第七話 「シュレディンガーの蝉」


 蝉が鳴いている。


「お帰りなさい、マトウくん」


 白い箱がある。私は自席の椅子に座り、箱を見つめる。部長は席で書類に目を通す。紙が擦れる音と、鳴く声が聞こえる。部長は席を立ち、私に背を向けて窓の外に視線をやった。しばらくは無言のまま外を眺め、耳をすませた。それから、部長はこう言った。


「蝉が鳴いてるね」


 私は箱の中身を知らない。


  * * *


 “死者に再会できる”--、という不思議が存在する次元がある。当該次元に遷移した私を出迎えたのは、灼熱だった。

 次から次へと吹き出る汗を拭い、私は目的地を目指す。手元の地図によると、後三十分ほど歩けば到着する距離だ。


 土地は農地がほとんどだが、たまに民家が現れる。ひと里から離れるにつれ、雑草が伸びた土地が増え、民家と民家の間隔が伸びた。遠くにはなだらかな稜線の山々が見える。

 目的地に向かって真っ直ぐ続く道を行く。太陽が頭上から強く照りつけ、全てを照らす。地面に生える草花、道の端の木々、蝶やトンボが悲鳴をあげる錯覚を起こす。


 私の手に、木の薄い棒に刺さった氷菓子がある。道中の商店で購入した。木造平家建ての、小さな店だった。冷たい食べ物はあるか、と私は訪ねた。店主は、この氷菓子を自信満々に店の奥から持ってきたのだった。濃い茶色の木製の冷蔵庫--上下二段に分かれた構造で、上段に氷が入る--から取り出した瞬間から、表面がすこし溶けていた。店主に代金を払い、菓子を口に運ぶ。長方形に整えられた甘い氷が、私を冷やした。


 氷菓子は徐々に小さくなる。私の体内に入る分と、ポタポタと垂れる分。空いた手で体を仰ぐが、風はぬるく、涼をとれない。道の端に巨大な木を見つけ、私は木陰に入ってしゃがみ込んだ。汗のせいで服が全身に張り付き、不快だ。俯くと、鼻や顎から汗が絶え間なく地面に落ちた。

 木陰は、ひなたよりは幾分か涼しい。残りの氷菓子を口に運ぶ。休息により、私の精神に余裕が生まれた。そして気づいた。


 蝉が鳴いている。鳴き声からして数多の種類の蝉が、鳴いている。罰と幻想するような太陽の熱を受けながら鳴く。暑さで思考が停滞する。蝉が鳴く。そのひとつのことで脳が埋まる。


 最後のひとくちが、地面に落ちた。氷菓子は瞬時に溶け、黒いシミを作る。気がつけば、蟻の行列ができていた。私は視線で蟻を辿る。列は途中、二股に分かれる。私の足元に続く列と、蝉の死体に続く列。蝉は腹を見せ、静かに横たわる。生前、この蝉もひたすらに鳴いていたのだろう。


 蝉が鳴いている。姿は見えないが、声は耳に届く。私は立ち上がり、目的地に向かって歩き出した。


  * * *   


 三途屋、と極太の文字が看板に躍る。ようやく到着した。汗が全身に張り付き、意識が朦朧とする。玄関の扉は木製両開きで、それぞれの戸に金属の輪っかが付いていた。手で輪っかを掴み、扉に打ち付けた。鈍い音が響く。

 誰かが出てくるのを待つ間、私は玄関から数歩離れ、建物全体を観察した。


 広大な正方形の敷地を、木の塀が囲う。細長い板を並べた造りの塀だ。手入れが行き届き、塀には小さな穴ひとつない。塀の門扉は、母屋の玄関から数歩の距離にあった。母屋と塀の間に余裕は無く、ヒトひとりがやっと通れるぐらいだ。

 門扉をくぐってすぐの玄関の上部に、看板が鎮座する。長寿の木を切り出した板に、黒く太い文字で、”三途屋“と書かれている。板の上下左右は自然の形状を生かして波打つ。


 木造四階建ての母屋は敷地の中央に位置する。各階に窓が等間隔に並ぶ。金属の鉄格子が窓の外側に据え付けられていた。

 一階の正面は窓が無く、玄関だけだ。裏手に回ろうと、塀と建物の隙間を進む。狭い空間で暑さが増幅される。視界に入るのは、壁と塀と足元の草のみだ。 壁の端まで辿り着いた。しかし、方向転換しようにも金属の網が行く手を阻む。数多の鋭利な棘が網に巻きつく。裏手を調べるのは一旦諦めた。網の向こうに、建物の壁と塀が見える。建物正面同様、一階部分の壁に窓が無かった。

 私は玄関に戻る。塀が、道に細い影を落とす。影に体を押し込める。さっきの商店で氷菓子をもっと買っておけばと後悔した。


 ほどなくして、玄関の戸が開いた。私は顔を動かし、塀から玄関を覗き見る。白い服の初老の女性が玄関の方を振り返る。女性の前に、ふたりのニンゲンが立つ。ひとりは老婆、もうひとりは青年だ。

 ハンカチで顔を抑え、女性はふたりに向かって頭を下げた。


「この度は本当にありがとうございます。おかげさまで先日亡くなった夫に……、ごめんなさい。私ったら……」


 涙を流しながら、礼を言う。老婆は女性の背中をそっとさすった。隣の青年は無表情に、老婆と女性の様子をじっと観察する。女性は嗚咽混じりに続ける。


「生前そのままの夫でした。いつも見ていた姿で……。声も変わらずで……、迷っていたけど、すぐ三途屋さんに来てよかったわ。お世話になりました」


 老婆と青年に見送られ、女性は三途屋を後にした。彼女の手元には、額に入ったモノクロの肖像画。肖像画の男性は穏やかに笑う。装飾が豊かな日傘を差し、女性は灼熱の中に消えた。


 杖を片手に、老婆が門扉をくぐる。塀の影に隠れていた私を見つけた。


「あらアナタ、お客様だね。遅くなってすまないね。中へお入り」


 柔らかな笑みを顔に貼り付け、老婆が言った。青年は表情を変えないまま、視線を上下に動かした。彼は検分するかのように、私の頭の先から爪先までをじっと見る。青年が、自らの手を体の横から後方へと動かし、中に入れ、と合図する。私は素直に従った。ふたりの脇を通り、建物へ入る。老婆と青年、それぞれが腰に刀を差していた。


  * * *  


 土間で靴を脱ぎ、座敷に上がる。壁沿いに靴箱がいくつも並ぶ。ほとんど使用中のようだ。青年がこちらへどうぞ、と空の靴箱を指す。靴を入れ、扉に差し込んであった木の鍵を抜いた。


「鍵はお預かりいたします」


 青年がこちらに手を差し出す。私は、彼に鍵を渡した。建物内は外と対照的に涼しい。汗がひき、体温が徐々に下がる。玄関を入ってすぐの廊下は、三手に分かれる。左と右と奥の三つだ。建物の外観から推測するに、左右に部屋なり何かしらの空間があるはずだ。しかし、扉が左と右にひとつづつ鎮座する。扉にかかった金属の重厚な鍵は容易に突破できそうにない。

 視線を廊下の奥に移す。上階に続く階段がある。階段の裏は、全面ガラス張りの壁だ。ガラスの外、幹の太い木が地面を覆いつくすように生える。木のさらに奥に中庭があるようだ。蝉が鳴いている。

 

「さあ、こちらへどうぞ」


 杖を支えに、老婆は階段を上る。私は彼女を追いかけた。背後で、ガラリと扉が開く音がした。階段の途中で振り向くと、ちょうど、ひものついた札を手に、青年が外に出るところだった。青年は札を扉の外側に引っ掛け、中に戻った。玄関の扉に、内側から鍵をかけた。


「あの札は?」

 

