失踪事件

 聖女フロレンツィアはホルンハウゼンという東部の小さな農村の生まれだという。

 ゴットハルトの受け売りだが、幼い頃はその辺の普通の子どもと何ら変わらなかったそうだ。

 両親は熱心なオレステス教信徒で、フロレンツィアもその影響を多分に受けながら育った。


 彼女が最初に神の声を聞いたとされるのは、7歳の頃だそうだ。

 何でも豪雨後の地滑りを予言したらしい。

 ほとんどの者は彼女が言う場所で地滑りなど起こるはずはないと信じなかったが、数日経って彼女の予言が正しかったことが証明された。


 そして12歳の時、フロレンツィアはまたしても神の声を聞いた。

 内容については秘中の秘とされており、謎のままだ。

 しかし、これを疑う者はほとんどいない。

 フロレンツィアが12歳の時に、当時教会の生ける伝説として崇敬を集めていた尊師リュシエンヌが長年続いた昏睡から突如として目覚めて彼女の元を訪れ、ただ一言訊ねたという。


「聞いたのだね」


 フロレンツィアもただ一言答えた。


「はい」


 尊師リュシエンヌの供をした司教、教会兵、出迎えをしたホルンハウゼン村の小さな教会の神父。村人たち。そしてフロレンツィアの両親。

 皆が理解した。

 二人が神の啓示について話していると。


 尊師リュシエンヌはフロレンツィアに村娘としての一生を捨ててついて来るか否か選択を迫り、少女はそれに応じた。

 尊師は当時の教皇の元までフロレンツィアを連れて行き、役目を終えたかのように息を引き取ったそうだ。享年112歳であったという。

 その四年後、教会により新たな聖女が列せられた。


 今回のフロレンツィアとの面会の内容、及びその後に起きたことを聞いたお歴々の反応は半信半疑といったところだった。

 フロレンツィアは救済派と呼ばれる派閥に所属している。この派閥は教会内でも特に穏健な勢力として知られ、民衆の支持は厚いが政治力はあまりない。

 というより、教会内の政治闘争にあまり関心を示さないという方が正しいのかもしれない。

 彼らの信仰はとにかく民と共にあること。それに尽きる。


 そんな救済派の旗印たる聖女フロレンツィアが何ゆえに狂信者イェレミアスの傍に侍るのか。

 理由は洗脳以外にないように思われたし、事実わたしもそう考えていた。

 しかし、どうしても違和感が拭えない。

 街でイェレミアスたちに遭遇した際にわたしに食って掛かったロミルダとかいう女騎士やその他の取り巻き。

 彼らがわたしへの敵意をむき出しにしている時、フロレンツィアはあくまでも冷静さを保っていた。

 むろん洗脳の効きにも個人差はあろうが、今日のやり取りと合わせて考えるとどうもフロレンツィアが精神を操作されているようには思えないのだ。


「諸君、状況を整理して考えてみよう。可能性としていくつか考えられると思う。まず聖女フロレンツィアは洗脳されていない。これが一つ目だ。そして二つ目、洗脳されているが本来の自意識も一部残っている。そして三つ目、洗脳は完全に施されている」


 宰相ローレンツが議論の場を整えるために発言すると、商務卿ウルリヒが口を挟んだ。


「失礼。その前に一つよろしいですか?」


「ウルリヒ卿」


 宰相ローレンツが発言を促す。


「細かいことかもしれませんが、騎士イェレミアスの能力について、洗脳と呼んだり魅了と呼んだりまちまちなのですが、呼称を統一致しませんか? わたしはどうもそういうのがはっきりしないと落ち着かないタチでして」


「む、それは確かに」


 スキルの実態があいまいなのでわたしたちによる呼称もいまいち定まっていなかったのだが、ウルリヒ卿はそこに座りの悪さを感じているようだった。

 同じ思いを抱いていたのか幾人かが同意するように頷いている。


「僭越ながら発言してもよろしいですか?」


 声を上げたのはゴットハルトだった。

 彼はごく自然に皇帝陛下の隣席を占めている。


「もちろんだ、ゴットハルト卿。この場において我々はあらゆる発言を歓迎するよ」


 宰相ローレンツはゴットハルトが何者であるかを当然知っているわけだが、どうも周囲の反応を見るに知らない者も何人かいるな。

 農務卿ボニファーツに商務卿ウルリヒ。他にも幾人か。


「わたしの部下によりイェレミアスのスキルがどのような作用を他人に及ぼすのか、様々な観察が行われております。そこから判断し、イェレミアスのスキルは他人の精神をその時々に応じて都合よく改変するのではなく、イェレミアス個人を崇拝させ服従させる性質のものであるとわたしは考えております」


「イェレミアス個人? 教会ではなく?」


「はい。イェレミアス個人への盲信、狂信です。ゆえに洗脳というより魅了と呼ぶ方がふさわしいのではないかと」


「よろしい。では本当のスキル名が判明するまでは『魅了』と呼称することにする。よろしいかな、諸君」


 宰相ローレンツの決定に異議を申し立てる者はいなかった。

 魅了スキルか。

 まるで出来の悪いネット小説みたいじゃないか?

