第2話

「これはなんだ」

「ドーナツ。買ってきて積んでみたの。昨日よく食べてたから好きなのかと思って」

「見ていたのか」

「誕生日に欲しいものないって言うから。好きそうなものにした」


 誕生日を祝いたいのに、リヒトシュタインは欲しいものなどないと言ったのだ。昼間に店をいくつも回っても何も欲しがることがない。

 勝手に買うこともできたが、リヒトシュタインのことがまだよく分からないので思いとどまった。なんといっても相手は竜人だ。人間相手の常識では通用しない点が多い。


唯一ドーナツは他のものよりもよく食べていたから多めに買っておいて、皿に積んでいる。


「しかもこの宿はどうしたんだ。高いんじゃないのか」

「これはね、ドラクロアから出る時にギデオンから盗んできた物品を売ったお金を使ったの。だから心配ない」


 今日泊まるところは高級宿にした。奮発したのだ。久しぶりに広いお風呂に入りたかったのもあるけれど、ギデオンに関連したお金は一気にさっさと使ってしまいたかった。ずっと持っておくのもなんだか縁起が悪い。


「今日のエーファは積極的だな」

「なんでそういうことになるの」


 感心したように部屋を眺めていたリヒトシュタインはにやりと笑ってエーファを引き寄せた。腕を叩いたが、そのまま膝の上に乗せられる。

 番紛いを飲ませて以降、こんなに距離が近づいたことはなかった。昼間のダンスは別として。


「平気で俺の膝の上に乗ってきているのに?」

「あなたが今乗せたんでしょうが!」

「でも下りないだろう」

「じゃあ膝から下りて欲しいの?」

「いいや」


 しっかり腕で囲い込んでおいてよく言う。


「エーファがこんなに小さくて細かったことに驚いている」

「失礼ね」

「今まで大きく見えていた。こんなに細い手足と腰でドラクロアから逃げ出したのか」

「デブに見えてたってこと?」

「それは違う。いつも自信があるようだったから大きく見えていた」


 腰に回された手をぺちぺち叩くと、リヒトシュタインは笑った。至近距離で笑顔を直視できなくて目を伏せる。


 エーファは小さい頃からスタンリーと一緒にいて、基準がスタンリーしかいない。スタンリーとこんな距離になっても慣れていたからドキドキしたこともなかった。でも、リヒトシュタインとはどんな距離でいたらいいのか分からない。


「これが誕生日というものか」

「欲しい物があったらプレゼントしたのに。お金の心配をしてるなら軍の給料がまだ残ってる」


 触れている部分から体温が伝わってきて居心地の悪さを感じながら会話に集中しようとするが、リヒトシュタインはそこで会話をやめてしまった。黙って片手でエーファの髪の毛をいじり始めたので身がすくみそうになるほど居心地が悪い。


