【冒頭試し読み】蒼き太陽の詩
日崎アユム/KADOKAWA文芸
第0章 紅蓮の女獅子と蒼き太陽
第0章 紅蓮の女獅子と蒼き太陽ー①
地下道は無音であった。闇の中、自分の息づかいだけが大きく反響しているように感じた。
もっと静かにしなければと思って、自分の口元を押さえる。
なかなか静まらない。むしろ苦しくなる一方だ。自分がどれほど動揺しているかを思い知らされる。
自分は、今、恐怖に
自分は逃げた。衝動的に戦場を捨てた──その事実がぐるぐると頭の中を回り続けた。
怖かった。
遠くへ逃げたかった。抱えているすべてのものを放り出してしまいたかった。
それだけの理由で、自分は、今、戦友たちを見捨て、部下たちを見捨て、務めを、誇りを、何もかもを捨てて、こんなところにいる。
突如右の
倒れ込んでから、地面が
ここは王都の下を縦横無尽に張り巡らされている
王都の地下だ。
王都エスファーナの地上が敵兵に荒らされているというのに、自分は地下でひとり転んで
「……うう……」
もがいた指先が石畳を引っ
何を考えているのかと、ユングヴィは自分で自分を𠮟った。
そもそも逃げたこと自体が間違いだ。
自分は、神剣を
赤軍とは、この国の軍隊でもっとも市街戦に最適化された部隊だ。物陰から銃を撃ったり
それが、今回は、この王都が戦場になってしまったため、最前線で戦っている。
赤軍が活動するのは王都陥落の危機の時だ。ユングヴィはそれをいまさら思い知った。
本当は、みんなを率いなければならない。本当は、強く勇ましく振る舞ってみんなを励まさなければならない。性別も年齢も関係ない。
だが、今はまだ、十六歳の女の子だ。
生まれて初めての戦争、生まれて初めての人殺し、何もかもが、ユングヴィにとっては重くて怖くてつらかった。
自分はとても弱い。
「…………うう……」
この国が、自分のせいで滅んでしまったら、どうしよう。
もう、お
国がなくなって守るものがなくなったら、自分には、もう、何の価値もない。まして自分は逃亡してしまった。生き残ったところで、同じく生き残った同胞たちにどう
そもそも、誰が生き残るのだろうか。
王都が、敵の手に、落ちるかもしれない。
王宮が──王族が──王が、敵の手に、落ちるかもしれない。
王から神剣を
死のう、と思った。王が
背に負っていた神剣の
ところがそこで、今までにない強い
ユングヴィは目を丸くした。
抜けない。神剣が、
建国のおりに初代国王が神から授かったという伝説の剣が──持ち主を選び、選ばれた者にしか抜けないという剣が──今は選ばれたユングヴィにだけは抜けるはずの剣が、今に限って抜けない。
焦りが込み上げる。
どんなに引いても──起き上がってその場に座り込み鞘を体の前へ持ってきてむりやり引っ張っても、神剣は絶対に
「えっ、なんで?」
先ほどまではこの剣で敵に相対していたはずだ。それなのに、なぜ、今になって急に抜けなくなってしまったのだろう。
「ちょっと、言うこと聞いて。お願い」
神剣に懇願する。
「こんな時に限って勘弁してよ。お願いだよ、最後の一仕事だから……!」
その時だった。
「誰だ」
女の声が響いた。
我に返って顔を上げた。
次の瞬間、あれほど粘っていた神剣が緩んだ気がした。剣が鞘から飛び出すように抜けた。紅蓮に輝く刃が真っ暗だったあたりを照らし出した。
目の前に誰かがいる。まばゆく光る紅の刃のきらめきが、目の前の誰かの顔を照らし出す。
「赤い
女の白い顔が浮かんだ。
「そなた、まさか、ユングヴィか」
ユングヴィは急いで立ち上がり、背筋を伸ばした。
「王妃様!」
髪を覆い隠す絹の飾り布も、金銀に輝く首飾りや指輪もなかった。つい先日拝謁した時には美しかった顔の左目あたりが
それでもなお気丈で気品のある声は、紛れもなく、この国の第一王妃のものだった。
「そなた、何ゆえ、このようなところに」
ユングヴィは言葉に詰まった。王妃を前にして、逃げてきた、とは言えなかった。自分は彼女の夫に死ぬまで仕えると誓って神剣を抜いた身なのだ。
