第4話

 エーファが目覚めたのかと興奮した気持ちが一気にしぼむ。

 手をかざして振ってみてもエーファからは反応がない。意識は戻っているが治癒魔法は大して効かなかったのかと呆然としていると、宙をかいた腕がリヒトシュタインの手に触れて掴んだ。彼女の口角が悪戯っぽく少し上がる。


「暗い」


 エーファが相変わらず文句を言う。暗くなんてない。こんなに明るいのに暗いと主張するのはエーファの目が見えていないことを示している。


「悪いな、人間。オルタンシアが治癒魔法を皆に使いすぎて寝ているから暗くても我慢してくれ。起こしたくない」

「あれ、陛下がいらっしゃるんですか? それなら暗いままで大丈夫です。オルタンシア様は治癒魔法が使えたのですか」

「そうだ」

「それは羨ましいです」


 言葉が詰まって何も言えないリヒトシュタインよりも先にルカリオンが口を挟んだ。さっきまでエーファが死んでも別にいいだろうと発言していたのに。怪訝に思って視線を向けると、胸元をさすりながら嫌そうな顔をされた。


「番紛いは効きましたか?」

「効いた。酩酊状態になる前に変な粉はかがないで済んだ。皮肉にもお前の番紛いのおかげで助かった」


 さっさと話を合わせろとばかりにルカリオンに睨まれる。


「それは良かった……と言っていいでしょうか」

「俺が飲むと決めたのだからいい。さて、俺はまだ仕事が残っているからもう行く。悪いが暗いままでも我慢してくれ」

「はい」


 ルカリオンは眠っているオルタンシアを抱き上げると、こちらを再度呆れたように睨んでから出て行った。


「リヒトシュタイン」

「……どこか痛むか。あの竜人が目を覚ましたらまた治癒魔法を頼んでみる」


 エーファが腕をぎゅっと握るものだから動揺して声が掠れてしまった。


「ねぇ、私の目ってもしかして見えてないの?」

「そんなことはない。今、真夜中なだけだ」

「でも全然暗闇に目が慣れないんだけど。リヒトシュタインの金色の目も見えないし」


 片手で腕を握ったまま、もう片手がリヒトシュタインを探すように宙を彷徨う。その手を取って唇に当てた。


「くすぐったい」

「俺はここにいる」

「やっぱり、私の目は見えてないでしょ」


 エーファの指がどこに触れているか分からないからか恐る恐るといった風に唇を撫でる。彼女の手の甲の黒い鱗が増えていた。自分の鱗は見慣れているはずなのに、エーファの手の甲にある鈍く光る小さなびっしりした鱗に恐怖を覚える。


「明日、治癒魔法をかけるから。そうしたらすぐ治る。必要ならあの人間を連れてきて治癒魔法をかける」

「え、スタンリーなんて呼ばないでよ。二度と会いたくないから」


 嘘はもうつけなかった。エーファの両手をつかむと、懇願するように自分の額に当てる。


「こんなことになるなら、お前を早く自由にしてやるべきだった」

「お前って言われるの嫌い。あと、私はちゃんと自由だから」

「こんなになって……俺のせいだ。俺の魔力のせいでエーファの体が悲鳴を上げている。鱗が浮き出ているのも俺の魔力と反発しているせいだ」


 番ったら魔力の交換が起きることなど少し考えたら分かったはずなのに。エーファは母じゃない。母はエーファではない。母は精神から病んでいったから思いもよらなかった。自分の無駄な強さも大嫌いだったから、どれほど自分の魔力でエーファに負担がかかるのか考えもしなかった。


「ねぇ、リヒトシュタイン」

「エーファはあのオオカミに奪われた自由を取り戻したかっただけだったのに……俺が余計なことを」

「余計なことって私がした記憶しかないんだけど」

「エーファと一緒に居続けなければこんなことにはならなかったはずだ」


 自分でも支離滅裂な自虐を言っているのは分かっている。番紛いを飲んでも番わなければ良かったのか。そもそも最初の出会いから間違っていたのか。


「エーファに番紛いを教えた時から間違っていたのか。どこから俺は間違ったのか分からない」


 今朝起きた時、こんなことになるなんて誰が考えただろう。明日も明後日も普通にやってくると思っていた。母の時とは違うと信じたかった。そもそも、母は物心ついた時からずっと死の香りがした。だから取り乱して泣くことなんてなかった。でもエーファは、エーファは違う。


「俺は何も変わっていない。母さんにだって何もできなかった。俺は少しも成長できていない。強い魔力を持っていてもエーファに何もできない。俺が強い魔力を持ってしまっているからエーファは」

「ねぇ、リヒトシュタイン。聞いて」


 エーファは無理矢理手をほどくと、リヒトシュタインの黒髪を引っ張った。もう片手でリヒトシュタインの頬を触る。髪に触れるまでに何度か彼女の手が空を切ったが、避けなかった。


「泣いてるの?」

「泣いてはいない」

「番紛いを飲ませた時も泣いてたじゃない」

「あれは例外だ」


 血を吐いて、目も見えない絶望的な状況のはずなのに。エーファの声と表情はからかいを含んでいる。髪をさらに引っ張られてエーファに近付いた。彼女は目が見えていないから絶妙に視線が合わない。首か胸元辺りに彼女の視線は向いている。


「私に全部預けてくれたんでしょ」


 一瞬、何を言われているか分からなかった。やがてある記憶に思い当る。


「あれは……」


 あれは裏切らないと示すための誓いだ。


「だから、最後まで裏切らないで」

「当たり前だ。命を懸けて愛してくれと言ったのはエーファだろう」


 見当違いな首あたりを見つめながら、エーファはゆったり笑う。いつもの反抗心に満ち満ちて快活な彼女らしくないその様子に焦りが募る。


「最後なんて死にそうなセリフは言わないでくれ」

「ギデオンが追いかけてきた時に、助けに来てくれてありがとう」


 さらに髪の毛を引っ張られて、距離がまた近付いた。人の髪の毛を掴んでいるくせに一切の手加減はない。エーファのライトグレーの目と視線はなかなか合わないが、彼女に悲壮感はない。

 それが余計に焦りを生む。ずっと慣れ親しんだ死の足音が近づいている気配がする。


「エーファ」

「スタンリーに裏切られた時、無理矢理にでも虹の谷に連れて行ってくれて、ありがとう」

「もう、喋らなくていい。喋らないでくれ」

「もう一回イーリスが見たい」

「治癒魔法をかけたらまた一緒に行こう。だから、頼むからもう変なことは言わないでくれ」

「リヒトシュタイン。聞いて」


 頬にあったエーファの指がリヒトシュタインの涙に行きついて、拭う。エーファの手を取って痛くない程度の力で握りしめた。いつの間にか夕陽は沈んで部屋は暗くなっていた。


「やっと分かったの。私はリヒトシュタインの番になれて良かった」


 耐え切れなかった。泣きたくなどないのに、母の時も泣かなかったのに涙がとめどなく出てくる。


「死なないでくれ。一緒に死ぬことでも、何でもするから。お願いだから」


 バカみたいに悲痛な声が喉から出ている。番紛いを飲んだからとか、感情が作られたものだとかそんなことはもうどうでもいい。


「俺を一人にしないでくれ」

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