血と夢

 シルヴィは牙を見せつけるように大きく口を開けると、あざとく両手を振った。ゆっくりと膝立ちし、エストの顔と腕を交互に見つめる。


「……っええと、あんま見ないでね。……なんか、はずいし。レーヴェも、ちょっとお目々チャック」


「目をチャックってグロくない?」


 レーヴェは不満代わりに思った疑問を口にこぼしたが、すぐに手で顔を覆った。指の隙間の僅かな視界から二人の様子を垣間見る。


「ぁー……。んっと、じゃあ……もらうね?」


 シルヴィは前髪を掻き分けた。ニヘラぁと、蠱惑的に微笑んでから生え並ぶ小さな牙で皮膚を掠るように撫でる。


 エストは何も言わなかった。抵抗もなく、ただジッとシルヴィを見下ろした。頬は熱を帯びるように赤らんでいた。


 ――彼女の指がガスマスクを撫でたときのことを思い出した。いや、忘れることはないだろう。そのときの五感も、今も。


 どれだけ無頓着であろうと、これがただの摂食行為でないことはぼんやりと理解できた。シルヴィの表情が、丁寧で力のない仕草がそれを物語る。


「んン……ッ」


 牙が皮膚に食い込んだ。痛みはない。麻酔に近い痺れが咬創に広がる。じんわると滲む熱。血が滴り落ちるのを拒むようにシルヴィは腕の下に回った。溢れ伝う雫さえも飲み込もうと、懸命に口を開き、舌を伸ばす。


「……」


「えっと、え、エスト。ごめん。恥ずかしいからあんま見ないでほしい……。そ、それとも恥ずかしがるところを見たいのぉ? へんたい……」


 人ではない姿に向かう鋭い視線に、シルヴィは目を反らした。口元の血を拭い舐め取りながら、恥じらうように僅かに俯く。


 取って付け足したようなメスガキの語彙は空気の抜けた風船のようだった。


 幸福剤にもなりうる高揚感が傷口から沁みるように脳を白く濁らせる。


「……シルヴィ、痛みはあっていい。俺に考慮する必要はない。あまり幸福感をくれるな」


「……むぐ。へぇ? あわよくば私以外のこと、忘れちゃえばいいのに」


 シルヴィは再び口を付け、血を啜った。音を鳴らさないように静かに、痛むことのないように麻酔混じりの唾液を傷口に広げる。


 口を離して数分もすれば傷は治り痕さえ残らないから、長く、エストが許してくれる限り、満足の行くまで噛みついたまま離さなかった。


 これは――ただの食事なんかじゃない。そう思うように、想えるようにぎゅっと腕を抱き寄せて、血の味の口づけに酩酊するみたいに惚けていた。


「ぷへ。……ご、ごちそうさま?」


 ゆっくりと口を離した。喉の渇きは消える。体の芯に疼くような熱だけが残っていた。様子を伺うように、けれど目が合うのだけは避けたくて。ちらり、ちらりと不意を突くように一瞬だけエストの顔色を伺う。


 ガスマスクの所為で何もわからない。耳の熱さを冷ますように深くため息をついた。


「少しマシになったようだな」


 虹彩を取り戻し光靡く髪を見てエストは呟いた。文句を口にすることもなく淡々と、幾つかの注射器を自身へ打ち込んでいく。空になったシリンジを踏み潰すと、脱力するように壁にもたりかかった。


「…………別に依存のある薬ではない。血精剤だ。……毒をどうにかする方じゃない。血をつくるためのものだ。……少し寝る」


 ストンと、切れたみたいにエストは眠りについた。タイミングを図っていたのか、【緋色の剣】が揺れるような光を明滅させる。


『シルヴィ・ラヴィソン様、レーヴェ・ノーテ様。お願いがございます』


 抑揚のない女性の声。鞘から溢れる鋭い緋色が有無を言わさず意識を向けさせる。


『【緋刃】は昔と比べ随分と弱くなりました。彼は自身に課していた約束を果たせなくなりました。感傷が、感情が隙を生み出します。あのルドヴィコ・アーヴェに殺されても仕方がないと考えています。……ですが、どうか――』


 その先の言葉が続くより早く、二人は静かに頷いた。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 暗転していたはずの意識が薄く白く開けていく。濁った視界。曖昧な五感。


 夢を夢と認識できるにもかかわらず自分の意思で起きることはできない。


 酷く迷惑な話だが【緋色の剣】は「ワタシを使うことによる副作用です」だと言っていた。


 悪夢を見るときは依頼が来る。嗚呼、だがもう仕事中だ。ならどうなるのだろう。良くないことでも起こるのか?


「……バカバカしい。シルヴィとの話で思い出しただけだろう」


 おぼろげな感覚のなかでも体を起こすことはできた。ペンで書き殴ったような乱雑な真っ白の空間のなか呆然と立ち尽くす。やがて足元を滲むように赤黒い血が広がった。


 覚えている。そのとき嗅いだ不快な鉄臭さが鼻腔を麻痺させていく。


「……」


 エストは恐る恐る、顔を動かせないまま眼下を見下ろした。灰色の髪が血を撫で、翡翠の双眸は虚ろに光褪せたまま開ききっている。力なく崩れ倒れた体は動かない。


 ルドヴィコ・アーヴェは死んでいた。目を背けることは許されない。目を背けることはできない。泣く資格がある訳がない。


 エストはジッと見下ろし続けた。……なんら特別な理由もない死だ。【緋刃】と呼ばれようが、その弟子だろうが、便利屋(こんなしごと)を続けている限り生き残れる保証はない。


「……分かっていたなら、何故やめさせなかった。なぜ今もレーヴェを巻き込んだ。シルヴィに異界道具を渡した」


 自問自答。悪夢の中で自分以外に答えをくれる者はいなかった。

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