 わたしはルート次第で仲間にもなる敵女剣士といったところか。

 クソくらえだな。


 スキル呼称問題が落ち着いたところで、改めて聖女フロレンツィアの問題が議論された。

 まずフロレンツィアが魅了されていない場合。

 とすると彼女は何らかの目的があってイェレミアスの傍に侍っていることになる。

 単にイェレミアスの思想に賛同して行動を共にしているというのは、あの清廉潔白な聖女に限っては考えにくい。

 また実質聖印派の人間であるイェレミアスに聖女個人の判断で近づくことを救済派は許しはしないだろう。

 つまり、聖女の行動は救済派の指示ということになる。

 目的は聖印派の暴走を監視するためか、あるいは教会の勢力図が塗り替わった後で一定の影響力を確保するための工作か。


 次に魅了されているが自意識も一部残っている場合。

 フロレンツィアの精神は聖女と称されるだけあって並の強靭さではない。

 ゆえに魅了が完全に効かないことも充分にあり得る。

 しかし、問題は魅了が不完全であることがイェレミアスにもすぐに分かってしまうだろうということだ。

 肉体を屈服させることで精神の支配を強める。

 ゴットハルトによればイェレミアスは自身のスキルを肉体的接触を通じて補強できるという。

 聖女がレイプされているのかどうかは分からんが、不完全な魅了状態でなお傍に侍ることを許されているのは、その圧倒的なネームバリューの賜物だろう。

 逆に言えば聖女の名声が不要となれば、イェレミアスは躊躇なく彼女を切り捨てるに違いない。


 最後に完全な魅了下にある場合。

 もしそうだとしたら、フロレンツィアがわたしを助けるような言動をしたのは、何らかの策略の一環ということになる。

 でないと説明がつかないからだ。

 まだ確証は得られていないが、ゴットハルトによれば差し向けられた刺客は十中八九教会に存在する暗殺機関の手の者だそうだ。

 異端審問や教会内の権力闘争などで暗躍する機関だそうだが、彼らは教皇の命でしか動かない。

 つまりフロレンツィアは教皇の目論見を阻んだということになる。

 その意味するところは、教皇とイェレミアスにはそれぞれ違う思惑があるということ。

 レーダー子爵の立ち位置が不明だが、彼もイェレミアス側と考えていいだろう。


 一通り意見が出尽くすと、それまで静観していた皇帝陛下が口を開いた。


「どこに真実があるにせよ、民草からの聖女への支持は絶大なものがある。扱いには充分に注意が必要だ。此度の接触である程度情報が引き出せたことも僥倖ではあったが、このような無茶をあまり繰り返すことのないように。よいかな、エレオノーラ姫」


「御意」


 姫じゃないやい、という言葉を呑み込んだわたしは殊勝な面持ちで頭を下げた。


「うむ。では次へ移ろう。ヘルミーネ殿」


 進行役の宰相ローレンツが促すと、隣に座る完璧な貴婦人たる我が母ヘルミーネはお歴々を前にいささかの気後れもなく父上の名代として発言した。


「我が夫ゲラルトに代わりご報告致します。ここ数年、国内で暮らす魔族の血を引く民の失踪が続いています。主に北部と西部の各諸侯領。そしてここ帝都でも」


 母上の発言に出席者の多くは眉をひそめた。

 ちなみに魔族の国たるストローレ王国と我々は敵対しているわけだが、それではヒューベンタール神聖帝国には一人も魔族がいないのかというと、そんなことはない。

 何と言っても我々は地続きの大地で暮らしており、そこに引かれた目に見えない国境線は歴史上何度も変更されてきたからだ。

 さすがに純血魔族は迫害の激しい帝国内にはほとんどいないだろうが、その血を引く者ならば意外といるのだ。

 ただしその多くは素性を隠して暮らしている。

 救済派が暗黙の了解として魔族を人間と認めているのは、こうした実態を踏まえてのことだろう。


「失礼だが、その情報はどこから得たものだろうか。国内に魔族との混ざり者が暮らしていることを知る者は少ない。失踪者が混血魔族である根拠は? 事実、噂程度でもそうした話は聞いた覚えがないが、適当なことを言っているのではないという証拠があれば提示して頂きたい」