 耐え切れなくなって口を開いた。


「もう下りてもいい? 私たちはこういう関係じゃないでしょ」

「じゃあ、どういう関係なんだ?」

「それは、その。ニセモノの番よ」

「ニセモノでも関係ないだろう。一緒に過ごすうちにやがて本物になっていく」


 そうなのだろうか。あの時決めたはずなのにグラグラ揺らいでいる自分がいる。いざ、一緒に生きていくといってもどうしていいか分からない。


「エーファが好き嫌いは関係ないと言った。だからニセモノもホンモノも関係ないだろう。俺たちが決めたんだ」

「そう言われたらそうだけど……」

「もしかして、俺を弄んだのか。あんなに死にたがっていた俺を番にしてまで。エーファは恐ろしい女だ」


 わざと傷ついたように話すリヒトシュタイン。また彼の腕を叩いた。


「違うってば」

「何が違う? あの時は状況が状況だったが。今は俺の誕生日を祝うために同室に泊まり、膝の上にまで乗っておいてニセモノの番だのこんな関係じゃないと言い出す」


 スタンリーとは幼いころから同室で同じベッドに寝ていたのでその延長だったのだが、そんなことを言える雰囲気ではない。言ったらマズイことくらいはエーファでも分かる。


「しかも、この状況で平気で他の男のことを考えている」


 指を掴まれそのままパクリと口に含まれたので、慌てて手を引き抜いた。


「考えてない!」

「顔を見ていたら大体分かる。俺にとって不快なことは特に」


 仕方ないじゃない。だってスタンリーとは幼馴染で、一緒に育ってきたようなものだから。


「命を懸けろと言っていたのに、その他は意外とポンコツだな」

「仕方がないでしょ。恥ずかしいんだから」


 だって、ずっとスタンリーと結婚すると無邪気に信じていた。あとは魔法に夢中だった。他の誰とも付き合ったことがない。


「正直、この状況は期待するしかないんだが。俺はよく我慢している方だ」

「長生きしてるんだから年の功でしょ」

「やっぱり、俺はエーファに弄ばれてないか?」


 リヒトシュタインはそう言いながらエーファを囲い込んでいた腕を放した。居心地が悪かったのでチャンスだとばかりに立ち上がって距離を取る。

 リヒトシュタインはそんなエーファを見つめながらテーブルに肘をついて気怠そうにしていた。もしかして、誕生日を祝うなんて彼にとってはどうでもよかっただろうか。無理矢理エーファの自己満足に突き合わせてしまったかもしれない。


「誕生日、気に入らなかったなら謝る。もっとリヒトシュタインの好きなものにするからやり直そうか」

「いや、そうじゃない。誕生日を祝うとはこういうものかと今日初めて知った」


 彼は首をゆるゆる振ると、ドーナツに手を伸ばして口に運ぶ。


「これは何度食べても面白い味だ」


 気遣われているような発言に気まずくなって、エーファは腕を組んで視線をそらした。空回りしている。スタンリーの誕生日は簡単だった。エーファの誕生日と近かったからセットで祝っていた。一人で準備や計画しなくて良かったツケが今更になって出てきている。


 どうして私はリヒトシュタインの誕生日を祝うことに固執したのだろう。まだ彼のことなど全然分からないのに。


 番紛いを飲ませて以降、二人きりになるとなんだかギクシャクする瞬間がある。エーファだけが。


 いっそ記憶喪失になってしまいたい。

 リヒトシュタインにみっともなく縋って、一緒に生きてくれと言ったのにそこかしこにスタンリーとの過去が蘇ってきて邪魔だ。すべてなかったことにしてしまいたい。そうすればこの漫然とした恐怖心も消えるんじゃないだろうか。


「エーファは悪くない。あの時は仕方なかったんだ。急に殺せなんて言われて混乱しただろう」

「仕方なくなんか、ない」


 エーファの迷う心を見透かしたリヒトシュタインの発言に顔を上げた。


「大丈夫だ。気に病まなくていい。全部仕方がないことだったんだ」

「やめて」


 何を言い出すのか。エーファの声は思わず震えた。


「責任を感じる必要はない。毒か番紛いかしか方法がなかったのは分かっている。それで殺す判断がつかずに材料まで揃っていた番紛いを飲ませたのは仕方ない」

「私の命を懸けた選択を仕方がないで済ませないでよ!」


 リヒトシュタインがドーナツを食べ終わって指を舐めながらこちらに視線を向けてきた。エーファの心も声も乱れていたが、彼の金色の目は穏やかだ。


「あの時、エーファは後悔するかもしれないと言った」

「あの時はあなたを失うのが怖かった」


 そう、怖かった。世界にたった一人で取り残されそうで。


「でも、今は別のことが怖い。どんな魔物と遭遇した時よりも怖い」


 普通の宿にすれば良かった。こだわってバカみたい。そうしていれば外の音が聞こえて、こんな静かな環境でリヒトシュタインと向き合うなんて怖いことをしなくて済んだのに。


 リヒトシュタインが唇を拭い、立ち上がって近付いてきた。体が震えるが何とか踏みとどまる。彼の指が伸びてきて頬を撫でた。


「俺があの嘘つきで情けない男のようにエーファを裏切るかもしれないことが?」

「……そうよ。これはリヒトシュタインの問題じゃなくて、私の問題だから。私が悪い」

「裏切らないと誓ってもきっと信じないだろう」


 組んでいる腕にどうやっても力が入る。

 こんなにも彼とギクシャクしているのは恐ろしいから。距離がこれ以上近付いたら裏切られるのがさらに怖くなる。今なら裏切られてもまだそれほど傷つかない。本能的に分かっている。