 私は老婆に聞いた。


「受付終了を知らせる札ですよ。おかげさまで大盛況で、準備が追い付かないの」

「準備ですか」

「ええ。ワタクシたちふたりでやっているものですから。ときおり、受付を止めないと十分に対応ができないの。さ、お部屋に案内しますよ」


 青年は靴を脱ぎ、階段を上る。前は老婆、後ろは青年に挟まれて、一段一段移動する。前後のふたりをちらりと確認する。ふたりとも、腰に刀を携える。下手な素振りを見せれば、問答無用で切られてしまうかもしれない。しばらくは、彼らの指示におとなしく従おう。


 二階に着いた。老婆は無言で上階を目指す。老婆から離れないように、廊下を一瞥する。細長い廊下に扉がずらりと整列する。窓を通じて、夏の光が廊下に届く。光は、鉄格子の影を作った。それぞれの窓に網目の鉄格子がかかる。蝉ぐらいならどうにか通過できそうな目の大きさだ。

 三階を過ぎ、老婆は四階を目指す。三階の廊下も二階と同様だった。


 最上階の四階に到着した。階段を背に、老婆は左へ歩く。四階の廊下にも鉄格子の影が落ちる。


「こちらが、ご滞在いただくお部屋でございますよ」


 階段に一番近い部屋だ。老婆に続いて、部屋の中に入った。いぐさが香る部屋を見渡す。簡易な浴室、便所、洗面台が設置してある。部屋の隅に、折りたたまれた布団。中央に座布団と机。窓から降り注ぐ日の光によって、部屋は明るい。廊下同様、窓の外に鉄格子があった。青年が窓を開ける。風が部屋を抜けた。


「お座りくださいな」


 老婆に勧められ、私は座布団に座った。老婆と青年が隣に座る。老婆は口角をわずかに上げ、ほほえみを私に向ける。青年は私をじっと観察する。頭から足の先まで、少しも見落とさないように。居心地が悪い。


「お客様。ここ、三途屋はどういう場所かご存知で?」

「死者と再会させてくれる場所とお聞きしました」

「その通りだよ。お客様は、お会いしたい死者がいるのかい?」


 問いに、あのひとの顔が脳裏に浮かぶ。


「はい」

 

 老婆は着ている物から、紙を取り出した。机に広げる。細かい文字が紙面に躍る。


「これは契約書でございます。今から読み上げますよ」


 契約書にすべて同意いただけるのであれば、適性試験を受けていただきます。

 試験の結果をもとに、死者様をご用意できるかできないか、判断いたします。

 試験では、死者様についていろいろと質問いたします。

 確実に死者様をご用意できるよう、質問には素直にお答えください。

 質問の答えがはっきりとわからない場合も、その旨をお答えください。 


 適性試験の結果、材料不足等の理由で死者様が用意できないこともございます。

 滞在中、お部屋からは出ないでください。

 滞在中、三途屋の者の指示をお聞きください。

 白い箱を開けてはいけません。中身を覗いてはいけません。

 上記に反すると最悪の場合、命を落とすこともございます。


「いかがなさいますか。ご長考いただいても構いませんよ」


 紙の横に、青年が筆と墨の入ったすずりを置いた。老婆は背筋を伸ばして、手を膝に置き、私の答えを待つ。紙の下部、署名欄は空白だ。私は筆に手を伸ばした。


「これでいいですか」


 筆を置き、紙を老婆に見せた。老婆は目を見開く。


「アナタほど、一切の迷いのない方ははじめてだ。どんなに決意が固い方でも、最後の一行でわずかでも迷うのですよ」

「はあ」

「それほど、死者様にお会いしたいということだね。ワタクシどもも、全力を尽くします」


 丁寧な手つきで紙を折りたたみ、老婆は紙を着ている物にしまいこんだ。試験の準備をしますからね、と老婆が告げる。老婆は青年に、”からくり箱”を持ってくるよう指示した。青年が部屋を出てすぐ、扉に鍵がかけられた。外から鍵をかけられる部屋だ。契約書の項目を思い出す。滞在中、部屋から出ないように。老婆の手前、直接確かめはしないが、おそらく簡単に開けられないような鍵であろう。窓にも鉄格子があり、外に出るのは難しそうだ。


「先ほどの青年は、お弟子さんですか」

「いえ、ワタクシの孫だよ」


 蝉が鳴いている。窓の外、中庭から大音量の蝉の声が聞こえる。中庭を確認したいが、不審な動きを見せるのは得策ではない。青年が戻ってくるのを、じっと待つ。


「そうそう、契約書に書き忘れていた約束がひとつあってね」

「なんでしょうか」

「孫が何かをアナタに見せるかもしれん。でも、何を聞かれても一切答えないでください。いいですかね」


 老婆は鞘を握り、つばを動かした。銀色の刃が鮮やかに光る。


「わかりました」

「ご理解いただけてなによりだ」


 音を立てず、刃は鞘に姿を消した。直後、外から鍵が開く。青年が部屋に入った。両手で大きな箱を抱え、ゆっくり歩く。彼は箱を窓のそばに置いた。


 箱の一辺の長さは、両手を軽く開いたほど。膝を抱えれば、ニンゲンがひとり入りそうな大きさだ。各面は木製で、側面から黒い線が多数伸びる。線の先に円盤状の電極が接続されている。それから、上面に、多数の計器がある。ガラスのふたの下、黒い針と等間隔の目盛りが見えた。針の振れを読み取る形式の計器だ。箱の隣に座った青年は、側面に張り付いた白色のつまみたちを調整する。


 手慣れた様子で、青年は電極を私の体に貼る。顔、首、両手足、みるみるうちに私は電極まみれになった。


「では、適性試験を始めますよ」

 

 老婆の合図で、青年はつまみを動かす。箱の前面に位置する円形の網目状の金属から、単純な音が出力された。蝉の声に負けない音量で、私の耳に届く。

 

「まず、死者様のお名前は?」


 名前に続き、性格、外見、声、口癖、動作の癖、さまざまな質問が投げかけられる。質問者は老婆で、回答者は私。青年は、からくり箱のつまみを操作する。つまみが動く度、箱から聞こえる音が変わる。操作の傍ら、彼は紐で綴じた筆記帳に計器の値を記録する。


 私はいかなる質問にも、すらすらと答えた。しばしば、青年の記録速度が追い付かず、質問と質問の間を取った。

 数十の問いに答えたのち、老婆が青年に、箱の電源を落とすよう指示を出した。からくり箱から聞こえる単一な音が止む。瞬く間に、蝉の声が部屋に充満した。ここにたどり着くまでの灼熱が蘇るようで、私は体が熱気に包まれた錯覚に陥る。


「これで、本日の試験は終了でございます」


 老婆が告げた。私は尋ねた。


「あのひとに会えるまで、どれくらい時間がかかりますか」

「そうだね……。最短でも一週間ぐらいかね」

「一週間、ですか」


 思ったよりも長い期間だ。蝉が鳴いている。活力にあふれた鳴き声とは反対に、私の気分は沈む。


「あの、なるべく早く会いたいんです。お手伝いできることはありませんか」


 雑用でもなんでもする、と食い下がった私を、老婆が諭す。


「お心遣いありがとうだよ。けどね、死者様の準備はワタクシしかできない決まりなんでね」


 青年は箱を抱え、部屋の外へ出た。老婆も部屋から去る。外から鍵がかけられた。彼らが廊下を移動する音が消えるまでじっと待つ。私は扉に近づいた。物音を立てないよう、内側からいろいろとやってみる。鍵が開けば、屋敷内を探索し、情報を集められる。が、扉はびくともしなかった。


 外に出るのはいったん諦めた。私は手帳を取り出し、座布団に座る。新しいページを開き、現時点での情報をまとめた。蝉が鳴いている。あまりにも大音量で、集中が途切れそうになる。