 財務卿ドミニクがやや棘のある声で母上を問いただした。

 本来であればこんな場に出て来られるはずのない母上を見下していることは明らかだ。

 わたしはすぐさま立ち上がってドミニクの横っ面を張り倒したい衝動に駆られたが、鋼の精神力で堪えた。

 陛下の御前で乱闘騒ぎを起こすわけには行かない。

 だが、我が母上に対する貴様の態度は一生忘れないぞ。


 とはいえ財務卿ドミニクの疑問ももっともではある。

 なぜ母上が、というより我が父上がそのようなことを把握しているのだろうか。

 いくら大貴族とはいえ。


「我がフェルンバッハ侯爵家には、さる理由から国内の魔族に連なる者たちとの連絡手段がございます。この度、教会と狂信者にまつわる異変を調査する過程でその者たちから情報がもたらされました」


 母上の言葉に場が騒然とした。

 わたしもむろん驚いている。初めて知る事実だ。


「魔族との連絡手段ですと? よもやゲラルト卿はストローレと通じておられるのか!」


 出席者の一人が激高したように怒声を上げた。

 あれは誰だ?

 他人の発言をよく聞きもせず見苦しい真似を。


「国内の、と申し上げました。彼らは魔族の血を引いてはいますが、あくまでも帝国の臣民にございます」


 母上の冷静な切り返しにやり込められ、その間抜けな男は顔を真っ赤にさせた。


「し、しかし魔族であることに変わりは……」


「よさぬか、エルマー卿。帝政暦778年に静謐帝が認めた時から帝国の方針は変わってはおらぬ。件の魔族の血を引く者たちが帝国の臣民であることは疑いようのない事実なのだ」


 エルマー卿とかいう阿保は皇帝陛下に直接叱責され、顔を青褪めさせた。

 いい気味だ。


「しかしエルマー卿の懸念はもっともかと。フェルンバッハ侯爵家が魔族もどきと通じる理由をお伺いしても?」


 悪意のある言い回しで発言したのはまたもや財務卿ドミニクだった。

 この男、妙に突っかかってくるがフェルンバッハ侯爵家に含むところでもあるのか? 


「理由につきましては今回の件とは関係ありませんので、申し上げる気はございません」


 母上の言葉を聞き、ドミニクのクソ野郎は広げた手のひらを天井へ向けるポーズを取った。


「おやおや。まさかそのような稚拙な言い逃れが通用するとでもお考えか、名代殿?」


 母上がテーブルの陰でわたしの膝に手を置いた。

 瞬間的に激発しそうになった娘の気配を察知したのだろう。

 椅子から尻を浮かしかけたところで動きを止めたわたしに視線を向けることなく、母上は凍てつくほどに透き通った声で逆に問いかけた。


「我が夫ゲラルトを疑うと仰るのかしら?」


「かつて彼を信じて痛い目に遭ったことがあるのでね。それで理由とは?」


 我が母ヘルミーネと財務卿ドミニクの間で放電せんばかりに激しく視線がぶつかり合う。

 一触即発の状況を打ち破ったのは、さすがというべきか皇帝陛下であった。

 

「やめぬか二人とも!」

 

 陛下の一喝に睨み合っていた二人は即座に視線を外して首を垂れた。


「理由なら皇室が把握している。何ら後ろ暗いところはないとわたしが保証しよう。それでも不満か、ドミニク卿?」


「い、いえ。不満など滅相も……」


「ならば見苦しい真似はやめよ。ゲラルトが領地を継いだ時そなたを裏切る意図がなかったことは分かっているはずだ」


 陛下の意味深な発言を受け、財務卿ドミニクは痛みを堪えるように口元を引き結ぶと、母上に向かって丁寧に頭を下げた。


「失礼な態度を謝罪する。ヘルミーネ侯爵夫人」


「謝罪を受け入れます。ドミニク伯爵閣下。わたくしも言葉が過ぎましたわ」


 ……我が父上とドミニク卿と母上には何やらただならぬ過去があるようだ。

 気になる。

 気になるが、今はそんなことを話している場合ではない。


 わたしが目配せすると、気難しい顔で顎髭を撫でていたヴォルフ団長が重々しく口を開いた。


「話を戻しましょう。ハンス殿、失踪事件は現実に起きているという報告は?」


 ライバルであるヴォルフに水を向けられ、ハンスは嫌そうに顔を歪めた。


「……確かにそうした報告は何件か受けている。しかしいずれも未解決のままだ」


「閣下、その失踪事件というのはどれも貧民街で起きているのではないですか?」


 ゴットハルトが確認すると、ハンス騎士団長は肯定した。


「その通りだ。しかし被害者が貧民だから捜査を怠ったわけではない。本当に手詰まりなのだ」


 ハンス騎士団長の様子は嘘を言っているようには見えない。

 そもそもこの世界では科学捜査など発達しておらず、さらには身分制も絡むこともあり犯罪検挙率はあまり高くないのが実情だ。


「これは悪意あっての発言ではないので誤解して頂きたくはないのですが……」


 農務卿ボニファーツが奥歯にものの挟まったような言い方をするので、癇に障ったのか財務卿ドミニクがすかさず噛みついた。


「いいからさっさと要点を言いたまえ」


「ぐぬっ……、こほん。言い方は悪いのですが、混血魔族の貧民を何人か拉致して殺したところで何の意味があるというのです? しょせん奴らは社会への影響力など何も持たない連中なのですよ」


