第5話

 空間魔法で作っていた空間から抜け出す。エーファの作業が終わるまで、リヒトシュタインは新たな鱗を剥ぎながら待っていた。彼の腕からは絶えることなく血が垂れている。その痛々しさにエーファは顔を歪めた。


「そんな顔をするな。申し訳ないとは思っている」

「私を人殺しにすることが?」

「竜人殺しだ」


 エーファはリヒトシュタインを少し睨んだ。思ったよりも全身に力が入らないので迫力はないはず。

 リヒトシュタインが手を伸ばしてきたので、脱力感に襲われながら手に持っていた液体を渡して側に座り込む。


「キョウチクトウの花言葉を知っているか」

「私、花言葉に興味はないから」

「だろうな。『用心』『油断大敵』」

「すべての部分に毒があるから花言葉まで物騒ね」


 リヒトシュタインは手にした無色透明な液体を呷った。


「そして『危険な愛』」

「花言葉でまで愛に振り回されなきゃいけないの? もうウンザリなんだけど」

「別に泣かなくてもいい」

「泣いてない」


 ぼたぼた流れる涙は拭ってもまったく止まってくれない。


「これから俺が死ぬのに何か言っておくことはないのか。最後だぞ」

「恨み言ならたくさんあるけど」

「ははっ」

「遺言ならあなたが言うべきでしょ」

「それもそうか」


 まだリヒトシュタインは番への衝動を耐えるように爪を食い込ませているが、震えは止まっている。


「エーファが、番だったら良かった」

「冗談? それとも本気で言ってるの?」

「今から死ぬのになぜ嘘を言う必要がある」

「もしそうだったらギデオンは来なかったってことになる。私はスタンリーと結婚してただろうから、結局今みたいになるだけじゃない」

「じゃあ、大丈夫だ。俺は母が死ぬまでドラクロアから出ないし、ヴァルトルト王国に行くこともないからそもそも俺たちは出会わない」


 彼の荒い息が少しおさまってきた。


「エーファも何か言え」


 しばらく視線を彷徨わせて考えた。

 一緒にいたようで大して知らない竜人。最初からエーファのことをセミにたとえた。番紛いについて教えてくれて……情報としては間違っていたけれど。エリス様が亡くなってから会っていなかったが、突然現れてスタンリーを助けてくれた竜人。ここまでエーファを連れて来てくれた人。


「私は……今日の選択を後悔するかもしれない」

「俺にとっては正しい選択だ」

「私、スタンリーを失って正気じゃないから。愛を見失っているし、愛が何かも分からない。自分のことも何も分からない。愛に命を懸けたのに、スタンリーからは同じものが返ってこなかった」


 エーファが目を伏せていると何かを感じたらしい。リヒトシュタインは一気に怪訝そうな雰囲気になった。握りしめて血だらけになっていた手を開く。


「前は簡単に命を懸けられたのに。今は怖い」

「エーファ。俺に何をした」


 エーファは唇を噛んで口調の乱れたリヒトシュタインに視線を向けた。疑惑に満ちた金色の目がだんだん驚愕に彩られる。何が起きたか悟ったらしい。


「まさか」


 エーファの涙はまだ止まらない。なぜだかずっと止まらない。落ち着くために鼻をすすって息を吐く。涙は止まらないから結局意味はない。


「クソッ! 自分が何したか分かってるのか!」


 暴れそうな雰囲気なのでリヒトシュタインの体をもう一度魔法で拘束する。だが、すぐにブチブチと音がして簡単に破られた。


「飲んだのは、リヒトシュタインでしょ」

「キョウチクトウの毒だと思っていた! でもまだ死んでない! 毒が回る気配もない。まさか、俺に飲ませたのは」

「だから、リヒトシュタインが飲んだの。私が無理矢理飲ませたわけじゃない」

「……俺に渡したのは……まさか」


 拘束を完全に解いて起き上がったリヒトシュタインに勢いよく両肩を掴まれる。すぐ目の前に金色に輝く目があった。エーファは視線も顔もそらさずに彼を見つめ返す。


「番紛い。材料が残ってた。一度作ってるから二度目はより簡単だった」

「中に。材料の他に、何を入れた」

「私の血液と髪の毛を」


 言葉が終わる前に押し倒されてリヒトシュタインに首を絞められかけた。


「その意味が分かってるのか! これじゃあ、お前!」

「お前呼びは嫌い」

「今それどころじゃないだろ! 血液なんて!」


 リヒトシュタインの手には本気で力が入っていなかったので、すぐに払いのけた。エーファの涙は止まらないが、彼まで泣きそうな表情をしている。


 仕方がなかった。エーファだって寸前までキョウチクトウの毒を彼に渡すつもりだった。空間に体を突っ込んで、視界の端に存在を忘れていた番紛いの余った材料を見つけるまでは。