 手帳をしまい、窓に近づく。鉄格子の間から、ほかの階と中庭が見えた。私は、建物の造りを理解した。三途屋は、中庭を囲うように建つ。建物の中央部をくりぬいた部分に、中庭があるような構造だ。


 私に割り当てられた部屋は四階に位置するが、三階も二階も同じような窓が並ぶ。窓の外に鉄格子がある。一階は、宿泊室が無いのだろう。他の階より窓が極端に少ない。鉄格子もない。玄関の光景を思い出す。一階につながる廊下は扉で封じてあった。客が侵入する想定はしていないはずだ。


 次に、中庭に注目した。自然豊かな庭だ。中庭と建物の間に、木々が生い茂る。もし、一階に客が迷い込んでも、ガラス張りの壁から中庭を観察し、詳細を探るのは難しいと考える。蝉の鳴き声は、木々から聞こえるのだろう。蝉は懸命に鳴く。


 三途屋は、中庭をぐるりと囲むように建つ。さらに、中庭の中心、一部の区域を川が丸く囲む。川によって隔離された土地に、立方体の小屋が立つ。小屋は白い壁で、扉が前後に一枚ずつあるだけだ。窓は無い。川は小屋の周りを悠々と流れる。深そうな川だ。流れも遅くない。川幅は、泳いで渡るには広い。生身で渡れそうにない。白い小屋の扉からまっすぐ進んだ先に、橋がかけてある。橋を越えれば、白い小屋にたどり着くが、橋の入り口に金属の柵が立つ。柵は重厚な鍵で閉じられていた。


 適性試験を潜り抜けた者が、川を越え、白い小屋に案内され、死者と再会する。私はそんな予想を立てた。白い小屋を見つめる。ほかの階の窓に視線を移すと、うっすらとひとの影が見えた。みな、白い小屋を眺める。小屋の中で、死者と再会する瞬間を心待ちにする。


 他には、中庭の右上隅に大規模な焼却炉が見えた。年季が入っているが、まだ現役で稼働できそうな焼却炉だ。


 窓から離れ、私は中庭の情報も手帳に追加した。蝉が鳴いている。手帳にペンを走らせていると、だんだんと部屋が暗くなる。日が沈んだ。ガシャンと重い音が響く。私は窓に振り返る。金属の板が窓を覆い隠した。風は抜けるものの、外の様子が一切わからない。目隠しの板に、何か文字があった。近づいて確認する。暗闇の中身を覗くべからず、と忠告があった。

 金属板は経年劣化でひどくまだら模様だ。模様を生かし、目立たない場所に穴をうまく開けられないだろうか。どこに穴を開けるべきか、悩んでいると扉が数回叩かれた。


「お夕食です」


 青年の声だ。扉が開いた。食器を載せたお盆を持ち、青年が部屋に入った。青年は盆を机に置いた。相変わらず、彼の腰には刀が差してある。物騒だ。


「どうも、ありがとうございます」

 

 私は窓際から机に移動した。青年はまだ部屋の中で、私を見つめる。夕食をとろうと思ったが、どうにも食べづらい。青年は私の隣に座り、視線を動かして扉が閉まっているのを確認する。次に、彼は着ている物の中から封筒を出した。封筒から紙を取り出す。紙を私に突き付け、とても小さい声で、


「このふたり、ご存じないですか」


と耳打ちした。紙は肖像画だった。ニンゲンがふたり。鉛筆で精工に描いてある。男女が婚礼衣装で寄り添うように立つ。


「どんなささいなことでも良いんです。もし知っていたら、教えてください」


 老婆のコトバ、”青年に何を聞かれても一切答えない”、に従い、私はこう答えた。


「知りません」

「……あなたもですか」


 紙を封筒にしまい、青年はハアとため息をついた。彼はうつむく。老婆の言いつけを守り、ほかの客も同様に答えているのだろう。そもそも、私は紙のふたりを知らないので、”知らない”という返答は嘘ではない。

 失意のまま青年は立ち上がる。今度は私が、彼に疑問を投げた。


「私も聞きたいのですが、死者をどのように準備するのですか。詳しく教えていただけませんか」


 青年は首を振る。


「……僕は知りません」


 私が知らない、と言ったから彼も知らないと答えたのか。はたまた、ホントウに青年は知らないのか。考えをめぐらす内に、青年が部屋を去り、外から鍵をかけた。



 夕食を手早く済ませ、私はカバンから工具を出した。窓を隠す金属板に小さな穴を開けた。片目を瞑り、金属板に顔を近づける。視界が暗くなる。中庭には明りがほとんど無く、様子を確認するのが困難だ。

 めげずに穴を覗き続けた。誰かが中庭に現れた。青年と老婆ともうひとり。依頼者だろう。老婆が杖をついて歩き、橋の鍵を開けた。彼らは橋を渡り、白い小屋に入った。青年は小屋の外で警備をする。

 それ以外は特にめぼしい動きは無し。夜も更けたというのに、蝉が鳴いている。私は部屋に備え付けの簡易浴室で汗を流した。布団を敷き、床に就く。蝉の鳴き声を子守歌にして、寝た。



  * * *  


 二日目 朝。

 カラカラと何かが動く。その音で目が覚めた。瞼を開ける。視界が明るい。昇ったばかりの朝日が部屋を照らす。窓を遮る板が収納され、蝉の声がより大きく聞こえる。日が昇ると自動的に、金属板が開くようだ。今日も蝉が鳴いている。窓から風が入る。中庭へ強い光が射しこむ。外は暑いだろう。対して、建物内は涼しい。自然に風が抜け、冷房器具が無くても過ごせる温度だ。

 

 布団を畳んで、部屋の隅に積んだ。扉の前に立つ。押したり引いたり、様々なことを試したが扉が開く気配はない。昨夜、青年が夕食を運んできた。朝食も同様だろうか。私は扉に耳をくっつけた。足音が聞こえないか、と思ったのだ。足音の代わりに、扉が開く音と誰かの声が耳に届いた。


「ありがとうございました。おかげさまで、伝えたかったことを話せました」


 中年の男性だ。


「ご満足いただけたようでなによりですよ」


 続いて、老婆が喋る。男性は涙声で何度も感謝のコトバを口にする。玄関先で、彼らはやり取りを交わす。この部屋は、玄関先の物音が届く位置にあったようだ。


「生前の妻に伝えられなかったことがあって悔やんでました。妻はわたしのコトバに、うん、うんと頷いてくれました。どう感謝したらいいのか……」

「お客様のお力になれて、ワタクシどもも嬉しいです」

「お恥ずかしながら、ずっと泣いていたようで、妻がぼんやりとしか見えませんでした。再会できて本当に嬉しかったです。……あの、妻はこの後どうなるんですか?」

「こちらで丁重にお送りしますので、ご安心くださいな」

「お願いします。ああ、でもあの箱に、妻がいたのですよね。できるなら箱ごと、家に持って帰りたかった……」

「大変申し訳ございません。それは禁止されていますので」


 男性は三途屋を去った。他の会話も聞こえないだろうか、と扉に耳をつけたままにする。部屋の扉が叩かれた。扉の振動が、耳を通して頭に直接伝わった。この体勢だと怪しまれるに違いない。私は即座に扉から離れた。


「朝食をお持ちしました」


 青年が外から鍵を開けた。彼が持つお盆に朝食が載る。椀から白い湯気が昇る。


「ありがとうございます」

「昨日の夕食の食器をお下げします」

「お願いします」


 夕食の盆を青年に渡す。彼は背後の配膳用台車に盆をしまった。銀色で、車輪が四つついた台車だ。各段に空の食器が積んである。青年は扉を閉め、外から鍵をかけた。私は朝食をとった。

 

 朝食後、適正試験が始まった。老婆と青年が部屋に入る。青年がからくり箱を運び、窓際に置く。彼は昨日と同様、私の体中に電極を張り付けた。青年は帳面を二冊取り出した。大きさが異なる帳面だ。


