第14話 37歳の先輩

 元より酒には弱かったが、加齢とともにもっと弱くなった。今朝のように寝覚めが悪い。深く眠れなかった。……というのは、欺瞞なわけで。


 あの後「……どうして私じゃダメなんですか?」と尋ねられた。


「俺と犬井さんじゃ10コも離れてるし……」

「10歳差なんて、大したことないですよ! いくらでもいます、そんな人。……やっぱり若葉さんとお付き合いしてるんですか?」

「いやそれはないです! ただのお世話になってる先輩で」

「ほかに気になってる人がいるんですか?」


 その問いに、心に星浦が浮かぶ。しかしそれは恋はではない。うまく言えないけれど。


「……それもないですけど」

「だったら、どうして!」

「俺は身長167で170もないし」

「でも160後半はあるじゃないですか! そもそも身長なんか気にしてません!」

「年収は35の癖に320万程度しかないし、奨学金が返済し終わったところで貯金もないし」

「二人で合わせれば世帯年収600万ですよ! それに私は実家通いのひとりっ子で箱入り娘なので援助してもらえます!」

「髪の生え際はこんなにブツブツだし」

「私の行きつけの皮膚科に行きましょう! これから治して行きましょう!」

 箱入り娘だの行きつけの皮膚科だの、堂々とおかしなことまで言い出す犬井さんに、埒があかない。

「……ごめんなさい、犬井さんのこと、そういう目で見られません」


 結局それが別れのあいさつ代わりとなった。


 ――男の人は見かけやお金とかより、優しさと誠実さだって、本気で思います!


 犬井さんの言葉。それは一面では合っていて、一面では間違っていると思う。

「ルックスが良くても誠実じゃない男」「金を持っていても誠実じゃない男」――そんな男はダメだと巷でよく言われる。それは一部の非常識な男が目立っているに過ぎない。普通の男は俺より収入も高くて背も高くて、きちんと誠実だ。

 例えば大塚さん。もちろん犬井さんを強引に誘っていた点は擁護できない。俺のことを明らかに鼻で笑っていたのもある。けれど、全く誠実さがないわけでもない。犬井さんに謝罪する姿は真摯だった。本気で後悔があったんだろう。

 俺に助けられたというのが真実だとしても、俺がその場に居合わせた、ただそれだけ。俺が誠実だというならば、俺並みに誠実さがあって背が170以上あって年収が400万以上ある若い男はいっぱいいる。


 俺はいつだって誰かの下位互換。それが現実で真実。


 そんな男が未来ある女性の人生を無駄遣いさせちゃダメだ。

 なによりも自分の人生だって無駄遣いできない。30歳ならまだ人生に遊びがある、けれど35歳にはもう余白がないんだ。



 始業より1時間も早く、会社の前まで来た。行ける時に行かないと、憂鬱さにかまけて有休を取ってしまいそうになる。体調不良だと思えば体調も悪くなれる、今なら。しかし、休めば犬井さんは自分を責めるだろう。最低でもそれは避けたかった。


