第16話

家に帰り、ポストを開けば封筒が入っていた。宛名を見てみるとそこには陸の名前が書かれている。不思議に思い差出人を見て、陸は思わず声をあげた。

「なおちゃんだ!」

 あの夏以来、久しく会っていない従兄弟の名前が丁寧な字で記されていた。驚きつついそいそと家に入り、居間を通って自室に向かう。母は既に帰ってきているようでテーブルには夕食が置かれていた。

 ぴったりとドアを閉め、柔らかな色の封筒を暫く眺める。震える手でその封を開ければ、いくつかの写真と便せんが現れた。写真はどれも見慣れない景色――これは、海外なのだろう。町並みを彩る文字がそれを物語っている。

 それをいったん机に置き、ぴしりと折られている便せんを開いた。


 陸くんへ


 しばらく会っていないけれど、お元気ですか。

 ボクはお世話になっている教授と一緒に日夜研究に明け暮れています。

 お手紙を出したのは、そろそろ陸くんが進路を考え始める頃だと思ったから。まだピンときていないかもしれないけれど、陸くんは陸くんのやりたいことをやってみてください。

 もし、進路や悩みがあったら遠慮無くメールや電話をしてね。また、そっちに遊びに行きたいです。


 手紙の終わりにはメールアドレスと電話番号が記されていた。090から始まる番号を見るのは初めてで、十一桁のそれを眺めているとガタガタと玄関が開く音がした。


「イルカが流れ着いてな」

 ほうれん草に煮浸しをつまみつつ、父はぽつりと呟いた。その表情は難しいが、その隣で母は無言で夕食をとっている。

「十数頭だと、処理に困る」

「どうするの?」

「埋めるか、海の底に沈めるかだな。埋めて数年経ったら、学者先生が掘り返すこともある。……ところで陸、学校はどうなんだ」

「え? まあ……普通だよ。授業で平田くんと一緒のグループになったぐらいで……」

 陸が答えれば父はおお、とどこか安心したように頷いた。

「そうか、リュージ君と一緒か。だがリュージ君はサッカー部で忙しいらしいじゃないか。平田さんが言っていたぞ、いつも遅くに帰ってくるって」

「レギュラーになりたいって。だから、グループの居残りにはあんまり参加してない」

「お前もサッカー、やればよかったじゃないか。勿体ない」

「今さらやってもしょうがないよ。俺、運動苦手だし」

 そう言って胡瓜の漬物を囓る陸に、父は口惜しそうにビールを呷った。中学校に入るや否や、平田と同じサッカー部に入るようにしきりに勧めていたのに結局入らなかった息子が、理解出来ないようである。

 無言のままで夕食を食べていた母が立ち上がり己の食器をシンクに持っていく。軽く水で流した後、二階へとあがっていった。

「おやすみ」

 陸の挨拶に帰ってくる返事はない。父ももはや気にしていないようである。

「運動部に入っておけば、箔がつくってもんだ。オレだってお前ぐらいの頃には平田さんと一緒にサッカー部に入ってたんだぞ」

「前に言ってた万年補欠の話?」

「やかましい」

 顔を真っ赤にして口を尖らせる父に、陸がにやりと笑う。そのままごちそうさま、と立ち上がれば父と自分の皿をシンクに運び、洗い始めた。

「リュージ君がお前と仲良くしてくれているのが、ありがてえよ、オレは。お前は背ばかり伸びてひょろっこいからなあ。そりゃケンカもするだろうが、そういう友だちはいたほうがいい」

「……」

 ビールで酔いが回った父は野球中継を眺めながらぼそぼそと呟いている。陸は聞こえないふりをして蛇口を捻り、勢いよく出る水で皿の泡を流した。


 父と母が寝静まっても、陸はまだ起きていた。

 椅子に腰掛け、今日届いた手紙をもう一度読み、写真を眺める。

「なおちゃん、なんの研究をしているんだろう」

 あの親しみやすい従兄弟は、無事に希望の大学へと進学していた。母がなおちゃんの母――つまりは彼女の姉から顛末を聞き、それを我が子のことのように夕食で語っていたのを陸は思い出していた。

 あの子は頭が良いから。きっとえらくなる。

 そういったことを三日ほど陸と父は聞かされた。しまいには父がうんざりした顔でもういいと止めたのだが、母は途端に不機嫌になっていつものように部屋へ閉じこもった。

 陸が中学生になってからというものの、母は仕事から帰ると夕食の支度をし自室にこもるようになっていた。夕食の席は共にするのだが、それでもさっさと食べ終わって二階へと戻っていく。本当に機嫌が悪いと、おりてすらこない。そんな母を父は最初窘めていたが、今はもう諦めている。

 中学校から高校になり、ぐんと背が伸びた陸を母はこれ以上大きくなるなという目で見る。しかし母の願いに反して陸は175センチほどの背丈になった。彼女が我が子を見上げなければならなくなったころ、その眼差しには怯えがよぎり、そして殆ど、笑顔を向けなくなった。

 それでも陸は、この母親に反抗をする気にはなれなかった。古い考えを持っているが、天貝家を養っている父は理不尽な暴力をふるうこともなかったし、こうした冗談を交えた会話をすることもある。

 母に関しては諦めばかりが先行する。今、大きくなった陸が母に暴力をふるったならば、きっと彼女を黙らせることは出来るだろう。それが彼女にとってどれほど惨めにされるか、なんとなく想像もつく。

 ――母は自分が嫌いなのだ。理由は分からないが、どうしようもなく、息子である自分が憎いのだろう。

 小学生の頃と比べてもはっきりと感じ取っていた。何故、という思いは少なからずある。しかし、一度聞いてしまえば恐ろしいことが起きる。漠然とした恐れも抱いていて、結局黙っていることが天貝家にとってよいのだと結論づけて、陸はこの安心の出来ない家族関係を受け入れている。

「あっ……」

 同封された写真を眺めていればふと陸の頭の中で何かが差し出された。

「自由研究」

 思わず口にして立ち上がる。本棚の端に追いやられたクリアファイルを引っ張り出せば、少し色褪せてヨレたチラシが挟まっていた。

「ストランディング」

 それはなおちゃんが遊びに来た夏に行った資料館のチラシであった。瀰境町みさかちょうに流れ着いたクジラやイルカの骨格標本を展示した企画展。それを夏休みの自由研究の題材にしようとしていた。しかし、それは母が買ってきた万華鏡作成キットに取って代わられたのだった。

「これだ」

 あの時、なおちゃんは言っていた。いつか自由研究として見せてよ、と。今の今まで忘却の彼方にいた言葉がまるでお告げのように、陸へと差し出されたのだった。

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