「きちんと分かってるのか。俺の番になるんだぞ」

「番紛いについては説明されたから知ってるし、分かってる」


 リヒトシュタインはまた震えながら、エーファの首筋に顔を埋めた。


「まずい。さっきみたいな番の香りがし始めた。血液なんて入れるから……エーファに魔力があるから余計に効きが強い」

「じゃあ成功だったわけね。材料は少し前に採取したものだけど、空間魔法で鮮度は大丈夫だったみたい」


 彼の黒髪が口に入りそうになるので手でよけたが、上からはどいてくれない。


「なんで……こんなことを。俺は、他の誰でも……お前だけは、絶対母のようにはしたくなかったのに」


 リヒトシュタインが体を起こす。長い黒髪が落ちてきて周囲の光景を遮った。一緒に雨まで落ちてくる。いや、これは彼の涙だった。


「さっきあの女性のために死のうとしてたじゃない」

「あれは、エーファがいたから耐えられた。もちろん脳裏に母もちらついていたが。いなかったらとっくに父と同じことをしていた。エーファなら殺してくれると思った」


 リヒトシュタインの流す涙が立て続けにエーファの顔に当たる。その度に不思議なゾワゾワする感覚が這い上がってくる。


「私がエリス様と同じになるわけないじゃない」


 不思議だ。

 なぜギデオンの「愛してる」よりもリヒトシュタインの言葉に愛を感じるのだろう。エーファを振り回し続けた「愛」という言葉は一言も入っていないのに。


「私がただ泣き暮らすわけない。ドラクロアから逃げ出して、結局ギデオンを殺したくらいなのに」

「頭では分かっている。それでも怖い」


 リヒトシュタインが額を擦りつけてくる。視界のすべてが彼と髪に覆われて、横を見てもどこからが自分の髪でどこまでがリヒトシュタインの髪なのか区別がつかない。


「あのまま殺してほしかった。父のように情けなく最低な奴になりたくなかった。なぜ番紛いなんか……」

「ギデオンにもスタンリーにも死んでほしいと感じた瞬間があった。でも、あなたには死んでほしくなかった」

「……番紛いのことを、伝えなければ良かった」


 苦しそうなリヒトシュタインの顔が間近にあり、金色の目からは涙がまだ落ちてくる。お互いの息遣いと体温をはっきり感じる距離。でも、死の足音が聞こえる気がした。


 リヒトシュタインの髪の毛をかき分けたら、すぐそばに死が迫っている気配がする。手を伸ばしてリヒトシュタインの頬を包み込む。


 エーファの手も震えていた。


「私だって怖い。誰かを愛してまた裏切られるのが」


 このままリヒトシュタインの金色の目を見つめていると、世界に二人きりで置いていかれたような錯覚を起こしそうだ。


「ただ、あなたに死んでほしくなかった。そもそも、中途半端に私を助けて先にさっさと死ぬなんて卑怯でしょ」

「そんな卑怯なつもりは微塵もない」

「じゃあ、ずっと私の側にいて」

「……そんなに俺のことが好きだったのか」


 リヒトシュタインは苦し気な表情で呆れたような口調になる。


「好きとか嫌いとか、もうどうでもいい」


 あんなに好きだったスタンリーへの想いは、もうひっくり返って戻らない。好きで結婚しても別れる人達だっていっぱいいるじゃない。


「怖くてたまらない。でもあなたのことは好き嫌いの前に、信じてる」


 金色の目が探るようにエーファを見た。


「だから、私と一緒に生きて。命を懸けるほど私を愛して。もう、裏切らないで」


 涙がやっと止まった。怖いけれど止まった。頬に当てていた手から力が抜けて今度はリヒトシュタインの服を掴む。


「私はあなたに番紛いを渡す前に決めたから。リヒトシュタインは今、決めて。私と愛を知っていく気があるのかどうか」


 リヒトシュタインはしばらくエーファを見つめていたが、やがて観念したように息を吐いて目を閉じる。


「俺の番は普通じゃなかった。狼煙を上げる人間だと口にしたのに忘れていた」


 リヒトシュタインの顔が再びエーファに近付く。


「呪いのような番という存在が愛に変わるだろうか」


 口の中を切っていたのか、今回のキスは血の味がした。死の足音はもうしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る