「では、適性試験をはじめますよ」


 老婆が質問を投げかける。青年は箱の隣で音を調整しながら、計器の数値を記録する。小さい帳面に数値を書き込む。時折、彼は記録用とは別の、大きい帳面に鉛筆を走らせる。私は老婆に聞かれるまま、数十の質問に答えた。どれも、あのひとに関する質問だ。一日目よりも、質問が細かい。


「アナタ、本当に死者様をハッキリと覚えておられるね」


 感心したように老婆が言う。長年連れ添った夫婦や家族でさえ、答えられない質問も意外と多いのだとか。


 昼前。試験が終わり、青年と老婆は部屋を後にした。外から鍵をかけられ、私は密室で暇になった。青年が昼飯を持ってきた。朝食の盆を渡し、代わりに昼食を受け取る。

 昼食を済ませ、空の食器を扉近くに置いた。両手を頭の後ろに回し、窓際に寝転がる。


「ん?」


 床の一部が土で汚れていた。ちょうど、老婆が座ったあたりだ。私は部屋に備え付けのちり紙で土を拭きとった。

 もう一度窓際に寝転がった。窓に近寄ると、蝉の声が一層大きく聞こえる。目を瞑り、老婆に投げかけられた質問を思い出す。外見、性格、癖、等あのひとに関する様々な問いに答えた。適性試験を無事に通過できれば良いのだが。


「回答をもとに、死者に瓜二つなニンゲンを作るのだろうか」


 私はポツリと呟いた。別のニンゲンに本物と見まごうほどの化粧をするとか、はたまた、ホントウにいちからニンゲンを制作してしまうとか。三途屋では、死者をどのように用意するのだろうか。考えを巡らせているうちに、睡魔がきた。私は、窓に背を向けるように寝返りを打った。窓の上部に吊るされた風鈴が、蝉の声にまぎれてちりんと鳴った。


 

 夕方。目が覚めた。うっすらと全身に汗をかいた。私は早めに入浴することにした。客室には、簡易な浴室と、便所と、洗面台が設置してあるので、短期間であれば問題なく滞在できる。入浴をすませ、私はうちわ片手に、情報を手帳に書き留めた。手帳をカバンにしまう。窓に視線を移す。空が、青から白、白から橙と変化する。じきに夜が来る。


 鉄格子を通して、中庭を観察した。青年の姿があった。彼は大きな白い箱を運ぶ。大柄なヒトがすっぽりと入れるぐらいの大きさの箱だ。箱が重いのか、青年は箱を両手で抱え、ゆっくりと移動させた。ここから見た限り、箱は木製のようだ。どの箱も封がなされ、強風程度で偶然に開くことはなさそうである。ときおり汗をぬぐいつつ、青年はいくつもの箱を焼却炉の辺りに運んだ。


 夜。日が完全に落ちた。金属板が勝手に窓を覆う。扉が叩かれる。夕飯の時間だ。青年が扉を開け、夕食を差し出した。昨日、青年は私に肖像画を見せた。私は、青年と肖像画の男女の関係について尋ねた。老婆が禁止したのは、”青年が提示したものについて答えること”だ。私から青年に聞くのは大丈夫だろう。


「君が昨日見せてくれた肖像画、あのふたりは誰ですか?」

「……あなたにお教えする必要はありません」


 青年は短く答える、昼食の食器を回収し、足早に部屋を去った。


 夕食を済ませ、私は金属板の穴から中庭を覗く。老婆がひとりで現れた。大きな白い箱を持ち、よろよろ歩く。やはり、箱が重いのだろう。橋の鍵を開け、箱を中央の小屋へ運んだ。彼女は杖を使うから、足腰が丈夫ではないと思うのだが、ひとりで運ぶ。青年に頼んだ方が良いと思う。老婆は小屋に箱をしまうと、橋を渡り鍵をかけなおした。

 その後、老婆と青年と依頼者が中庭を歩く。老婆が橋の鍵を開き、老婆と依頼者は小屋に入った。青年は、小屋の外、扉のすぐ近くで立つ。たまに、腰の刀の鞘を握る。一日目と同様の光景だ。しばらく中庭を観察したが、それから特に大きな動きは無かった。私は布団を敷き、就寝した。蝉が鳴いている。



  * * *  



 三日目 朝。

 日が昇り、金属板がひとりでに収納される。窓が姿を見せた。風が部屋を抜け、涼しい。中庭を覗く。蝉が鳴いている。姿は見えないが、おそらく中庭の木々に張り付き、延々と鳴く。ほかの部屋の窓に視線を移す。鉄格子の向こう、客たちの瞳は中庭の一点に集中する。川を越えた先の小屋をじっと見る。


 昨日の朝、玄関先のやり取りが聞こえたのを思い出し、私は部屋の扉に近寄った。扉に耳をつけた。言い争いが聞こえる。声の主は老婆と女性だ。


「申し訳ありません。適性試験の結果、死者様のご用意が難しいと判断いたしました」

「どうして! どうして、アタシはジジイに会えないのよ! 理由を言いなさいよ!」

「理由はお教えできませんので」

「アタシは一筆書かせたいだけなのよ! ジジイの遺産は全部、このアタシにってね」

「ワタクシどもは死者様との再会を提供しておりますが、死者様になにかをさせることはできません」

「じゃあ、証言でもいいわ。何十年もジジイに会ってないアタシが遺産をぶんどるには、ジジイの証言が必要なのよ。前金だって払うし、遺産が手に入ったら追加で大金を払うわ」

 

 若者は興奮し、老婆に詰め寄る。どうしても、ジジイとやらに再会したいようだ。しかし、老婆は、


「申し訳ありません。あなたは死者様に会える適性がございませんので」


 と淡々と突き放す。若者はさらに興奮する。声が高くなる。蝉に負けず劣らず、大声で叫ぶ。

 

「いい加減にしてよ! 遺産目当ての汚い理由じゃ会う資格がないって? それとも、病気で苦しんでたジジイを無視してひと声もかけてやらなかったから? 薄情だから?」

「いいえ。どれも違いますよ。しかし、詳細はお話しできません」


 若者は捨て台詞を吐き、三途屋を去った。適性が無い場合は死者に会えない。そして、金目当てや情の有無は適性に関係ない。私は扉から耳を離し、手帳にさきほどのやりとりを記録した。ほどなくして、朝食が届いた。


 昼。三日目の試験は昼食後に行われた。昨日と一昨日と同様に、青年が私の体に電極をつける。彼はからくり箱側面の白いつまみを操作した。単純な音が出力される。つまみには、計器同様、数字が印字され、右に回すほど大きな数値であった。

 あのひとに関する質問がはじまるのかと思いきや、老婆は青年に、


「お前が描いたあれを、お客様にお見せなさいな」

「はい。おばあ様」


 青年は大きい帳面を取り出す。数十の薄い紙が、らせん状の細い金属で綴じてある。表紙は薄茶色の厚紙だ。目当てのページを探し当て、青年は帳面を私に向けた。


 私は目を見開いた。瞬間、計器の針が大きく振れる。無言のまま、私はページを凝視した。懐かしさと切なさが全身を埋め尽くす。ページにあのひとがいた。鉛筆で描かれた肖像画だ。あのひとにそっくりな顔がページいっぱいに広がる。

 青年はページを私に突き付けたまま、片手でつまみを調整し、音を変える。青年の手元に視線を移す。


「お客様、箱じゃなく死者様を見ていてくださいな」


 老婆に注意され、視線をあのひとに戻した。しかし、私の目的は不思議の調査だ。青年や老婆にさとられないよう、眼球のみを素早く動かす。からくり箱の音が変わる度、計器の針の振れ幅が変化した。