「おはよーございます」


 誰もいない中で、ルーチンのあいさつ。


「おはようございます!」


 耳を疑う、爽やかな声。見れば、犬井さんがプリンターをクロスで拭いていた。足元には掃除機が置いてある。


「ど、どうしたんですか」


 尋ねると、犬井さんはにこりと笑って。


「はい、雨見さんを見習って掃除してみようかと!」

「……じゃあ早出の申請してください。立派な業務ですから」


 返す言葉がこれではないと思いつつも、俺はデスクに鞄を置いた。

 今日は薄いピンクのブラウスに紺のロングスカート。彼女の姿を見ると、胸がざわつく。

 手伝うべきだろうか、近付くべきなのだろうか。

 四の五の言わず後輩に助力すべきだ。別に彼女を嫌っているわけでも憎んでいるわけでもないのだから。


「……手伝いますよ」

「ありがとうございます!」


 犬井さんは、それと、とひとつ置いて。

「……昨日はありがとうございました。色々と申し訳ありませんでした」


 少し顔を赤らめて、しかし軽やかに爽やかに、彼女は言った。

 大人だと思った。俺なんかよりもずっと。


「いえ、全然――」


 不意に一歩近づいてきた。上目遣いの瞳が俺を捉える。


「……私の気持ちは変わりませんから」


 微笑みかける彼女に、思わず息を呑んだ。


「和明くん発注書~……どうかしたの? 2人とも」


 ドアの開く音とともに、若葉先輩が現れた。俺と犬井さんを見て立ち止まる。

「お、おはようございます」

「おはようございます」


 そそくさと彼女の元を離れ、俺は渡された発注書に目を落とした。



「――何かあったのか?」


 宇野さんの一言。昼休み、犬井さんがコンビニに向かった直後に尋ねられた。

「い、いえ、べ、別に! 何でもニャいです!」

「猫化してるじゃねえか」

「ちゃんと仕事します!」

「怒ってないから別に」


 宇野さんは呆れた顔で頬杖を突いた。

 実は告白されちゃいまして~などと言えるわけがない。いかん、集中。ここは仕事場。色ごとに現を抜かすな。


「雨見くん」


 真面目な声にかしこまる。背筋を伸ばして顔を向けると、宇野さんは俺を見据えた。


「仕事も大切だが、人生を疎かにするなよ」

「……は、はい」


 思いがけない言葉に、声が上擦る。

 と、ドアが開く音がして身構えた。


「和明くん、午後一緒に納品行かない? 例の取説の件、話に行っちゃおうと思って」


 若葉先輩だった。どうにも今日は歯車が噛み合わない。


   ◆ ◆ ◆


 いつも通りヤフルト1000をヤフルトレディから仕入れた後、俺と若葉先輩はシャッター設備の取説を発注している会社へと向かった。


「にしむーが『10歳差くらいは平気です』って言ったら空気が明らかにピリついて。そういうあたしもうれしくなっちゃったんだけどね。にしむーって天然ジゴロみたいなところあって」


 車内ではいつものにしむートーク、というより独演会。西邑さんが結婚するなら年上の方がいいという旨の発言をし、ファンをやきもきさせた。先輩は過激派のファンに変な誤解を与えないか心配、らしい。


「来月、いやもう今月か。進捗はどうですか?」

「うん、準備してるよー。既製品のじゃ満足できなくて、今色々いじってるとこ。細かいところもこだわりたいし」


 そんな会話をしながら10分ほど車に揺られ、取引先に到着。会議室に通されると、すぐに40代とと思われる男性2人が現れた。若葉先輩は顔見知りなので俺だけ先方と名刺交換。そして若葉先輩が議題を切り出す。取説の誤脱字誤表記が多すぎる件について。和やかな空気で先方も「申し訳ございません」と謝るものの、話の流れで察する。根本的に直そうとする気がなく「こちらも発注前のチェックを強化する」で終わらせたいようだ。もちろん嘘にはしないだろうが、それでは対処療法で根本的な改善にならない。

 そもそも取説は種類別に原本データがあり、それに文章を追加したり削除したりして作られていると聞いた。その原本に間違いが多いのではないか。なので原本データごと修正すれば済む話なのだが「どこにどういう誤りがあるかも種類によって違うでしょうし」と面倒くさがる。こちらで直すと提案しても「原本を他社様に渡すのは規定上ちょっと」と言い淀む。

 とはいえ、事前に若葉先輩と共有していた想定の範囲内の反応だ。


「誤りの内容が全部わかればいいわけですね。種類ごとに具体例をリスト化しているとか」

「まぁ、それくらい詳細であれば……」

「ではこちらをご査収ください」


 俺が鞄からクリアファイルを出す。A3用紙にびっしりと、今までの誤脱字誤表記をまとめておいた。出力を終える度、逐一メモしておいたのだ。

 先方が目を丸くする。そこに若葉先輩の必殺技で追い打ち。


「1回直せばそれで終わりますから。こちらも協力しますので、頑張りましょー」


 右腕を上に伸ばす。高めの甘い声で、ふんわかした笑顔で。あざといが、効果は抜群。


「……わかりました。では次の取説の発注から見直してみます」



「――さすがですね、先輩」


 会議を終え、社用車の助手席でシートベルトを掛けながら告げる。


「いやいや、和明くんのおかげだよ~あんな詳細なリスト用意してくれて」

「いつも作業終わりにメモってただけですよ」

「だからすごいんじゃん! コツコツ地道って一番難しいんだから」

「なにはともあれ、よかったです。これで、こっちのチェック作業もラクになりそうだし」

「うん……じゃ、次は和明くんのお話を聞く番かな」


「えっ」と漏らす間に、若葉先輩はアクセルを踏んでいた。

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