 ボニファーツの言葉に何人かが同調する。

 前世の世界で言うヘイトクライムのように、単に魔族憎しという者たちが暴走しているとも考えられるが……。


「ヘルミーネ侯爵夫人にお尋ねしますが、失踪した者たちは混血魔族のコミュニティの中で重要な地位を占める者たちだったのでしょうか?」


「いいえ。彼らはいずれもただ単に魔族の血を引いているというだけの、ごく普通の生活を営む者たちでした」


「するとますます意図が分からんな。やはり過激な馬鹿が暴走しているだけか?」


「それにしてはやり口が巧妙に思えるが……」


 議論を眺めていて引っ掛かるところがあり、わたしは挙手して発言を求めた。


「何だね、エレオノーラ姫」


「失踪した者の中で死亡が確認された者はいるのですか?」


 全員に質問を投げかけてから、答えを知るであろう母上へ視線を送る。

 少し眉をひそめた母上はわたしの意図を測るように慎重な口ぶりで答えた。


「皆、生死不明よ」


 予想通りの答えにわたしは頷く。

 死体が出ているならもう少し事件が世の中で話題になっているはずだ。


「つまり、そなたは失踪した者たちが生きていると考えているのかね?」


「少なくとも殺すのが目的ではないのでは、と」


 ずっと疑問に思っていたのだ。

 妙に教会勢力に都合のいいストローレ王国の動き。

 だが、ストローレ王国の魔族はそう簡単に交渉に応じる者たちではない。

 そこで出てくるのが魔族の血を引く者たちだ。


「ストローレとの交渉に利用している……?」


「交渉か、脅しか。しかし都合よくイェレミアスには魅了スキルがあります」


「……確かに失踪者の中には女性も多いと聞いているわ」


 母上が実に不快そうな顔で言った。

 無理もない。親友であるリーフェンシュタール伯爵夫人がイェレミアスに魅了されて操られているのだ。


 皆の表情が険しくなっていく。

 混血魔族の失踪事件は思ったより深刻な問題である可能性が高い。

 宰相ローレンツと皇帝陛下が視線を交わし小さく頷いた。


「皇帝の名において命ずる。ハンス騎士団長。帝国騎士団を指揮してこの件を徹底的に捜査せよ」


「はっ」


「ヴォルフ騎士団長。近衛騎士団からも協力するように」


「御意に」


 何かと対抗意識の強い両騎士団だが、そうも言っていられないだろう。

 特に帝国騎士団は国境の戦場に送っていた精鋭たちを隔離せねばならず、人員の面で不安がある。


 母上の報告の件が一通り纏まり、次の議題に移ろうとしている時だった。

 けたたましい音と共に会議室の扉が叩き開けられ、一人の男が駆け込んできた。


「御前であるぞ! 誰の許しを得て入ってきた!」


 財務卿ドミニクの厳しい叱責が飛ぶが、身なりからして文官と思しき男は汗びっしょりの顔を拭うことなく大音声で報告した。


「ヴァイゼ王国が魔族に攻め落とされました!」


 想像の埒外にある報告に、その場にいる全員の思考が一瞬止まった。

 が、一番最初に動き出したのは皇帝陛下だった。

 彼は立ち上がり、報告者に負けぬ声量で一つの指示を発した。


「ガブリエル司教を連れてまいれ!」


 その言葉を聞き、数名はすぐさま事態を理解した。

 ガブリエル司教は貴族街にあるゲッベルス大聖堂から皇宮に派遣されている男だ。

 

 オレステス教はこの大陸で広く信仰されており、それはヒューベンタール神聖帝国の隣国であるヴァイゼ王国も例外ではない。

 教会は大陸全土に幅広くネットワークを構築し、常に情報をやり取りしているのだ。

 隣国のこととはいえヴァイゼ侵攻という重大事件を把握していないはずがない。


 つまりは教会が意図的に魔族によるヴァイゼ侵攻の情報を止めていた可能性がある、ということだ。

 しばらく前から連絡が取れないというヴァイゼに駐留する外交官も監禁されたか殺されたか。


 いずれにせよはっきりしているのは、我々が小麦の供給を断たれたということだ。

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