Extra round⑤ Over the limit

初めて好きになった人が、初めて彼氏になって、今週で6年になる。


交際記念日は来月、6月に入ってからだけれど、ゴールデンウィーク明けの週は私たちの関係が動き出した週だ。毎年こどもの日が終わるたびに、私はあの日のことを思い出していた。


私が偶然目的地を間違えたことで襲われそうになり、そこを偶然通りがかっていた俊くんに助けてもらって、彼に惚れてしまってからもう6年か。


日にちにして2000日以上経過しているけれど、今でも鮮明に覚えているもんなぁ。付き合った日、彼が全国制覇した日、そしてその日の晩、初めて関係を結んだ日……。


さすがに丸4年同棲していることもあって、もスムーズにはなってきた。今でも彼は当時と変わらず、優しく、私を包み込むように抱いてくれる。そこに彼の愛情に変化がないことが感じられて嬉しくなる。


付き合って6年、そして同棲して4年。私の頭には『結婚』の二文字が具体的に浮かぶようになっていた。


高校生の時なんかは夢や妄想で、結婚生活に憧れたりしたけれど、実際同棲して4年過ごしたことで、私の頭の中には結婚生活を具体的にイメージすることができるようになっている。


「結婚しないの?」と周りから聞かれることもだいぶ増えた。学生結婚なんかも憧れはしたけれど、お互いまだ経済的に安定していなかったし、彼は世界王者になる夢を、私は管理栄養士になる夢を追いかけていたからまだ結婚には踏み出せなかった。


聞いてはいたけれど、プロボクサーになったからってボクシングだけでご飯が食べられる人は本当に一握りだ。同棲するにあたって私が彼の収入も管理するようになったけれど、思った以上に収入が少なくてビックリしちゃったもんね。


彼の収入はプロになって4年、年々増えていた。今じゃ私たち2人に加えて、もし子どもが生まれても十分、いや楽に生活していけるレベル。世界戦のファイトマネーだって何千万とするから、4年前とは比べ物にならない。


でもこれは彼が腕一本で頑張って稼いでくれたお金。使うたびに私は感謝の気持ちを忘れず、家計簿をつけていく。




「世界を獲ったら、そろそろ一緒になる頃かもしれないわねぇ……」なんて優子ちゃんに言われたのは、世界戦を1カ月前に控えた4月上旬、ジムの隣、歌舞くんの実家のキッチンに座って、俊くんや裕二くんたちみんなの体重推移をパソコンに打ち込んでいた時だった。


「一緒っていうと……。結婚ということですか?」

「そうよぉ。もう俊くんもぉ、遥ちゃんもぉ、23歳でしょう?付き合って長いわけですしぃ、そろそろあるかもしれないわねぇ……」


もちろん俊くんと結婚はしたいけれど、まだ大学を卒業して1カ月、このジムに就職してから2週間。それまでずっとバイトしてきた場所とはいえ、立場が変わって間もないタイミングだからプロポーズされるのは来年くらいかなぁ、なんて勝手に思っていた。


高校の同級生たちで高校時代と同じ彼氏と付き合っているのは私と麻友だけ。女子会なんかになると、やれ誰と付き合っただの、別れただのの話になる。中には付き合って1週間で別れている子もいる。


もちろんそれは人それぞれなんだけれど、初彼氏と6年付き合っていて、しかももう同棲歴5年目を迎えている私は相当マイノリティらしい。みんなに凄いって言われた。


私からすると、好きな人と毎日同じ家から仕事に出て、同じ家に帰れることが幸せで仕方ないのだが、これはとても珍しいことらしい。


同じく高校からずっと同じ人と付き合っている麻友も結婚はまだ先らしい。彼氏の卓くんと同じく教師になった彼女は、当然だけれど配属先が違う学校になってしまった。卓くんは高校の社会科、麻友は高校の体育科としてお互い新任の教師となったことから、新生活でバタバタしている。


そう考えると私はバイトから正社員?になっただけだし、そもそも私の職場に彼氏が毎日いたし、あまり状況は変わらない。変わると言えば1カ月後に世界戦を控えていることくらいだろう。


