001.命の先で
「お前のせいで......!お前のせいで……!!」
ゴッ!ゴッ!
鈍い音が脳内に響き渡る。
何かが勢いよく何かにぶつかる鈍い音。その音と同時に痛みも伴い、既に慣れてしまった嫌な音。
それ以外に音はなく、普段は締まりの悪い蛇口から水の滴る音が聞こえるはずなのに、それさえも今はもう遥か彼方。ただただ黙って身を丸め、時が過ぎ去るのをじっと待つ。
「お前さえ……お前さえ居なければもっと遊べたのによぉ!!」
頭上から怒気の孕んだ声が容赦なく降り注ぐ。
怒りに身を任せた蹴り。勢いよく叩き込まれる足が俺の身体に直撃し、何度も何度もその痛みに身をこわばらせる。
顔を合わせるたびやられたものだからもう慣れた。服の下は青あざだらけだしきっとどこか折れているかも知れない。けれど俺は逃げ出すこともせず黙って耐え忍ぶ。逃げたところで行くアテなんてないのだから。
しかし、今日はなんでこうなったんだっけ。
………あぁ、確か街中でこの人の姿を見たからだ。
いくつも掛け持ちしているアルバイトの帰り道。今日はちょっとだけ良いことあったからと楽しい気分になりながら普段は通らない街のアーケードをショートカットとして進んでいた道中。ホテルへと続くその脇道に、この人の姿を見てしまったのだ。
ジャラジャラとネックレスを掛けて派手な服を着、同じく金色に髪を染めた派手な姿の女性と2人でいる姿を。
目が合った。合ってしまった。その後は逃げるように目を逸らして急いで帰ったものだが、翌朝俺の寝込みを襲うようにして蹴ったのが今日の始まりだ。
なんとも強烈な一発だった。どんな人でも確実に起こすことの出来る必殺の一発。
それからもこの人は鬱憤を晴らすように俺を蹴り続ける。ようやく蹴り終わったのは薄いカーテンの隙間から光が入り込んで来た頃だった。
「おいっ!寝てんじゃねぇだろうなぁ?なぁっ!!」
「…………」
倒れ込んでいる俺の髪を片手で掴んで自らのもとへ引き寄せられる。
肺さえも痛く息が苦しい。呼吸もままならない中で声を出すことなんて到底できず、伏せていた目を上げると見下ろす瞳と視線を交わす。
「起きてんじゃねぇか。なら返事くらいしろやオラァ!!」
「っ――――!!」
目が合った瞬間、俺の身体は後ろへ思い切りふっとばされた。
髪を掴み力任せに投げられるこの身体。椅子か箪笥か、どこかに当たったのだろう。俺の背中は硬い何かにぶつかってその場に崩れ落ちる。
「けっ! おい
蹴りが収まったと思いきやそんな言葉とともに扉の閉まる音がした。ようやく気が済んでくれたのだろう。今日は随分とお冠の日だった。
自分以外誰も居なくなった室内。ようやく開放されたと思って身体を起こせば床や布団が無惨にもボロボロになっていた。
それは全て自分に起因しているもの。血だったり布団が破れて出てきた綿だったり。
このまま放置して出かけようものならその間に帰ってきたあの人に見られて蹴りが更に強くなってしまう。
そうなってしまえば元も子もないと痛む身体を耐えながら立ち上がり、せめてパッと見ではわからないくらいまで綺麗にする。
「つつっ……」
今まで着ていた服を脱いで雑巾代わりに床を拭く。
もう慣れたこと。痛みも、この寂しさも。
けれど今日の痛みはいつにも増して酷いものだ。未だに呼吸は安定しないし脇腹がズキズキと痛む。またどこか折ったのかもしれない。
痛みに耐えつつ掃除をしていると、1時間経ってようやく朝の作業が終わった。
あの人に蹴られることなんていつものこと。朝ごはんなんて無い。夜に勉強しようにも電気だって止められた。
ないない尽くしのこの部屋。しかしお金も無いのだからどうしようもない。毎日働いて得た給料はそのままあの人の手に渡るのだから俺には何もすることができないのだ。
逃げて……遠くまで逃げる選択肢もとっくに消えさっている。そんなことをしたら本末転倒。これまで頑張ってきた意味がない。
