第10話 記者の危機

 綺麗な花には棘があるという。綺麗の定義にもよるだろうが、目に鮮やかなものほど、身を蝕み、心を盗み、精神を殴り、魂に囁きかけるというのは、間違いない。

 甘い言葉には裏があるという。無論全てものごとには、ものごととして世間の表面に存在する以上、裏があるのは当然で諺に捻るほどでもないことだが、甘い言葉はあるはずの裏がないと見せかけるため、主に詐欺師の口から発せられる。


 甘い言葉と慇懃な物腰は、仲間内にも同じく向けられる。


「エマノエーレお嬢様、ご無沙汰しております。過分の配慮を戴きながら、かほど連絡を絶ったこと、どうかお許しください」

「気になさらないで」


 エマノエーレは、端正なスーツを隙なく着こなした、人好きする顔の青年に、好色な視線を隠そうともしない。幼い頃から蜜の味しか知らずに育てられてきた、本能と激情の糸に吊られる人形マリオネットであり、青年もそれをよく知りつつ、優しげな視線で受け流す。


「して、かの蜜の売れ行きはいかが?」

「二十名に売れました。お嬢様、僭越ながら潮時であると考えます」

「なぜ」

「お客様は、己が唯一、強大なギルドにも屈強な冒険者にも、見栄を張り合う隣人にも先駆けて金を入手したと思い込んでおります。あまりに広く、多くの人が手に入れると、その価値を失います」

「……もう少し、粘れないものかしら」


 青年は、残念そうに首を振る。傲慢な女王蜂はムッとして睨みつけたが、涼しげで童子のような幼気の顔を向けられ、破顔する。


「いいわ。そろそろ、養蜂場も悲惨なことになっているらしいから、ちょうど良いのかもしれない」

「『女王蜂ホーニャコーン』の蜜に誘われた魔獣で溢れていますか」

「ええ。巣から蜜を採るのもひと苦労。採蜜師のハーベックが必死にやってくれているのよ」


 傲岸不遜なエマノエーレだが、養蜂の大変さをよく理解しているため、こと実際に現場で労働する者に対してはそれなりの敬意を払っている。


「採蜜でございますか……」

「難しい作業よ。蜜蜂は温厚だけど臆病者。人間が巣に触れれば、たとえ針が折れようと命懸けで抵抗する」

「まして、相手が上位魔人の蜂となれば……」

「ちっぽけな虫といえども、命を散らして護る蜜。だからこそ甘い」


 エマノエーレは蜜入りの紅茶を啜る。青年も、優雅な所作で倣う。


「甘い。命の甘さですか……」

「そう。金塊よりも価値があると思わない?」

「さてさてそれは……」

「……あなたは、詐取したお金を何に使うのかしら」

「……お嬢様こそ」

「わたくしは、わたくしのために」


 青年の顔が、少し歪む。それは刹那であり須臾の嘲笑であった。寸秒で表情筋を引き戻したが、それでも妙齢の女王蜂の好色を笑わずにいられなかった。青年は、エマノエーレの淫奔な漁色ぶりが養蜂場の経営を破綻させたことを、同業者から既に聞いて知っていたのだ。

 男娼に熱を上げ、経営費に手を付け、引き返せないところまで来た。いや、そもそも近頃の売れ行きはかんばしくなかった。王宮の御用達を掲げても、その王が持つ権威がほぼ存在しない。当代の王、サルマンディは王位継承前の頃に虫歯で歯を痛め、地獄のような抜歯を経験して以来、甘味を一切口にしない。二人いる王女は、王族らしくもなく冒険者に憧れて武骨な料理を好み、これまた甘味を遠ざける。老いた先王も息子の抜歯を隣の部屋で、魂に憑りついた悪魔を無理やり引き剥がすような絶叫を震えながら聞いていた経験から、これまた糖分を憎む。その妻、またしかり。

 