 スタンリーとお別れしてから少し時間が経ってもまだ心の傷が塞がらない。次に裏切られたら、エーファはもう立ち上がれない。両足をもがれた方がマシだ。足があっても絶対に立ち上がれない。


「あまり噛みしめるな」


 無遠慮に唇に指が差し込まれる。知らず知らずのうちに唇を噛みしめていたようだ。


「ごめん」

「感情をぶつける相手がいるのはいいことだ」


 抱きしめられて頭に顎を乗せられた感触がある。顎の骨が当たって地味に痛い。


「俺にはそんな相手がずっといなかった。病んでいる母にぶつけるわけにもいかない。抑圧するしかない」

「うん」

「俺も今は怖い。発情をいつコントロールできなくなるか分からないし、エーファを母のようにしたくない」

「そんなにコントロールできるものなの?」

「おそらく番紛いにエーファが血液を入れたからだ。血液には魔力が色濃く宿る」

「うん?」

「あれを飲んだ時点でエーファの魔力が俺の中に入った。それで今のところ発情が抑えられているんだと思う」

「そんなつもりはなかったんだけど……」

「それは分かっている。あくまで推測だ」


 怖くて冷たかった指先が少し温かくなった。


「後悔しないように約束をしよう。ドラクロアに戻る前に」

「どんな約束?」


 両肩を掴まれてやっと顎が離れた。金色の目は相変わらず穏やかで、発情を我慢している様子には見えない。


「俺のすべてをエーファに預ける。一度は預けたようなものだが。俺に愛されていないと感じたら殺すといい」

「殺そうとしたらリヒトシュタインも今度は抵抗するだろうし……そんなの無理だよ」

「毒なら飲もう。刃なら心臓に受けよう」

「そんなことをしなくっても」

「知らなかった。どうでもいいこの世界でこんなに大切なものができるとは」


 エーファの髪を彼は掬い取る。かがんで髪の毛に口づけられて、刺激などないのにまた体が震えた。大切なものが何を示すのか、具体的に言われていないのに分かってしまったから。


「そんな風に本当に思ってるの?」

「エーファはまだ迷っているようだった。だから、態度に出さないようにしていた。年の功があるからな」


 さっきの自分の言葉が返ってきたので思わず笑う。


「それは番だから?」

「エーファだからだ」


 また体が震えた。でも、明らかにさっきの震えとは違う。きっと欲しかった言葉だからだ。番に最も縛られているのはリヒトシュタインでもギデオンでもなくて、エーファなのかもしれない。

 番に縛り付けられ、愛に追い詰められている。


「きっと俺たちは同じ痛みを持って生まれてきたんだ。出会うべくして出会った」


 金色の目を再度見上げる。穏やかな色の奥に、先ほどは見えなかった焚火のように温かな感情を見つけてまた恥ずかしくなった。


「エーファは、あの時に俺を脅したと思ってないか?」

「……そうかもしれない。無理矢理、私に付き合わせて生かしたんじゃないかと思ってる」

「それはない。それなら番への衝動がおさまった後で自死している。竜人が言いなりになることはない」


 そんなことを考えていたのか。驚いて唾を飲み込む音が響いた。


「俺がまだ死んでいないのは……大切なものを見つけたからだ。俺たちはきっと、自分たちの意志で番になるために生まれてきたんだ」


 額に唇が降って来て、徐々に鼻へ移動してからやがてエーファの唇に下りて来る。ゆっくり目を閉じた。まるで痛みを分け合うようなキスだった。

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