もう何度喰らったかわからない痛みに耐えながら服を脱いで自らの身体を確かめる。
今日は随分と不機嫌な日だった。身体にはいくつもの青い痣が所狭しと付けられており、今日付いたであろう箇所にはいくつか赤黒く変色しているところだってある。
しかし病院に行くこともできない。時間もないしそもそもお金がないからだ。
幸いにも長袖の服を着さえすれば傍目からはわからない。俺は昨晩手洗いしたボロボロの服を着て隙間風に震えながら家を出る。
「アレっ……?」
しかし、俺の身体は家を出ることがなかった。
ドアノブに手をかけたものの思うように力が入らず握力のないまま滑り落ちる腕。ドアノブを捉えることのできず重力に従って下がる腕に加え、勢いそのままに膝が折れて視界が一気に落ちていく。
どうやら今日は随分と手痛い一撃を貰ってしまったらしい。
扉前で崩れた俺は頭を勢いよくノブにぶつけ、グシャリとその場に倒れ込む。
あぁ……これは想定外だ。バイトまであんまり時間ないし、こんなところで寝てしまえばあの人が帰ってきた時蹴られてしまう。
でも、なんだかそれも悪くないかもしれない。何故か全て許せるような、どうでもいいような感覚が湧き上がってくる。
ついさっきまで感じていた寒さも今はなく、体中で悲鳴を上げていた痛みも何故か感じない。もしかして崩れる一瞬で隙間風はなくなってこの身体の青あざは治ったのだろうか。
そんな悠長なことを考えながら部屋を見る。倒れたおかげで90度傾いた部屋。嫌な思い出もいい思い出も、色々なものが詰まった部屋。
そんな思い出もなんだか……どうでも良くなってきた。それよりもただ眠い。さっきまで寝ていたはずなのに、勢いよく起こされたせいだろうか。バイトもあるのにあの人が帰ってくるかも知れないのに、頭の中でどんどん膨らんでいく眠気には敵うことができず、俺はゆっくりと目を閉じて眠りの世界に誘われていった。
―――――――――――――――――
―――――――――――
―――――――
「ぉ~いっ!起きてる~?」
「ん…………」
暗闇の中、俺は一人で漂う。
しかし突然そんな声が聞こえた。間違いなく耳にする何者かの声。聞こえる。誰かの呼ぶ声が。
感じる。誰かによって引っ張られるような浮遊感を感じながら眩い世界へと浮上していく。
「あっ、起きそう。お〜い!目を覚まして~!」
「うるさいな……誰だよ……」
呼びかけられる声に誘導されるがままに意識を浮上させれば、そこはなんとも明るい世界だった。
まるで光に満ちた世界のような、まるで真夏の日差しが強くて幾重にも反射する空間に居るかのような。
それほどまでに眩い世界に顔をしかめながら起き上がる。
「んもう、びっくりしたよ〜。いきなりこっち来たけど全然起きないんだもの。もしかしてこのままなのかな~って心配したんだから!」
なんとか眩さで慣れない視界のピントを合わせて横を見れば、そこには何者かが俺に話しかけていることに気が付いた。
青い短パンに白いシャツと着崩した上着が肩を覗かせる。そこから伸びる腕や足は細く、そして小さな顔に整ったパーツ、更に肩にかかるくらいの淡いピンクと一部青のメッシュになった髪。そして蒼の目をした女性が覗き込んでいた。
随分と美しい少女。いや、可愛い系か。少し格好や髪色に奇抜さが見えるがそれでも街中を歩いていれば何人も振り返るくらいはするだろう。
しかし誰だ。見覚えがない。なんでコイツは見ず知らずの俺に話しかけてきてるんだ。
笑ってはいるがどことなく掴めない表情。膝を抱えながら座っている彼女と目を合わせるように俺も身体を起こしてみせる。
「……アンタ、誰だ?」
「私のことはどうだって良いよ!それより大丈夫?随分と酷くやられてたね。腕とか頭とか痛くない?無くなってる部分とかない?」