音によって大きく振れたり、小さく振れたり。帳面を私に見せた状態を保ち、青年は器用に片手でつまみの操作と計器の揺れを記録した。


「もう良い。それはしまいなさい」

「はい。おばあ様」


 パタンと帳面が閉じられる。あのひとが視界から消えた。私は思わず、待ってくれ、と手を伸ばしそうだった。


「お客様、次はこちらを見てくださいな」


 老婆の方を向く。私は再び目を見張る。また、あのひとが現れた。青年作の画よりも、一段とそっくりだ。瓜二つだ。まるで写真だ。私の心臓がドクドクと激しく打つ。蝉の鳴き声と同期するほどに早鐘を打つ。計器の針がより大きく揺れる。

 

「お前はまだまだじゃな」


 青年は唇を噛み、うつむいた。老婆の台詞からして、こちらは老婆作なのだろう。老婆が描いたあのひとは、いまにも私に微笑みかけ、喋りだしそうなほど似ている。動揺が収まらないまま、適性試験がはじまった。私は、老婆作のあのひとを見つめながら、質問に答えた。青年は、無口のまま箱の操作をし、数値を小さい帳面に書き込んだ。

 三日目の試験も滞りなく終了した。青年は部屋を出る直前、


「もっと、力をつけないと」


 と小さく呟いた。老婆と青年が退出し、外から鍵がかけられた。私は窓際に寝転んだ。いまだに心臓がせわしなく脈打つ。手足の感覚が地上から離れて、体が宙に浮く錯覚に陥る。何度も深呼吸をした。徐々に正気が戻る。蝉が鳴いている。


「あれ」


 また、床の一部に土がある。老婆が座った箇所だ。三途屋の周囲も中庭も自然が豊かで、土が衣服についてもおかしくない。私はちり紙で土を拭った。


 適性試験として、あのひとの外見について事細かに質問された。私は答えた。けれども、彼らに写真の類を一切見せていない。作成途中の肖像画を見せられ、もっとこういう顔です、と助言した覚えもない。質問の答えだけで、あれだけ精工に描けるものなのか。老婆が見せた肖像画をもとに、そっくりなニンギョウでも作るのだろうか。

 

 窓から風が入り、風鈴が音を立てる。私は、中庭を覗いた。青年がいた。青年は、昨日運んだ白い箱のあたりに立つ。大きな箱を全部焼却炉の中に入れた。彼は火を点けた。焼却炉の煙突から煙が上がった。煙はもくもくと天まで昇った。



 夜。青年が夕食を持ってきた。私は、疑問を青年にぶつけた。


「あの肖像画を使って、そっくりな死者を準備するのですか?」

「……僕はお答えできません。でも、おそらく、あなたは大丈夫です。用意できると思います。心配しないでください」

「そうですか。ええと、では、適性試験に通過できるひと、できないひとの違いはなんですか?」

「……僕も知りたいです」



 金属板の穴から、中庭を覗く。昨夜と同様の景色があった。老婆がひとりで中庭に現れる。橋の鍵を開ける。老婆が大きな箱を抱え、ふらふらと小屋に運ぶ。橋の鍵を閉める。老婆と青年、依頼者が中庭に足を踏み入れる。老婆が橋の鍵を開ける。老婆と依頼者が小屋に入る。青年は小屋の外で警備を行う。


 青年は木々に囲まれた暗い中庭でじっと待つ。蝉が鳴いている。中庭に無数に生える木のどこかで鳴いているのだろう。


  * * *


 四日目 朝。 

 蝉が鳴いている。金属板に覆われた窓が姿を見せる。朝日が部屋に差す。私は、目覚めとともに部屋の扉に耳をあてた。玄関から声が聞こえる。


「この度は申し訳ありません。お客様の適性は申し分ないのですが、材料が足りず、ご用意ができませんで」

「いいえ。仕方のないことですから」


 老婆と男性の声だ。適性試験に通過しても、死者の準備ができない場合があるようだ。


「ご用意でき次第、連絡いたします。すぐにお越しくださいな」

「そうしたいのはやまやまですが、しばらく遠い地で暮らす運びとなりまして」

「さようでございますか」

「ええ。ですから、ご連絡をいただいて、都合をつけてからまたお伺いいたします」

「承知いたしました。なるべく早くにお越しくださいね。あまり時間が経つと、試験のやり直しが必要になりますのでね」


 礼を言い、男性は三途屋を後にした。老婆が客を見送る。カランと軽い音が聞こえた。続いて、玄関の扉を慌てて開ける音。


「おばあ様!」


 青年が叫んだ。



 昼。四日目の試験が始まった。老婆の姿が無い。青年だけがやって来た。青年はからくり箱を窓際に置く。電極を私に張り付ける。


「お婆さんは?」

「調子が悪く、自室で休んでいます。僕ひとりで試験を担当します」


 いつもは老婆が質問を、青年がつまみの操作と記録を行うが、今日は青年ひとりだけだ。数十の質問に答えたが、前の三日間よりも時間がかかった。


「これで今日の試験を終了します」


 三途屋の不思議――死者に再会できる不思議――以外に、気になる点があった。青年が私に見せた肖像画だ。


「お聞きしたいのですが、あの肖像画はご両親ですか」


 後片付けをしていた青年の手が止まる。青年は迷った様子を見せた。が、立ち上がると、窓を閉めた。それから、部屋の扉がきっちりと閉まっているのを確認した。青年は小声で答えた。


「……ええ、あれは僕の父と母です。両親です。僕が生まれてすぐに事故で亡くなりました」

「肖像画の他に、写真は?」

「写真……ですか? 両親の姿がわかるものは、あの一枚の肖像画のみです」


 青年は首を小さく振る。この次元では写真はまだ一般的に普及していないらしい。青年は着ている物の中から、両親の肖像画を取り出した。紙の端はボロボロだ。


「両親がどんなひとたちだったのか。肖像画でしか知りません。おばあ様も一切教えてくれないんです」


 屋敷内を探しても、両親の遺品はひとつも無く。使われていない部屋の棚の奥から、やっと肖像画を見つけたぐらいだそうだ。

 青年は、両親について肖像画からわかる外見しか知らない。何を聞いても、老婆は口をつぐむ。だから、客に両親について尋ねているのだと、青年は言った。残念ながら、お客から両親の情報はひとつも得られなかったらしい。老婆が口止めしているのを青年は知らないようだ。


「僕、おばあ様がいない間に試したいことがあるんです。協力してくれませんか」

 

 役割が交代した。私が質問者、青年が回答者だ。青年は自らの体に電極を貼りつける。私はからくり箱のそばに腰を下ろす。箱の操作方法を尋ねた。


「説明書は」

「ありません。代々、口伝のみですから。僕もおばあ様に言われるままに覚えているんです」


 青年は側面についた白いつまみを指差す。


「白いつまみを回すと、出力音が変化します」

「どれ」


 適当につまみをひねる。単調な音が出た。さらに右につまみを動かすと、音の高さが変わった。ほかのつまみを操作する。音の調子が変化した。青年は、電極を体につけたまま、計器の針をじっと見る。針は初期位置でぴくりとも動かない。


「つまみを回しながら、僕に適当に質問してください」

「じゃあ、ご両親の――」


 音が微妙に変化する中、青年が質問に答える。針は止まったまま。私は、老婆にされた質問を思い出す。青年に同じ質問を投げかけた。外見、性格、癖、等。質問の傍ら、つまみを適当に操作した。青年はほとんどの質問に答えられなかった。針は微動だにせず。いかなる音を出力しても、計器の針は一切振れなかった。針を見つめる青年の表情がどんどん暗くなる。私はつまみから手を離した。


