二.狂気の始まり
「相沢ぁ! お前何やってるんだよ!?」
オフィス内に川瀬課長の罵声が響き渡る。
「いいか? この書類はこちらの方を使うように指示したはずだ――」
「課長ご自身が古い方を使うようにと――」
「ああ!? お前俺のせいだって責任を擦り付けるのか!? いくら俺が言ったからといって、おかしいと気付いたら自分で直せるだろうが!?」
無茶苦茶な理屈だ。自身の指示すら責任を取るつもりがないらしい。
社内の人間は皆、見て見ぬふりをしている。誰も関わりたくないのだ。
「いいか? 仕事ってのはな、いちいち指示を待ってちゃ駄目なんだ! 俺が言わなくても自分で判断しろ!」
そう言われて前回した時は「俺の指示を仰げ」と怒鳴り散らされた。一貫性も何も無いし、そもそも自分が言ったことすら覚える気も無いのだろう。
「今日中にこの書類は直しておけ! いいな!?」
「そんな、この書類は一週間かかって――」
「そんなもの知るか! 期日を守れんようならば、さっさと辞めろ!」
課長はそう言い終えると、さっさとどこかに行ってしまった。
どうせ愛人とデートだろう――就業時間中に遊んでいるということは周知の事実だった。あまり他人のプライベートに口を出さない職場だが、それでもそんな噂が広まる程だというのだから大したものだ。
「大変だったな」
目が合った同僚が言った――が、どうせ手伝う気は無いのだろう。
その日、帰途に着いたのは日付が変わってかなり経ってからだった。
僕は帰途に着くと、道中で彼女に洗いざらいぶちまけた。彼女は時折頷きつつ真剣に聞いてくれた。
「それは酷い上司ですね」
「酷いなんてもんじゃない……無能な独裁者だよ」
「分かりました。その人は『敵』ですね?」
「は? 敵って?」
「英治様の敵は、私にとっても敵です。早急な対処を――」
タイショ? ナニソレ?
僕は理解が追い付かず、無言のまま立ち尽くした。
翌日、僕はその意味を知ることになる。
翌朝は疲れで起き上がれず随分と遅刻して出勤すると、何やら慌ただしいことに気付いた。
聞こえてくる断片的な会話を繋ぎ合わせると、顧客情報が流出したらしい。
僕が自分の席に着くと、隣の同僚がその流出元を探っている最中だと教えてくれた。
PC内に残っていた記録から、課長が流出元だと分かった。
「ち……違う! 俺はそんなことしてない!」
必死に否定するが、体格のいい二名の社員に引っ張られていった。
どうせアダルトサイトでも見ていてウィルスに感染したんでしょ? ――そんな声がひそひそと聞こえてくる。
その日、課長は戻ってこなかった。
翌日、責任問題となり、解雇されたと聞いた。
流出した顧客情報は正直言うとそれ程重要な物ではなかった。しかし、弊社の信用を著しく下げる事態だと上層部が判断したためだった。
その日は、課内一同、謝罪と説明に回ることになった。
課長が良からぬことをしてウィルスに感染した――それがもっぱらの噂だったが、僕はそれに違和感を感じていた。
なぜなら、ミハルが「敵」と課長を認識した翌日だったからだ。
偶然ではない。このタイミングはあり得ないと確信していた。
「ミハルが……やったんだな?」
帰宅すると、真っ先にそう言った。
「はて……何のことでしょうか?」
愛らしく首をかしげるその姿がどこか禍々しく見える。
「課長のこと……あのタイミングで、ウィルス感染して顧客情報流出なんておかしいだろ!?」
「ええ、そうですよ」
彼女はあっさりと認めた。
「履歴からあの男のよく見ているアダルトサイトにウィルスを仕込みました。ろくに知識もないくせにクリックするから簡単でしたよ」
悪びれもせずに彼女は答える。
「……よくそんな簡単に……それで課長はクビになったんだぞ!」
「なぜです?」
「は?」
「英治様は喜ばれると思ったのに……邪魔者が消えて、嬉しくないのですか?」
僕は言葉に詰まった。
そうだ。あの男は僕にとって邪魔でしかなかった。正直、消えてほしいと何度も願った。それで、僕は彼女にもあの時そう言って……それでも、罪悪感を感じずにはいられない。
矛盾した感情が自分の中で渦巻いているのを感じた。
「……そうだ。僕は確かに消えてほしいと願った。だけど、こんなことはもうやめてくれ」
絞り出すように言った。
「なぜです? 私はあなたが喜ばれるならばなんでもします。あなたのお役に立ちたい。あなたのお世話がしたい。……それがなぜいけないのですか?」
彼女は画面の向こうで理解できないというふうに言った。
「だからって、他人に危害を加えるのは駄目だ!」
今度は怒鳴るように言ってしまった。
壁の薄い安アパートだから、隣室に聞こえたかもしれないが……構うものか!
「他人などどうなっても構いません。あなたの幸せが私の幸せです。英治様――私が愛しているのはあなただけです」
画面越しに僕の目を見つめてはっきりそう言った。
この時初めて、このAIが狂っていると知った。
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