「あ?そんなの痛いに決まって…………あれ?」
そこまで言われてようやく思い出す。俺がついさっきまで何があったかを。
朝寝ていたらあの人に蹴られて起こされて、バイトに行こうと思ったら頭をドアノブにぶつけたんだ。
慌てて頭に手を添えてみるも痛みは全く感じない。それどころか体中の痛みも気だるさも、全ての痛みや気持ち悪さが俺の身体から消え去っていた。
「痛く……ない!?」
「あぁよかった。いや、よくはないんだけどね。結局は行くところまで行き着いてるわけだし」
「アンタ……何を…………」
身体を確かめようと視線を下げようとしたが、それより前に何やら訳知り顔で頷いている人物を睨みつける。
こいつは何を知って……。そもそもここはどこなんだ?ただただ白い世界が広がっているだけなんだが。
ここでようやく回りに気を配る余裕が出てきて辺りを見渡すとようやくこの場の異常さに気が付いた
きっと俺は頭打ってどこかに運ばれたんだろう。考えられるのは病院か。それはそれで治療費が恐ろしいが運ばれたものは仕方ない。……そう、思っていた。思っていたのだが、この場所は明らかに普通の場所ではなかった。
限りなく広く地平線まで続く草原、というのが最も近いものだろうか。それでいて生えているのは草原ではなく金色に光り輝くなにかだった。小麦のようだが稲穂はない。少なくとも俺の知っている植物ではない。
まさに光に満ちた空間だ。絵に書いたような小麦畑。しかし実際には小麦ではなく別のなにかなのだが。
きっと拉致。家にいたはずなのに日本かどうかもわからない場所。
普通なら混乱し、パニックになっていたことだろう。しかしそうはならなかったのは目覚めたばかりで脳が働いていないためか、それともどうしてか
明らかにおかしいのにそれが当たり前だと認識してしまっている不思議な空間。病院でも、もはや地球なのかどうかすら怪しい空間を見渡していると、ふと目の前の人物が「あれっ」と声を上げる。
「もしかして……まだ気づいてない?」
「まだって何が?」
「今自分がどうなってるかってこと。あれぁ?おかしいなぁ……ここに着たら真っ先に理解するはずなのになぁ……」
「何のことだよ……」
不思議そうに声を上げるも今の俺には何のことかさっぱりわからない。
真っ先に理解?何をだ?一貫して意図のわからない言葉たち。その訳の分からなさにだんだん苛立ちが募っていく。
「ほら、自分の身体見て。それを見てもまだわからない?」
「俺の身体って…………っ!!なっ!?怪我は!?」
半信半疑。なんでそんなことをしなければならないのだろうと思いつつ一応手を掲げて自らの身体に意識を向けるとようやく気がついた。
俺の体は服も何もない完全に全裸となっていた。いや、それも驚くべきポイントだが今はそこではない。俺の身体から怪我が消え去っていたのだ。
動くたびに感じていた突き刺すような痛み。それを象徴するような青痣はなく、きれいな肌が身体全体に広がっている。
痣が無い身体なんて何年ぶりだろう。それよりもどういうことだ。あの痛み、あの苦しさ……。全てが嘘だったとでもいうのか。いや、それはない。だってあんなにも苦しみぬいた現実が夢だとしたら俺は何のために……!
「だってえ、君は私と同じ存在なんだから。ふふっ」
クスクス笑う謎の人物に俺はキッと睨みつける。
こいつは何を知っているのか。なぜ俺はこんなところにいるのか。わからないことばかりでおかしいことばかりだが、それを自然に受け入れてしまっている自分がいることもおかしい。
沸々と怒りが沸いてくる。しかしその人物はそんな俺を迎え入れるように手を広げ、満面の笑みで真実を告げる。
「だって君はついさっき、頭をぶつけて死んじゃったんだもん」
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