第8話

「レディアス王国は退けた。せっかく共謀したのに残念だったな」


 エーギルは牢の中でぼんやりしているセイラーンの老兵に声をかけた。老兵は悔しそうな様子もなくほんの少し肩をすくめる。


 セイラーンは恐れをなして次の軍勢を送ってくることも、人質として捕まっている兵士を返してくれと要求することもなかった。ほとんどすべての軍勢がリヒトシュタインの魔法で起こした竜巻に飲み込まれてそのまま無傷で強制的に帰されたのだ。全員殺すこともできたのに、明らかにリヒトシュタインは手加減していた。その事実は正確にセイラーンに伝わったようだ。


「あの国もドラクロアに苦しめられた。貴族や王族に被害はなかったが、民たちが無理矢理ドラクロアの獣人や鳥人に番だと連れ去られた。セイラーンよりも被害は大きいだろう」

「俺の祖父もレディアス人だったと聞いている」


 エーギルの言葉に初めて老兵は顔を上げてこちらを見る。


「あぁ、だからお前は森の中で平気だったのか。人間の血が入っていたから」

「嗅覚がそれほど鋭くないせいもある」

「そうか」


 老兵はまたエーギルから視線を外してぼんやり虚空を眺める。尋問もすでに終わっておりもう会話することもないかと思ったが、老兵はすぐに口を開いた。


「お前の祖父の人生はどうだった? ドラクロアでの人生は。実りあるものだったのか?」

「俺が見た祖父はいつも穏やかな人だったが、今なら分かる。祖父はすべてを諦めていたんだ。死ぬ間際になってからやっと恨み事を祖母に言っていたのをよく覚えている。まるで別人のように呪いの言葉ばかり言って死んでいった」

「それを見ていてもお前は人間をわざわざ番として迎えて、そして見殺しにしたのか?」


 牢の格子を掴んでいた手に力が入る。どこから情報を聞いたのか。もしかすると、オウカ・セイラーンが情報を思った以上に漏洩していたのか。

 この牢はどんな力のある獣人でも壊せない設計なので、エーギル程度の力ではびくともしない。


「祖父の言葉は俺にとって呪いだった。だから、それを見ていた俺は番が人間でも祖父のようには絶対にしないと思い上がっていた。結果はこの体たらくだ」

「運命は遺伝する」


 老兵は突然悟ったように口走った。また心の傷を鋭くえぐるような質問をされるだろうというエーギルの予想とはかけ離れた発言だった。


「セイラーンにはそういう教えがある。親がやったことを子も必ずやる。行動ではなく決断や思考が遺伝する。だから殿下はドラクロアで必死になって運命を変えようとした。まだ目に見える結果は出ていないが」


 老兵は粗末なベッドに腰掛けたまま天井を見上げた。


「苦しんでいるドラクロア人もいると知って少しは安心した」

「結局、俺は番を祖父のようにしてしまっただけだ」

「殿下は許してくださるだろうか。間に合わなかった私を」

「それは……俺が言えることじゃない。あの世で聞くしかないんじゃないか」

「魔法を使っていた小娘に言われた。どうしてもっと早く攻め込まなかったのか、そうすれば殿下は殺されなかったのにと」

「彼女は……ドラクロアから一人で抜け出そうとする人だ。オウカ・セイラーンとは異なる形ではあったけれど、彼女は自分のために運命に抗った人だから。国のためでもなく誰かのためではなく自分のために」


 エーファはどうなっただろうか。天空城からまだ何も知らせがない。最後に見たのは血を吐いて気を失ったところだ。彼女のことだから、あのまま死んではいないはず。もし死んだらあまりにも呆気ない。彼女の人生は一体何だったのだ。

 心が重くなってきた。まだ後処理が残っているため、エーギルは老兵に背を向けた。


「これからドラクロアは大変だろう。あの粉は解毒剤以外ではなかなか分解されない。自然に分解されるには相当な時間を要するから、あの粉がいたるところに付着して吸い込めば広いドラクロアのどこで急に症状が出るか分からない。土に付着してその土で作った作物を食べたらまた症状が出るだろう」

「そうだったとしても俺たちは必ず、すべて解毒する。すでにレディアス王国を退けるほどには戦力は回復している」


 背中越しに老兵がまた話しかけてきて、その内容に思わずエーギルの声は鋭くなったがすぐに視線を落とす。


「セイラーンで既婚者を連れ去ろうとしていたライオン獣人には対処した。あのライオン獣人に関しては申し訳なかった……これで少しは運命が変わるだろうか。こういう決断を上にさせたのはオウカ・セイラーンのこれまでの行動のおかげだ」


 老兵の表情を見ずにそのままエーギルは歩き去る。

 エーギルが老兵と会話したのはそれが最後になった。彼は翌日には穏やかな表情で亡くなっていたから。


***


 目を開けるとすっかり見慣れてしまった顔が視界に入る。見慣れたにも関わらず、まじまじと見ると本当に人間離れした容貌だ。彼の金色の目が閉じられていてもそれは変わらない。


 私は死んだのだろうか。苦しんだ記憶はない。

 血を吐いて目は見えなくなったけれど、リヒトシュタインの名前を呼んだ記憶はある。最後に顔を見れなかったから天国らしきところで幻を見ているのかもしれない。


 幻ならそれでいいかと目の前で横向きに眠るリヒトシュタインの鎖骨に指を滑らせる。指から伝わる感触は妙にリアルだ。ひんやりした滑らかな感触。


 リヒトシュタインに一度も話したことはないが、妖しい金色の目以上に彼の鎖骨のラインが好きだった。言ってしまえば「俺の鎖骨しか見ていないのか」なんて拗ねたフリをするに違いない。そっと鎖骨に唇を寄せた。いつもは絶対にしないことだ。やっぱり彼の肌は冷たい。


 サラサラと何の抵抗もなく指が滑る彼の黒髪の間を縫って、唇に指を這わせる。相変わらず腹が立つほど綺麗な顔立ちだ。もちろん髪のサラサラ具合も腹立たしい。


 不満で唇を尖らせながら、彼の唇から顎、首までゆっくり指を滑らせて息を吐いた。


 いや、そもそもここは天国ではないのかもしれない。エーファはギデオンを殺し、死にたいと精一杯主張した公爵夫人を殺し、セイラーンの若い兵士も焼き殺した。殺したくて殺したのはギデオンだけだが、人を殺しているエーファはきっと天国には行けないだろう。


 これはやっぱり幻だ。最後の願望を叶えるためのエーファに都合のいい幻。


「リヒトシュタイン」


 彼の長い黒髪をくるくる指に巻き付けて遊びながら名前を呼ぶ。これが本当に最後かもしれないから。黒髪を巻いた指ごと自分の唇に当てる。

 彼と歩いた白い砂浜やイーリスの花が脳裏によぎる。海水の味も反射した光も、生暖かい風も。


「あなたと一緒にもっと生きたかった」


 そう口にすると世界が回った。黒髪を巻いた指はエーファの口元にあるままだ。でも目に入る光景は全く違う。目を何度か瞬いた。


「勝手に死ぬつもりか? それともセミのように飛んで逃げるのか?」


 エーファを組み敷いて、金色の目が真上から見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る