「やはり、私のようなシロウトでは上手く操作できませんね」


 ひと差し指を立て、青年は電極から伸びた線をひとつひとつ確認する。そして、私に言った。


「……しまった。僕としたことが。線をあべこべに繋いでいました。これじゃあ計測できるものもできません」


 青年は笑う。こんな調子じゃ、跡を継ぐなんてまだまだだ。彼は自嘲気味にコトバを吐いた。私は、試験のやり直しを提案したが、青年は拒否した。おばあ様の体調が回復し、今にも部屋に訪れるかもしれないから、と。


「僕がおばあ様に認められれば、三途屋のシゴトをひとりで任せてもらえる約束なんです」

「そうなんですか」

「ええ。おばあ様しかできないこと、行けない場所も多くて」


 金属板の穴から盗み見た光景を思い出す。老婆がひとりで白く大きな箱を動かす。老婆が橋の鍵を開ける。青年がなぜ手伝わないのか、理由がわかった。青年はからくり箱とともに部屋を去った。

 念のため、部屋の床を確認する。土の汚れはない。


 夕方。入浴をすませ、窓際に立つ。窓を開ける。さわやかな風が部屋を抜ける。視線を下げると、青年が中庭にいた。彼は、焼却炉の扉を開ける。木の板を使い、中身をかき出す。黒くごろごろしたモノが焼却炉から出てきた。青年は焼却炉のすぐそばに穴を掘り、それらを埋めた。

 

 夜。日が沈み、金属板が勝手に窓を覆う。扉が叩かれる。外から鍵が開けられ、扉が開く。立っていたのは青年ではなく老婆だった。片手で杖を、もう片方の手に夕食の盆を持つ。顔色が悪い。まだ本調子ではないようだ。私は、夕食を受け取った。

 

 老婆は杖をついたまま、鞘に手をかけ、腰の刀をちらりと見せた。険しい表情を私に向ける。


「あの子がもっている肖像画について、何か答えましたか」

「私は肖像画のひとについて何も答えていません。お会いしたこともありませんし」


 嘘ではない。肖像画に関する話はした。が、私は肖像画のひとの情報を持っていないので、彼らのことを答えてはいない。しかし、怪しまれているようだ。


「……それならいいのですが」


 刀を鞘に戻し、老婆は部屋を去る。私は老婆の背中に問いかけた。


「ところで、死者に会える適性、会えない適性、その分かれ目は何でしょうか」

「詳しくは教えられませんよ。ただ、強いて言えば、ワタクシどもが死者様を用意できるかどうかだね。依頼者が会いたいと願う死者様を正確にご用意できるかどうかが、大事なのですよ」


 夕食を済ませ、穴から中庭を見る。昨日とほとんど同じ光景だ。異なる点と言えば、体調の悪い老婆を心配した青年が、老婆と依頼者と共に小屋に入ろうとしたぐらい。老婆に止められ、青年は小屋の外で待機した。彼は唇をかみしめる。

 睡魔がきた。私は布団に入る。蝉の声を子守歌にして寝るのにも慣れた。今夜も蝉が鳴いている。


  * * *


 五日目 朝。

 目を覚ます。日が昇り、金属板が自動的に上がる。窓から日の光が部屋に入る。私は静かに部屋の扉に近づき、耳をあてた。老婆と若者の声が聞こえる。


「本当にありがとうございます。言いたいことを全部ぶつけてやりました。逆恨みなんて関係ない。思いつく限りの罵詈雑言を言ってやりました」

「さようでございますか。お力になれてなによりですよ」

「ああ、あの憎たらしい顔と声。一秒だって忘れません。わたしの脳裏に焼き付いて、はっきりと浮かび上がる。いつも苛立たせるんです。おかげ様でだいぶすっきりしました。あの箱の中に、アイツがいたんですよね?」

「ええ」

「……あの、さっきは、箱を壊そうとして、取り乱しちゃって……すみませんでした」

「いえいえ。よくあることですからね。最後の手段を使う前に、ご納得いただけてなによりでしたよ」


 しばらくして、別のひとの声が聞こえた。女性と男性だ。女性は泣き、男性が慰める。老婆が謝罪する。


「この度は、お力になれず申し訳ありません」

「いいえ。駄目でもともと、と思っていましたから」


 覇気のない様子で男性が答える。女性は嗚咽が止まらない。 


「ううっ……あの子と一度だけでも話してみたかったわ。生まれてすぐ、病気で寝たきりになってしまって、そのまま死んでしまったの」


 悲しみが抑えきれず、女性は大声で泣く。老婆と男性が女性を労わる。青年の声は無い。彼は見送りにいないようだ。


「ああ、あの子はいったいどんな笑顔で、どんな声で、どんなことを喋ってくれたのかしら……ううっ……」


 老婆に見送られ、夫婦は三途屋を去った。ほどなくして、青年が朝食を届けにきた。


 昼。五日目の適性試験が始まった。今日は老婆も同席する。しかし、まだ本調子ではないようだ。顔色が悪く、深呼吸を繰り返す。試験の途中で、老婆は青年に支えられ、部屋を後にした。

 青年だけが戻ってきた。老婆は自室で薬を飲んで、すぐ寝てしまったそうだ。青年は試験の準備をする。


「では、五日目の適性試験をはじめます」


 私は投げかけられる質問に答えた。この五日間で、老婆や青年は私と同じぐらい、あのひとに詳しくなったように思う。それこそ複製ニンゲンでも作れそうなほど。

 試験が終わり、青年は『見せたいものがある』と言った。彼は大きい帳面を取り出す。ページをペラペラめくり、私に突き付けた。


「針の振れの結果をもとに、僕なりに改良しました」


 あのひとがいた。彼が以前描いたあのひとと比べ、格段に似ている。この短期間で技術を上げたようだ。


「どうですか。前よりも似ていますか?」

「ええ。ひょっとしたらお婆さんが描いたものよりそっくりかも」

「本当ですか! もう少しでおばあ様に認められるかもしれません」


 青年の表情がぱっと明るくなる。


「正式に後継者と認められれば、おばあ様が三途屋のすべてを教えてくれる約束なんです。そうなれば、僕もひとりでシゴトができます」


 着ている物の中から両親の肖像画を取り出し、青年はじっと見つめる。後継者となったあかつきに、彼は両親に会うつもりなのだろう。


「あなた、前に試験を通過できる、できないの違いは何か、って僕にお聞きしましたよね」

「はい」

「実は、僕も教えてもらってなくて。だから、お客様をじっと観察して、おばあ様には内緒で法則を見つけようとしてるんです。まだ違いはわからないですが……」


 ここに訪れた当初、青年が私を凝視した理由がわかった。


「僕がふがいないせいで、おばあ様は、『この家業は私の代で終わりだ』って言うんです。そんなことさせるものですか。僕は家を継いで、そして……」


 部屋の扉が叩かれる。青年は扉を開けた。老婆が戻って来た。先ほどより顔色はよくなったようだが、杖をつく手が震える。青年に腕を引かれ、部屋に入った。ゆっくりした動作で、老婆は腰を下ろす。

 広げたままの帳面に、老婆が気づく。老婆は一瞬目を見開く。


「おばあ様! お客様が、僕の絵をおばあ様のものより似ていると」


 興奮冷めやらぬ様子で、青年は老婆に話す。老婆は帳面を閉じた。青年のコトバが止まる。


「……お前はまだまだなんじゃ。他にも習得せねばならん技術はたくさんあるでな」

「はい……」


 すっかり落ち込んだ様子の青年は、帳面を胸に抱え肩を落とす。老婆は青年に微笑みかけた。


「お前はそんなに思いつめなくてもいい。ワタクシは、家が潰れてもいいんじゃ。永遠に続くものなんてないんじゃからの」


 老婆は青年に食事の用意を指示した。彼はからくり箱と帳面を抱え、部屋を出た。老婆は私に向き直り、表情を引き締めた。


「お客様。本日で試験は終了でございます」

「そうですか。それで、合格でしょうか、不合格でしょうか」

「今日までの結果をもとに、明日検討します。明後日の朝、結果をお知らせしますので」


 明日は三途屋にやってきて六日目、明後日は七日目だ。七日目の朝に結果が出るようだ。


「適性試験に合格かつ、死者様が用意できれば、七日目の夜、川を越えて小屋にお連れします」

「小屋の中で、あのひとと再会できるのですか」

「さようでございますよ」


 部屋を去る老婆を観察する。よく見れば、彼女の着ている物のあちこちに土が付着していた。


 ひとりになり、窓を背にして机に向かう。手帳を開く。情報を見返す。三途屋が適性を判断する基準、死者の用意方法。このあたりを探る必要がある。

 

