるよ。
「……世理くん」
「はこべ……」
私たちは向き合って立った。
――なんだろう。ものすごく、ものすごくこの感じ知ってる。
七年ぶりのはずなのに、そうじゃないって私の気持ちが叫んでる。
「はこべ――」
ふわ、と笑顔になった世理くんの後ろに、けぶる雨が見えたような気がした。こんなに晴れているのに。
私は世理くんに向かって一歩踏み出した。そして、そっと左手を上げた。
世理くんも私に歩み寄った。そして右手をかざす。
引き合うようにふれた手のひら。
そこから風が吹いた。
風の中に、記憶がうずを巻く。
霧雨にそぼぬれる家の前。
ニヤリと笑うレイくん。
ウッドチップと観葉植物の森。
回し車の音。
白いハムスター。
星の花が散る公園。
水そうの中。
デートみたいな水族館。
照れたようなレイくん。
目を細めるカピバラ。
はしゃぐ撫子。
ペンギンパレード。
バックヤードの探検。
ペンギンが飛ぶ海。
撫子の笑顔。
小さい頃の公園。
大きな犬。
せりくんの名前。
結婚の約束。
中学校の人たち。
告白と――せりくんは生きているということ。
そして、世理くん。
「また会えた、レイくん」
「――マジか、ハコベ」
手を合わせたままの私たちが立っているのは、病院の中庭のままだ。魂揺らの世界じゃない、普通の病院。
なのに私たちの中に、あの世界の記憶はかえってきた。波が打ち寄せるようにして。
「はこべ……」
「ん」
世理くんは、きゅ、と指をからめて手をにぎってきた。なによもう、なんだかうれしくて泣きそうだよ私。世理くんもなのかな。
「やべえ、俺」
世理くんは空いてる方の手で顔をおおい、うつむいた。
「恥ずかしくて死にそう。ぜんぶ忘れちゃうもんだと思ったからいろいろ言ったのに」
「――はあ、そっち!? 再会してうれしいとか、そういうんじゃないの!?」
あきれて叫んだ私に世理くんは無言だった――だけど、にぎった手ははなさずにいてくれたんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます