青暗い朝、外れた仮面を付け直し
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――レーヴェを助けてから数日が経った。朝、エストを起こさないように僅かな物音をゴクンと。シルヴィは錠剤を飲み込んだ。最後の一粒。空になった薬の瓶を不安げに握り締める。
薬の量を減らしていたけれど、これでもう『弱い体を補助するための薬』は手元になくなった。今のところ……問題はない。むしろ体力も、腕の力も調子は良い。
「今は大丈夫……」
独り言をぼやいた。身体が自分の思うように動き重い物を持てる違和感。弱い身体を補強する薬だってパパは言っていた。だというのに、薬が減らしていってから、力が戻るような感覚がある。
『今日もお早いですね。エストにも見習ってほしいものです』
【緋色の剣】が大人びた女性のような声を響かせた。シルヴィは僅かに驚きながらも冷静に振り向く。
「……癖みたいなものなの。だって、朝も大変なんだよ? 日によって夜の勢いがそのままあるし。だからね、早く起きて。そういうことに至らないように料理したりして。性欲と食欲って、同時には来ないもん。どっちかが上回ればいい」
剣相手にはメスガキになることなく喋ることができた。あっけからんとただ自分の経験を口にして。思い出すと嫌気が差して溜息を零した。
『嫌だったのですか? 貴女を見ているとどうにも判断がつきかねます。少女なのか、女なのか』
「…………さぁ、私にもわかんない。けど、ため息が出るってことだけはハッキリしてるんじゃない?」
受け答えをしながら濡れたタオルで身体を拭いて、あり合わせの朝食を作っていく。コンロを点火すると照明が切れた。早朝の蒼白く薄暗い灯りだけになった。……いつものことだ。
『しかし貴女がメスガキではなく女の子だったら、エストは胸糞が悪いからと拾うことはなかったでしょう。冷静さも胆力も。あなたが特異なメスガキになろうとしたから持ち合わせているんです』
「でも、背伸びしたみたいで嫌だなって思うときがあるの。大人ぶりたい訳でもないのに煙草を吸うみたいな……。なんて言えばいいんだろう。平気で何でもできる人にはなりたくなかったの。本当は」
『ワタシには理解できないことです』
【緋色の剣】に感情があるかは分からない。ただ透き通るような緋色の刀身が呼応するようにほんのりと赤く部屋を照らした。
「……しなくていいよ。ただの愚痴だもん。あんたは人じゃないからさ。素直に話せて少しスッキリした。……嫌だったから。私はそういうことに慣れてるんだ、嫌じゃないんだって思い込むようにし続けてさ。こんな私でいられるときの方が少ないから」
料理を造って、狭苦しいテーブルに並べた。こんなことをしても、エストは誰かの前で食事をしようとはしないが。
『本題に入りましょうか。ワタシもただ無駄話をしたい訳ではないんです。……シルヴィ・ラヴィソン。あなたは解体屋の怪物共が両断されたとき、笑っていましたね』
――わからない。シルヴィは思い出すようにうーん、と難し気に唸った。淀んだ陽光に煌めき色彩を変える髪をこねり弄りながらレーヴェのことを一瞥する。
「……笑ってたかも。でも、楽しかったわけじゃないよ? ……なんだろう。死にかけて必死に逃げてたのにさ。エストが戦い始めて、逃げること忘れてたなって。自嘲?」
そんなことを言いながら、思い出すと胸が躍るみたいに血が湧き立つ。目に力が籠る。頬が引き攣った。物足りないように牙がムズ痒い。
『嗚呼、やはり貴女には才能があります。もう一振りのワタシを渡してもいいのではないですか?』
「もう一振りのワタシって?」
尋ねたが、答えを遮るようにぽふんと頭に手を置かれた。
エストは目を覚ますと沈黙したまま【緋色の剣】を見下ろす。僅かな溜息を零した。
「……飲み物は合成飲料で良いと言ったはずだ。なぜ珈琲も淹れた」
「ダメだった? 期限が切れそうなのにずっと飲もうとしないんだもん。珈琲って書いてあったから、珍しいのにもったいないって思ったの」
包装開けてみたら、珈琲じゃなくて得体のしれない味覚剤だったけど。と、愚痴るようにシルヴィは言い足した。
『飲まないのではなく飲めないんですよ。エストは味のあるものを最近口にしませんが、珈琲もどきはそもそも嫌いなんです』
「余計なことを言うなと言ったはずだ」
淡々と発せられる言葉。けれど、一緒にいれば感情が滲んでいることぐらい判断できた。シルヴィはわざとらしく噴き出して、視線を向けさせるとジッと上目遣いで見上げ、にへらぁと微笑んだ。
「珈琲苦手ってほんとぉ? 苦いのが苦手なのぉ? あんなに強くて綺麗なのにざっこぉ……ッ。私がフーフーして甘味料足してあげよーかぁ?」
ガスマスクの奥から、確かに突き刺すような視線が全身に向かった。本能なのか、シルヴィはびくりと肩を竦ませて、咄嗟に距離を取る。
「…………早くなったな」
ぼやくように呟いた。以前にも増して気配を感じ取る力が身についていたことを褒めるべきか数瞬、悩んだが。――調子付かれるだけだと判断してエストはそれ以上は何も言わなかった。
「……レーヴェの様子は」
「そ、そうやって図星だからって脅かした挙句に話すり替えるとか最低……ッ。まぁ? 言及も可哀想だし乗ってあげるけど」
レーヴェを助けてから数日が経過しているが、彼女はまだ目を覚まさない。その間の世話はシルヴィが行っていた。
――エストは近づこうとはしない。生きてるって知ったときは慌てて駆け付けた癖に。
「レーヴェは……まだ寝てるよ。抗幸福剤の副作用みたいなもの。でも、もうすぐ起きるはずだから。個人差はあるけどそろそろね。だからちゃんと三人分、食事も用意してる」
薬の副作用も切れる時間で、名前に反応したのだろう。もぞりと。タオルケットが蠢くとレーヴェはゆっくりと体を起こした。
「……っん」
詰まっていた息が零れる。背を伸ばし、重たげに胸を撫でて、正気の戻った光沢のある双眸が焦点を合わせる。ぼさぼさになった髪を気にするように掻いて、困惑するようにエストとシルヴィの顔を覗いた。
「本当に……」
エストは咄嗟に駆け寄ろうとして。条件反射にも近い想いが足を踏み止まらせる。シルヴィはジッと黒い背を睨んで。
「……エストも面倒臭いね」
呆れながら、どうしようもないエストを歩かせるように手を引っ張ってレーヴェの元へ歩み寄った。
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