「サッカーニャ養蜂場はおしまい。折を見て、溢れたハニージャンキーをギルドの犬どもに始末させて」

「畏まりました」

「畏まるのはまだ早いわ。先ほどの問いに答えていないでしょう」

「といいますと」

「お金の使い道。もしあなたの気があるのなら、私と共に都を出ない?」

「……お嬢様との道行は、それこそ蜜のごとき甘いお誘いにございますが……やらねばならぬことがございます」

「断るのね」

「……こればかりはお許しを」

「許すことなどないわ。あなた風情に執着する理由もない」


 憎らしそうに紅茶を飲み干し、もう帰れと手を叩く。白髪交じりの、強靭な体格の男が、青年を出口まで送る。


「あなたが採蜜師のハーベック様でございますか」

「……はい」

「屈強な御身体ですね。養蜂所の倒産後、行く当てが見つからなければ私の下へいらしてください。待遇は約束いたします」

「……お帰りください」


 不愛想な老人は、黒い虫刺されの古傷が無数に残る腕で、帰り道を示した。


 ***


 ルーシーは戦慄した。

 昂奮した蜜蜂が腕にぶすぶすと針を刺しても、まるで動けない。

 養蜂所の裏から、枯死した木に登り、敷地内を隠密に動き回っていたら、予想外の存在を発見してしまう。

 それは蜂でもなく、蜜に操られた魔獣でもなかった。女王蜂ホーニャコーンの蜜の中でも、濃度が高いものはそれだけでスライム状の魔物として、意識を持たず動き回る。無造作に移動する『女王の蜜ローヤルゼリー』が地面に沁み込めば、その地面は異様な栄養素を含み、蜜に招き寄せられた魔獣――おそらく鳥系――が落とした糞に混じった植物の種が、その異様な栄養素を摂取しつつ育つ。

 当然、その植物は異様に変異し、目視できるほど大量の花粉をまき散らす若木となっていた。

 ルーシーは瞠目する。無意識にメモ用紙を文字で埋め、その様子を記録する。

 この若木は、どうやら女王蜂の巣箱からは離れた位置にあるようだ。女王の選別から漏れた弱卒蜜蜂が花粉の霧に触れた瞬間、猛烈に狂いだす。それは帰化の瞬間、凶化の一齣である。


「もしかして、異様な繁殖力も、この花粉のせい……? これは、凄いネタですよ……確かもうすぐ、ギルドから養蜂場に駆除部隊が入るはず」


 その先頭には、蜂の魔獣を主に相手取る三人組がいるという話だ。ギルドはこの植物魔獣と花粉のことを知らないはずである。情報は高く売れるはずだ。それに、駆除の様子や養蜂場で手に入れた証拠を独占的に取材させてもらえるかもしれない。

 希望が膨らんだ。もしかしたら、チルノたちとはいかずとも、今よりましな家に住めるかもしれない。思わず頬が緩む。

 油断した。背後の気配に気づかなかった。

 希望の裏に、唸り声がして、背中に鋭い痛みを覚える。痛みは背中全域が燃えるように奔る。徐々に感覚が鮮明になり、痛みの中心は左肩のあたりだと検討をつける。そして、事実それは痛いだけでなく燃えるように熱いのだとも気づく。

 全力で走り、一度だけ、振り返る。針金のように細い四本脚の上にスラムの建物の木組みのようなガタガタの胴が乗る。尾は小魚の鰭のように貧弱。そして何より、小さな芋のような頭部から一本、体重の七割を占めそうなほど立派な角が飛び出している。角の先は平たく、幾何学的な刻み模様があり、橙色にいきれている。

 奴隷の額に焼く烙印のようだ。烙印を押す獣もまた、花粉の影響により興奮状態にある様子で、前後不覚に建物の壁に突進したり、細い足で、水が入った土器の壺を粉々に砕き擦ったりと、健常ではありえないと思わしき行動を繰り返している。

 走った。痛みを耐えて走った。入り方が特殊であったため、出口がわからない。ハニージャンキーとなったライス堅狼ダイアウルフ、そして女王蜂の忠実なる家臣、クイーンビット。

 溢れた排水により朽ちた柵壁の隙間に、体当たりして体を捩じ込む。敷地から出て傾斜を転がりながら、意識を手放した。

 それでも、記者の本能でメモ用紙は手放さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る