しかし王妃はユングヴィを責めなかった。むしろ、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
「王妃様?」
王妃が
ユングヴィは神剣を
王妃の体に触れた瞬間手がぬめった。これも血かもしれない。きっと顔だけでなく体にも大怪我をしている。
「王妃様、お怪我を──」
抱きかかえてから気づいた。
王妃は何か大きな荷物を抱えている。王妃自身の
「サータムの兵士たちが宮殿に砲弾を放ちよった」
ユングヴィは
蒼く輝くモザイクタイルの宮殿、我らがアルヤ王国の象徴たる
あってはならないことだった。
王族のみんなを死なせてはならない。
「王妃様、すぐに逃げましょう」
ユングヴィは王妃を抱き上げようとした。将軍になってから二年このかた一心不乱に体を鍛えてきた自分であれば、彼女ひとりくらいは抱えて走れると思った。
だがいざ腕に力を込めると、王妃の体はなかなか持ち上がらなかった。体に力が入らないのか、ぐったりとしたまま動いてくれないのだ。人間を横抱きにするのにはこつがいる。この状態では思うような形で抱え上げられない。
「よい、よせ」
王妃が静かな声で言う。
「わらわはもう助かるまい」
ユングヴィは顔じゅうをゆがめた。
「何をおっしゃいます……! 今すぐに手当てを受ければ、あるいは、王妃様だったら──」
投降すれば、と言い掛けて口をつぐんだ。
ユングヴィが言わんとしていることを察したのか、王妃が
「わらわであったら──サータム帝国からアルヤ王国に嫁いできた、サータム帝国の皇女であったわらわなら、サータム兵たちも助けてくれるに違いない、と。ユングヴィは、そう考えるのか」
答えずに首をすくめたユングヴィを、王妃は𠮟らなかった。
「そなたは良い子だなえ」
王妃の頰を
王妃の左手が、荷物から離れ、ユングヴィの頭に向かって伸びる。ユングヴィのぼさぼさの赤毛を
「わらわは、本当は、反対したのだぞ」
「何に、ですか?」
「おなごに……、それも、年端も行かぬ乙女に、将軍をやらせるのなど。ましてゆく先はあの都のごろつきがわんさかいる赤軍ぞ。アルヤの将軍とは神剣を携えるだけのお飾りであるとわかってはいた。だがそうであったとしても軍属は軍属。陛下はなんとむごいことをと、ずっとずっと思っておったのだ。しかし、陛下は、おなごであるからこそ新時代を切り開いていくかもしれんと言って聞かなかった」
ユングヴィは目を丸くして口を開けた。まさか国王夫妻が自分のことをそんな風に考えてくれていたとは思わなかったのだ。
冷静に思い返せば、王も他の将軍たちより自分をひいきしてくれていた気がしないでもない。軍の宿舎ではなく蒼宮殿の敷地内に新しく小さな家を建てて賜ったほどだ。女の子だから特別扱いしてくれたのである。気づかずになんとなく受け取っていた自分はなんと馬鹿だったのか。
その上で、女の子であっても軍属は軍属、それが王の意思だった。
自分は王の期待に
思い返せば、王は最初のうち、将来はきっとどうにかなるだろう、今は何もしなくてもいいからただ赤将軍を名乗りなさい、と言ってくれていた。何をしたらいいかわからず右往左往していたユングヴィにとっては、救いだった。最初はただそこにいるだけでも、徐々に将軍らしさを身につけていこう、と決意した。努力をすればいつかは将軍らしくなるはずだった。
しかし、王妃のほうは、あの時点ですでにユングヴィがこうしてどんどん重責に振り回されるようになることを見通していた。
今になってみると、王妃のほうが正しかった。自分はお飾りの将軍のままだ。情けないことこの上ない。
王妃がこう続けた。
「だが、こうなった今振り返って考えると、陛下のご判断が正しかったのかもしれぬ」
「何が、どう?」
「そなたは良い子だ。陛下にもよく尽くしてくれたなえ」
王妃は断言した。
「他のどの将軍よりも信頼できる」
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