バー・ステューピッド・ドッグ(Bar Stupid Dog)

コンタ

1杯目:モスコミュール

 十年前、わたしはアホな犬だった。そのときわたしは四十歳。もうとっくに恋愛に長けていてもおかしくはない年齢だ。

 しかし、あやめとのやりとりで、わたしはアホな犬から脱しようとしている。あやめは二十歳で、古い友人マーくんの姪っ子。マーくんは母EVA(「えっ、バアちゃんなの?」の略)と一緒に「Bar Stupid Dog」をやっていて、わたしは七年ぶりにそのバーにふらりとやって来た。EVA(あやめにとっては祖母)があやめに「ミヤマさん店に来てるよ!」と極秘情報をLINEで垂れ込み、仕事帰りのあやめもバーにやってきて再会した。

 あやめと三一歳差のわたしは、年甲斐もいなくあやめの若さと美貌にすっかり心を持っていかれてしまった。恥ずかしいと思うと同時にこの関係は尊いに違いない、と確信した。勘違いであってほしくない。でも終わった関係、すべての過去は勘違いに等しい。

 あやめはわたしにSNSのアカウントを教え、相互フォローになった。「みやまさんの歌う声が好きです、もっと昔の歌を教えて」とメッセージで言われて、わたしは額面通りにせっせと動画のリンクを送った。でもリアクションがなかった。おや? おかしいな、とわたしは思った。

「ほんとにほんとにごめんなさいなんですけどわたし個人でのメッセージでやりとりするのが本当に苦手でたくさんメッセージが送られてくるのを見ると心理的に負担がすごくてどれだけ大好きな人でも恋人でも関係を絶ってしまうくらいなんですみやまさんが大好きなので伝えましたすみません」

 なんだこの難解な文章はっ! ジュディス・バトラー顔負けの難解さだ。でも実はバトラーは文章が下手すぎたのであった(わたしの記憶に間違いがなければ、独語で考えて英語に置き換えて書くと彼女は言った。ハンナ・アーレントと同じ)。この難解さは天才的なのだろうか、それともバトラーはアホの子なのか。そういう意味では、あやめもアホの子だった。

 あやめの文面の意味を解釈すると、絶対的容量(たぶん五ギガ)の少ないあやめはすぐキャパ・オーバーになってバグる。脳内ストレージが満杯でアプデできそうもない。見た目は美しいが超初期型。こんな低スぺではなんとも…ねえ。

「やはりそうでしたか。わたしもストーカーみたいなことをしてあなたを怖がらせてしまいました。本当に申し訳ございません」

わたしは本当に反省してメッセージをぴたっと止めた。それからしばらく経って、あやめがメッセージを寄こした。

「いーーーーーーーん」

(???)なんだなんだどういうこと?!

「でもすきなので来る時は教えてください」

「了解です。わたしも大好きです」

 その後、SNSのやりとりはいっさいなかった。

 一瞬わたしはハッとした。あのときと、十年前とまったく同じことをわたしはやらかしていた。名前は仮にAさんとしよう。

 Aさんは一日中仕事をして、無職のわたしは一日中Aさんのことを考える。そしてAさんにメールする。あやめのときと同じで、またしても返事は来なかった。Aさんもまたキャパ・オーバーになっていただろう。でもAさんは絶対に「メールをやめてほしい」なんてことは言わなかった。言わなければわたしは延々とメールを送る。疲弊したAさんは黙ってわたしから離れた。

 飼い主が何も言わなければ、アホな犬はずっとアホなままだ。アホのままご主人さまの帰りを待っている。ある日ご主人さまは帰ってこなかった。アホな犬はずっとずっと待ち続けた、雨の日でも雪の日でも嵐の日でも。

 でもあやめは違った。いくらアホでも、いやアホだからこそ、わたしというアホ犬にははっきり言っておかなくちゃならないことがある。好きだからこそ言っておかなくちゃ、今度は自分が苦しくなる。あやめは勇気のある子だ、本当にいい子だ。

 わたしは夢想する。いまは真冬だけど、あやめとの付き合いはきっと春まで続く(コロナ禍で情勢はどうなるかわからないが)。正月明けには日本政府は緊急事態宣言を出すだろう。歴史的な疫病と同じく、オミクロンも弱毒化して流行性インフルエンザと同じようになっていたらいいのに、でも先のことはどうなるか本当にわからない。わたしはこれまでインフルエンザにかかったことがなかったし、インフル予防接種をしたこともなかった。当然コロナワクチンも接種していない。

 これまでがそうだったからといって、これまでと同じ未来が続くわけでもない。現在五一歳のわたしは軽度の糖尿病があり、オミクロンに感染したら重篤化し死に至る危険性がある。もしあやめと会い、どちらかがオミクロンに感染したら、どちらかが濃厚接触者になる。不謹慎かもしれないが、コロナ禍が始まって以来「濃厚接触」という言葉にわたしは軽いエロスを感じていた。だが、あやめは濃厚接触者になってほしくない。そりゃあやめと“濃厚”な仲になりたいよ! でも…。

 妄想はさらに続く。春になれば、横浜の夜景を楽しんで、手をそっと握って、あやめの手の甲に口づけし、さよならする。なんてロマンティック! ぶっちゃけわたしはあやめと“濃厚”な仲になりたいけど、からだが不自由だからどうすることもできない。そもそもあやめがわたしと“濃厚”な仲になりたいかどうかもわからないし。

 わたしはしばらく「待て」状態に入っている。アホ犬もちょっとは学習して賢くなった。ご主人さまはあやめだ。あやめが「待て」と言えば、わたしはいくらでも待っていられる。わたしからは絶対に連絡しない。そう決めた。

 先日あやめとさよならしたとき「来月は十三日でいいかな」とわたしは言い、あやめはOKした。約束は有効だ。あと一か月もない。気を紛らわせているうちに新年になり、二週間後にはあやめに逢える。それまでの辛抱だ。


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