 毎朝盗み聞きした内容を思い返す。少なくとも、試験に通り、死者が用意された依頼者たちは、死者と再会できたと認識していた。再会を望む背景がどうであれ、老婆に感謝を述べて、三途屋を後にした。


 それから、死者と再会できずに三途屋を去った依頼者たち。試験に落ちたのが二組。遺産目当ての女性、子どもに会いたかった夫婦。試験には合格したが、死者の用意ができず再会が叶わなかった男性。老婆は、男性になるべく早く三途屋を訪れるよう話していた。

 

 適性検査は、すべて死者に対する質問だった。顔の形、髪の具合、目の色、背の高さ、体重、利き手、など外見に関する問い。性格や癖、趣味、など内面に関する問い。質問を受けながら、青年がからくり箱の出力音を変更し、音の変化に合わせ、計器の針が動いた。


 判断基準と用意方法とは別に、疑問が浮かぶ。あの老婆だ。どうして老婆は、孫である青年を、両親に再会させてやらないのだろうか。


 なんにせよ、明後日の結果を待つしかない。考えを巡らせているうちに、もう夕方だ。私は窓際に立つ。中庭に老婆の姿があった。孫はいない。先ほど老婆が指示した、夕食の準備にとりかかっているのだろう。老婆は杖をつき、よろよろと橋の鍵を開けた。彼女の腹のあたりがわずかに膨らむ。着ている物の中になにかを隠している。川を越え、白い小屋に入る。小屋には二枚扉があった。老婆と依頼者が使う方を”前”の扉だと考えると、”後”の扉が開かれているのは滅多に見ない。老婆は”後”の扉から出てきた。そして、彼女は着ている物を手で払う。土がパラパラと落ちた。腹部のふくらみは消えていた。



 夜。青年が夕食を届けにきた。夕食を受け取り、昼食の食器を渡す。青年の表情は浮かない。口をきゅっと一文字に結び、眉が下がる。青年はポツリと小さく呟いた。


「僕は不安なんです。いつになったら跡を継げるんでしょうか。いつになったら……」

 



 金属板の穴から、外を覗く。老婆が橋の鍵を開け、大きく白い箱を運ぶ。橋の鍵を閉じる。老婆、青年、依頼者が現れる。老婆が橋の鍵を開ける。彼らは川を渡る。老婆と依頼者のみが小屋に入る。今宵は様子が違った。青年が無理にでも小屋に入ろうとした。老婆が気づき、制止する。青年は老婆に食い下がる。老婆はなんと、刀を抜いた。青年は諦めた。いつものように、前の扉の近くで立った。彼はときおり、着ている物から両親の肖像画を出して、眺めた。

 

 蝉が鳴いている。昼夜問わず好き勝手に鳴く。私は布団に入り、まぶたを閉じた。


  * * *


 六日目 朝。

 扉にそっと耳をあてた。感謝の声が聞こえる。昨夜、川を越え小屋に入った依頼者だ。


「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

「お力になれてなによりです」


 涙声で感謝を告げる。老婆の声に覇気が無い。


「あのひともわたしも緊張してか、驚いてか、会話がかみ合ってなかったんです。笑っちゃいますよね」


 依頼者は泣きながらも、楽しそうに告げる。


「でも、たしかにあのひとの声でした。死んだ時より、ちょっと若かったかな? 一番喋ってたころ、若い時、いろいろあって言い争いが絶えなかったときがあったんです。その頃の声だったかもしれません。ふふ、とにかく会えて良かった」


 店主さんもお元気で、と言い残し依頼者は去った。


 朝食を終え、私は窓辺に座る。風鈴の短冊が風に揺れる。蝉の声に紛れ、風鈴の音が部屋に響く。うちわで顔をあおぎながら、中庭を覗く。ごうごうと流れる川を越え、中央に小屋が建つ。

 適性試験を通過しても、死者の用意ができなければ、あの小屋に入れない。調査半ばで引き上げだ。最終結果は明日朝、七日目の朝にわかる。私は部屋の中で、今までの情報をまとめた。


 夕方。外を見る。青年が中庭にいる。ふちが波打つ細長い板を、何枚も肩にかつぐ。焼却炉のそばで、青年は板を地面に下ろした。昨日、青年が燃やしたものを埋めた辺りだ。彼は、板を一枚とると、地面に挿した。焼却炉の周囲は、おびただしいほどの数の板が立つ。青年は、残りの板も同様に土に挿した。



 夜。青年が夕食を持ってきた。彼の背後、配膳用の台車に空の食器がひとつだけだ。


「お客様もずいぶん少なくなりました。残るは今日の方とあなたぐらいです」


 夕食を受け取り、私は昼食の食器を彼に渡す。私は盆を机に運ぶ。座布団に座ると、青年も私の向かいに腰を下ろした。


「僕、早く三途屋を継ぎたいんです」


 青年はまっすぐな瞳で私に言う。 


「ご両親に会いたいからですか」

「ええ。おばあ様が僕を認め、三途屋のシゴトについてすべてを教えてくださったら、真っ先に両親に会いたいのです。それと」


 どうやら、他にも理由があるようだ。


「おかげさまで三途屋に多くのお客様が訪れます。けれど、僕がまだ未熟なせいで、おばあ様がほとんどのシゴトを行っています」


 顔を曇らせ、青年は俯いた。私は夕食をいただきながら、彼の話に耳を傾ける。


「早く手伝えるようにならないと。おばあ様を楽にさせてあげたいのです。おばあ様がいなくなってしまったら、僕はほんとうにひとりに……」


 声がどんどん小さくなる。青年は着ている物から、紙を二枚出した。一枚は両親、もう一枚はお婆さんと青年だ。後者は青年が描いたらしい。写真と勘違いするほどそっくりだ。


「父と母の思い出のものはほとんど残っていないんです。おばあ様が捨ててしまったそうで。理由は教えてくれません」

「そういえば、ご両親の肖像画は誰が描いたんですか?」




 夜も更け、蝉の声だけが響く。私はいつものように金属板の穴から、中庭を覗いた。まず、老婆が大きく白い箱を小屋に運ぶ。老婆は数歩歩いては休み、を繰り返す。老婆は箱を小屋にしまうと、来た道を戻り、川を越え、橋に鍵をかける。老婆と青年、それから依頼者が小屋に向かう。老婆は孫に支えられて進む。青年は昨日同様、小屋へ足を踏み入れようとしたが、老婆がそれを許さなかった。


 蝉が鳴いている。金属板のおかげで多少は音量が下がっているものの、それでもうるさい。私は寝床に入り、まぶたを閉じた。



  * * * 


 七日目 朝。

 キュルキュルと金属板が勝手に上がる。窓が現れ、日の光が降り注ぐ。蝉の声が一層大きくなる。昨日の依頼者が三途屋を去るころだ。私は扉に両手をつき、耳をくっつけた。老婆と依頼者の声が聞こえる。


