血に飢えた牙

 足音だけが地下に響き渡る。背を照らす灯火が段々と離れて、曲がり角を進んだためにもう見えなくなった。


「……疲れたよ。少し休みたい。もう私ぃ、歩けないかも♡ 抱っこしてでも移動するっていうなら別だけどぉ……?」


 シルヴィはトントンと小さなステップを踏んで背伸びした。エストの耳元で囁いて、そっと距離を取る。淡く光輝する眼差しは無傷と言い張るにはあまりに無理のある幾つもの裂傷をジッと見据える。


「貯水場まで向かう。しばらく地上には出ない。そこで潜伏する」


 エストは無数の薬品を首に打ち込んだ。数秒、重い影を差して俯くとシルヴィの前に膝を着く。


「そこまでも移動できないなら背負う。抱っこは無理だ」


「ッはぁ!? え、エストらしくもない……! 歩けるに決まってるでしょ? それともぉ、美少女と密着する機会が欲しくなっちゃった? …………脱出できたらおんぶして」


「歩けるなら普通に歩いてくれ」


 エストはシルヴィの要望を一蹴した。歩き進もうとして僅かに足取りがフラつく。シルヴィとレーヴェは咄嗟に駆け寄り、身体を支えた。


「……命の炎を使いすぎた」


「何が背負うよ。言い訳なんかしなくても分かってるから黙ってなさい。……弱気になられると、……ムズムズするっていうか。変な感じィ――」


 シルヴィは嘲るような余裕を無くして真っ赤な頬を誤魔化すように掻いた。肩を貸したときに触れた熱と血の感触が牙を濡らす。恍惚さを押さえ込むみたいに唾を呑み込んだ。


「……両手に花だな」


「師匠、バカ言うなら離しますからね……」


 レーヴェの上擦った声。エストは二人にそれぞれ視線を向け、疲れ切ったため息を零した。


「…………助けた人間を傷つけたくはなかった。嗚呼、感傷はやはり身を蝕む。覚えておくといい。便利屋をするなら……こういうことは記憶に残すべきではない」


「師匠、だからわたしは便利屋をやめたんです。あそこで店番してたのもう忘れました? 今はレーヴェとして協力してるだけ。シルヴィだって、……えっと、なんだっけ」


「…………メスガキ」


 バツの悪いようにぼやいた。言葉が途切れる。


 エストを支えながら黙々と進むべき場所へ歩き続けた。沈黙が長引くほど、気持ちの整理がつかなくなっていく。


 ――これでいいの? 流れるままに街を出たいと願って、私は正しい選択をできている?


 分かるわけもない自問自答。エストと一緒にいたい。助けたい。助けられたい。そんな自分勝手な願いで彼を傷つけているように思えてくる。


「エストは、今も後悔してる? 私を拾っちゃったこと」


 彼は何も答えない。……でもさっき、あんな冗談を言ってくれた。両手に花なんて、似合ってもない言葉が出てくるなんて想いもしなかったから。


 今更になって嬉しさが滲むように胸の中を広がっていく。叫んで、脚をバタつかせたいぐらいに湧き上がらせる。我慢できなくて少しだけ腿をもじつかせた。


 熱くなるほど、冷たい疎外感が際立って……ルドヴィコ・アーヴェのことが、エストを傷つけて、自分勝手に殺そうとしたやつのことが。


 ――――本当に羨ましく思えてくる。ずっと関係があって、殺し合ったくせにエストはずっと、あいつのためにお酒を造ってて。そのくせにまだ求める。


「……エスト、いつか死んじゃうくらいならぁ……私のこと、その前に無茶苦茶にしてね? 童貞のまま逝っちゃったら私が恥ずかしいッ♡」


 ムカついて、思いついた言葉を全部並べて煽り立てる。コツンと肘で小突いたら思いに他エストはよろめいた。すぐに支え直し、安堵に胸を撫で下ろす。


「女の子に頼りっきりで幸せぇ?」


 ――エストが頼ってくれている。信頼してくれている。牙がいつでも首元に届く距離にあった。


 そんな事実が芳醇な血の匂い以上にシルヴィを酔わせる。おぞましくこみ上げる唾液に甘さが入り混じった。


「少し離れろ。……扉を斬る」


 暗闇の奥まで伸びる下水道の途中、分厚い金属扉の前で鋭い緋色が瞬いた。目視できない刹那の斬撃が金属を焼き切って見せる。


 鍵が落ちた。力なく扉が開いていくと奥から轟々とうるさいぐらいに水音が鳴り渡る。


「地上の様子は逃がし屋と連絡を付けて判断する。移動できるようになり次第ここを離れるがそれまではここで待機する」


 幸い警備らしい警備はいなかったが、広く思えた部屋の大半は濾過のために区分けされた水槽だった。巨大な主水ポンプから濁流のように水が流れ落ち続けている。


「師匠、警報装置の類は大丈夫そう。大したセキュリティじゃないみたい。まぁ、沢山あるしね。この設備、無くなって困るのも人間だけだし」


 レーヴェの確認を聞くや否や、半ば崩れ落ちるようにエストは座り込んだ。薬物で一時的に塞いだ傷口が血を滲ませる。


 シルヴィもまた、脱力するように壁に寄せていた身体がずり落ちる。そのまま内股になってエストの隣に腰を下ろした。牙が唾液で濡れる。どうしようもない空腹感を押し殺すように何度も手でお腹を擦った。


 緊張が解けて初めて体を蝕む違和感に気づき、顔を顰める。チリチリと痺れて感触の鈍い指先。虹彩の褪せていく髪。


 ……虚脱感。鼻腔をくすぐる芳しい香り。飢餓。飢餓。半開きになった口を手で拭い隠した。

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