第3話
数日が経った。
「うぅ、ん……」
朝、私は『自分の部屋』で目を覚ました。
慣れないベッド、毛布一枚だけじゃない寝床は気持ちが良すぎて気持ち悪い。
部屋の全ては私の物と言われた、でも使い方は分からない。
着た事のない綺麗な服に袖を通す。
ここにあるものは全て新しい、私の名前も。新しく貰った名前は「クーア」。
私の元々の名前は侮蔑の意味が込められていると言われた。知らなかった。
今の私には仕事が無い。掃除も洗濯も、私は客だからしなくていいと言われた。
だからといって、読み書きが出来ない私は本を読んで過ごす事も出来ない。
とりあえず、私は朝日が差し込む窓辺へと向かった。
『君は幸せを知っているかい?』
『………わからないわ』
あの男性――ケストルと言っていた――は、この大きなお屋敷の主らしい。貴族なんだろう。でも位は教えてもらってない。教えてもらっても、私は公爵以外を知らないし、それがどのくらい偉いのかも分からないけれど。
青く晴れた空を眺め、ぼーっとしていた頭を起こす。
「静か……」
初めてだろう。こんなにゆっくりとした朝は経験が無い。
ただ静かなだけならいくらでも、寂しいだけの時間だったけれど。
ここが私の帰る場所。そう言われてまだ実感は無い。
「……どうしよう」
これから先の予定なんて無い。
ケストル様は日々を思うように過ごしてくれればそれだけで助かると言っていたが、その過ごし方が分からない。何もしなくていい日なんて無かったから。
知識に無い事は出来ない。
この部屋にはキッチンも食材もあるけれど、料理を覚える事を許されなかったから作り方が分からない。
それでもお腹は空く。一度は私を裏切った体だけど、付き合わないと生きてはいけない。もう個人的な理由で死ねなくなったから。
「…………味がする」
料理は作れないけれど、何かを食べる事は出来る。
リフリジェレイターと呼ばれる物を冷やして保存出来る魔法具の中から、そのままでも食べられそうなものを取り出す。
これが何かは分からない。生まれてこのかた、固いパンと水以外の食べ物を口にした事が無いから。
でもきっと、味がするとはこういう事なんだと、なんとなく分かる。これが美味しいというものなのかは知らない。
ただ、今まで食べていたものと違うという事は確か、のはずだ。
食事を終えた私は部屋を出た。使い方の分からない道具に囲まれた部屋より、外に出て散歩をしていた方が時間を潰せると思ったから。
外に出ると広い廊下。いくつもの部屋が並んでいてどれが何の部屋かは分からない。
行先も無いから適当に歩く。この廊下にはゴミが見当たらない、掃除が行き届いているんだろう。
屋敷でも宮廷でも、ゴミを片付けるのは私の仕事だった。だから、汚れていない廊下を見るのは新鮮だ。
綺麗な道を眺めながらぼーっと歩いていると、途端、声が聞こえた。
「もし。……もし! 貴女ですわ貴女!」
気付いた。ここには私以外には、その女性しかいなかった。
廊下の分かれ道から呼びかけているのは、青く長い髪の女性。背は私と同じぐらいに見える。それと綺麗なドレスを着ていた。
「ごめんなさい」
とりあえず謝る。謝りさえすれば、良くて殴られ無いから。
「? 貴女、一体何を謝ってるんですの?」
「……?」
「いや、首を傾げられても困るのですけれど」
何故謝るのか? 初めての質問だ。だから何でそんな事を女性が聞いたのか分からなかった。
「えぇ……。まぁ良いでしょう。私はグリュスティ。この屋敷の主人、ケストルの妹よ」
「そう。私はクーア。よろしく」
「ええご存じです。クーアさん、兄様のお付けになられた名前だと。……まあそのような事はどうでも。それより貴女、これからのご予定は?」
「無いわ。それが?」
「ではわたくしにお付き合いなさい。この家の事をろくに存じていない以上迷われるでしょうし、この優しさに感謝してもよろしくてよ!」
「そう、ありがとう」
「…………どうも調子が狂うわね。ま、いいでしょう。付いてらっしゃいな。案内して差し上げます」
「わかった。ありがとう」
「もうお礼は結構ですわ」
「…………」
「それでも、何か返事ぐらいもらえるかしら?」
「そう」
「……もういいですわ。さあ、行きますわよ。っとその前に、はい」
手を差し出された、これは何? わからないわ。
「もう、こうやって手と手を重ね合わせますの!」
そういうと彼女は私の手を取って自分の手を重ねた。
「これは?」
「握手も知らないんですのね。親しくなる為の始まりの合図ですわ」
◇◇◇
西の僻地からの嵐が到達したのは、宮廷。不思議な事に、この宮廷を中心に三日程嵐が続いていた。長続きする嵐に、宮廷の人間は貴族や使用人問わず苛ついて来ている。
何よりも苛つくのは、ストレス発散の矛先であった”クズ”が行方不明になった、という事。嵐に巻き込まれたらしく、おそらくは死亡が濃厚である。
その事に対して、始めは誰もが嘲笑を浮かべて喜んだものの、感情の押し付け先が居なくなったというのは思いの外鬱憤を溜めるもので、今では皆が不機嫌になっていた。
そんな時、一人の男が口を開いた。
「あの女はどこへ行ったのだ!? あの女のせいだというのは分かっておるだろう!!」
それは、誰に向けた言葉でもない。ただの独り言。
しかし誰もが思っていた事。
あの女が悪い。この嵐さえあの女のせいだ。
誰もがそのような事は無いと思っていても、苛立ちは正常な判断を奪い、あり得ない妄想をかき立てる。
そして起こるのは、ストレスの吐き出し先を追いやったのは誰か? という非生産的な議論。
「お前があの女をいじめ過ぎたせいだ! お前が代わりになれ!」
「あの汚らしい女に人一倍仕事を押し付けていたのは貴方ではありませんか?! 貴方こそ私の分も働きなさい!!」
”クズ”が居なければ代わりになる人間を探す。
ある意味では全員の心は一致していた。
宮廷内に波及する激情。その至る所では塵が積もり、払われる事も無い。
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