「いいわねぇ、遥ちゃん……」

「いいって、何がです優子ちゃん……」

「だってぇ、私は彼氏が世界タイトルを獲れずに引退しちゃったわけだからぁ……」


そうだった、剛さんは東洋太平洋級の王者にはなったけれど、世界には手が届かなかった。実力は通用したらしい。ただこればかりは巡り合わせもある。


「私、言われてたのよぅ、『世界獲ったら結婚するぞ』ってねぇ。でもなかなかその機会はなくてぇ。このままじゃ私、かわいいおばあちゃんになっちゃうなぁって思ったから、思ったその日に婚姻届取りに行ってぇ、剛くんに強引に書かせたのよぅ」


自分でかわいいって言っちゃっていることも気になったけれど、『強引に書かせている姿』がなんだか想像できて、私は思わず顔を引きつらせそうになった。


「あ、もちろん手足を縛ったりはしてないわよぉ」


補足説明ありがとうございます。安心しました。というか、手まで縛ったら婚姻届書けませんもんね。でも手足は縛らなくても、たぶんどこかは縛ったんだろうなっていう予感はある。この人はやりかねない。


「俊ちゃんが来月勝てばぁ……私も美保さんもなれなかった『世界チャンピオンのお嫁さん』ねぇ?フフフ、羨ましいわ。大丈夫よ遥ちゃん。あなたはこれまで十分俊ちゃんを支えてきたんだから。世界チャンピオンのお嫁さんになる資格は十分あるわよ」


最後、眼光が鋭くなり、口調もに変わった優子ちゃんに励まされる。『大先輩』からそうやって褒められるのは心底嬉しい。


「……昔、優子ちゃんに『プロボクサーの嫁になる覚悟』についての話をしてもらったこと、ありますよね?」

「懐かしいわねぇ。俊ちゃんのインターハイの打ち上げだったかしら?」

「はい。あの時優子ちゃんは、子どもだった私に『プロボクサーの嫁には覚悟が必要だ』という話をしてくれました。今の私はプロボクサーの嫁としてふさわしいと思いますか……?」

「……フフ、おかしなことを聞くわねぇ。そんな覚悟もない子を私はウチのジムの管理栄養士として雇わないわよ?」


私は優子ちゃんに認められたことが嬉しかったことで、思わず胸が熱くなり、涙が出そうになった。憧れの人からついに認めてもらった。


「でもね、まだ安心しちゃダメ。あなたと俊ちゃんの夢は何?一緒に世界を獲ることじゃなくって?まずはあと1カ月、できることを頑張りなさいな」


最後にちゃんと手綱を締めるのも優子ちゃんらしい。あれから1カ月、私は自分が彼のためにできることを最大限やったつもりだった。人事を尽くして天命を待つなんていう言葉があるけれど、まさにそれ。




メキシコ人ボクサーのマヌエル・ゴンザレスさんを相手に、俊くんは自分のボクシングを最後まで貫いて勝った。世界一にたどり着いた。


勝った瞬間、彼はコーナーのロープに上って、何度も胸を叩いて吠えている。自然に溢れ出る涙が止まらず、私はその場で両手で顔を押さえうずくまってしまう。


近くにいたみんなに祝福された私を最後に待っていたのは、リング上でのプロポーズだった。


いつか、彼と結婚したいと思っていた。高校生の時から6年間見てきた夢。


『もっと遊びたかったと思います。もっと普通の生活がしたかったと思います。それでもあなたは何も言わず、その明るい笑顔で僕のことを支え続けてくれました』


ううん、私はこの6年に不満なんてなかったよ。俊くんが頑張る姿を一番近いところで見られて、むしろ幸せだったんだよ。


目の前で彼がひざまずいて、花束を私に向かって差し出す。右手で口元を押さえた私の目尻からは、ダムが決壊したかのように涙がこぼれ落ちていた。


『白鳥遥さん、僕と結婚してください。これからも支えさせてください』


人生で一番言ってもらいたかった言葉を掛けられた私は、幸福度合いが限界突破してしまって、その後何を言ったか覚えていない。


あとから俊くんに聞いたところ、「はい、喜んで……!」なんて言っていたらしい。よくあの状況でちゃんと返事できたなと自分でも感心した。


彼に助けてもらってから6年後、私の名字は23年間使った白鳥から、薬師寺に変わった。

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