「ありがとう……感謝しています」

「お力になれてなによりですよ」

「まるで夢みたいです。こないだ亡くなった兄弟に会えるなんて。照れ屋だったからかな、私がいろいろと話しかけても、うん、とか、はい、ぐらいしか喋らなかったんですよ」

「さようでございますか」

「でも会えてよかった。会話になんかならなくても、声を聴けただけで、一目会えただけで満足です。感動しました。本当にありがとう」


 昨晩小屋に入った依頼者も、死者に会えたようだ。玄関を開け閉めする音がした。そろそろ、結果を告げに老婆がやってくるだろう。少し心拍数が上がる。扉から耳を離し、座布団に座る。

 ほどなくして、部屋の扉が叩かれた。老婆が扉を開け、部屋に入った。


「結果をお伝えに参りました」

 

 心臓が早く脈打つ。


「適性試験は合格でございますよ。かつ、死者様のご用意ができました」


 私はほっと息をついた。


「今晩、再会の儀を行います。夕食後にお迎えに上がりますので」


 昼が過ぎ夕方。そして、夜になった。夕食を手早く済ませ、私は部屋の扉の前で、迎えがくるのを今か今かと待つ。外から鍵が開く。老婆と青年が迎えに来た。一週間ぶりに部屋から出た。薄暗い廊下を歩き、階段を下りる。私たちの足音と、老婆の杖の音が響く。老婆はまだ本調子ではないようで、力ない足取りだ。一階に着いた。階段横の扉を老婆が開ける。廊下を進む。廊下の途中、中庭に続く扉があった。青年が私の靴を差し出す。靴を履き、中庭に出る。蝉の声がいっそう大音量で届く。

 老婆が橋の鍵を開けた。白く大きな箱は、すでに小屋へ運んであるのだろう。橋を渡り、川を越えた。老婆が小屋の前の扉を開く。


「こちらへどうぞ。死者様がお待ちですよ」


 思わずゴクリと唾を飲んだ。心臓が激しく脈打つ。私は老婆に続き、小屋に入る。青年は、扉の横で待機した。

 視界にまず飛び込んだのは、白い箱。大柄なひとでも、膝を抱えればすっぽりと収まる大きさだ。箱が小屋の中央に鎮座する。四隅に立った細いろうそくが、頼りなく箱を照らす。ろうそくのわずかな灯りしかない小屋は、ほぼ真っ暗な状態だった。箱の奥、波打った白い布が天井から床まで垂れる。布は一面を覆い、不十分な灯りでは布の向こうは見えなかった。

 すんと鼻を鳴らす。香の匂いがする。


「お座りくださいな」


 老婆は箱の前の布団を指差した。私は老婆の指示通り、布団の上に座る。老婆は杖を置き、布団と箱の間にある座布団に座った。マッチを擦り、彼女は傍らの香に火をつけた。そして、なにやら呪文らしきものを唱えだした。


「最後の準備を行いますので」

 

 途端に睡魔が私を襲う。意志と反対に、まぶたが下がる。頭がゆらゆらと揺れる。眠気を飛ばすように、顔を振るが無駄だった。私は懸命に目をこする。


「準備が完了次第、起こします。眠っていただいて構いませんよ」


 いいえ、起きていますと返事をした。つもりだったが、声になっていたかは定かではない。意識がもうろうとする。視界にもやがかかる。深く俯く。体が傾き、布団に倒れた。眠ってしまっては、意識を失ってしまっては、調査は失敗だ。もはやまぶたは完全に下がったが、眠ってしまわないよう、意識を保つよう、必死に抵抗した。

 暗闇の中、物音が聞こえる。シュッとマッチを擦る音。香が新たに燃える音。なにかが開閉する音。気が付くと、あのひとの声がした。あのひとが叫んでいる。

 視界のもやが晴れ、目の前にあのひとが現れた。生前と同じく、あのひとは柔和なほほえみを浮かべる。


「ほんとうに、ほんとうですか」

「ああ」


 あのひと、そのままの声だ。光景が信じられず、私は、目を何度もこすった。手の甲が濡れる。視界がすぐに滲む。私は力任せに目をこすり――、パッと目が開く。布団が目に飛び込んだ。真っ暗な小屋だ。小屋の中を見渡す。あのひとはいない。しかし、声が聞こえる。箱の方から聞こえる。

 老婆は私のすぐ隣に移動していた。手にお香を持ち、煙を私に浴びせる。意識を失う前、老婆は箱に向かって呪文を唱えていたはずだ。だが今は私のそばで、私を監視していた。あのひとの声が聞こえる。


「まだ準備は完了しておりませんよ」


 老婆はまた箱に向き直り、呪文を唱えだした。新たにお香を追加した。さらに強大な睡魔が襲う。まぶたが再び下がる前に、私は足がもつれながらも立ち上がった。箱に手をかけた。老婆が驚き、鞘を握り、親指でつばを押し出す。暗い小屋に、刀が鈍く光る。老婆はそのまま刀を抜こうとした。が、体勢を崩し、派手な物音と共に床に転がった。どこかを強打したのか、老婆はうなり声をあげる。外の青年に気づかれたかもしれない。

 あのひとの声が聞こえる。私は箱に手をかけた。ほぼ暗闇の中、手探りで開けられそうな箇所を探す。蓋に、金属の留め具があった。感触からして鍵ではない。留め具を掴んだ。


「おばあ様! 大丈夫ですか、おばあ様!」


 小屋の扉が激しく叩かれる。老婆は痛みのせいで返事ができない。返答が無いのを不審に思った青年が、自らの刀で扉を切りつける。時間が無い。私は、金属の留め具をひねった。蓋がわずかに浮く。蓋を持ち上げる。

 青年が扉を破った。私は箱を開けた。見るな、と老婆が叫んだ。


 箱の中身は、小さな白い箱だった。黒い石に囲まれて、小さな箱がある。震える手で、私はそれを取り出した。掌に乗るぐらいの大きさ、中からあのひとの声が聞こえる。たしかにあのひとの声だが、意味不明なコトバの羅列を垂れ流す。

 私は小さな箱を開けた。老婆が力を振り絞り、とびかかった。私ではなく、孫に向かって。老婆は青年の視界を塞いた。


 箱を開けた。蝉がいた。老婆の手を振りほどき、青年は私に近づいた。老婆は青年を止めようとしたが間に合わず。青年は箱を覗いた。


「どうして蝉が鳴いているんです」


 心底不思議そうな顔で、青年は呟いた。


「君には蝉に聞こえるのか」


 私は失言をした。老婆は怒り狂い、どこにそんな力があったのか、刀を振り回して私に襲い掛かった。

 小さな箱を掴み、私は逃げた。刀を避け、箱の奥の布を掴んだ。布が破れ、扉が現れた。扉を開けた。すぐに鍵を閉めた。扉を切りつける音がする。早く、三途屋から脱出しなければ。


「なんだここは」


 蝉が鳴いている。壁に沿うように棚が設置され、各段にガラス容器が並ぶ。土が入った容器の中に、セミがいた。それぞれの容器に数字が振ってある。ところどころ、容器は空だ。天井付近の壁に細長い紙があった。紙は蝉の飼育方法を示す。さまざまな音で鳴く蝉。まるで――。

 

 手元の小さな箱を覗く。蝉がいる。私は箱を閉めた。


   * * *  

  

 調査が終了した。命からがら次元遷移を成功させ、研究所へ到着した。逃走劇によって、私はひどく汚れた。土や葉を落とし、着替えを取りに戻ってから、私は所属する部へ向かった。自席に座る。机の上に白い箱をひとつ乗せた。


 ほかの所員は忙しく、みな席にいない。部長だけが私を迎えてくれた。部長は口角を下げ、口をへの字にして、白い箱を見つめる。時折、耳を抑える。


「ねえマトウくん。その白い箱に何が入ってるの」

「知りません」

「嘘つき。さっきから箱に向かって話しかけてるじゃない。知ってるんでしょ?」

「いいえ、知りません」


 xxが鳴いている。

 私は箱の中身を決して知らない。




不可思議定数x 第七話 シュレディンガーの蝉 【終】




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