降りつづいていた霙が、

 降りつづいていた霙が、ようやくやんだ。だが曇天の空に低く垂れ込めた雲は厚く、なだらかな谷は薄暗いままだった。

 岩場の窪みにはいつくばったクロエは、濡れた身体をぴくりともさせず寒さに耐えていた。右足の古傷が疼く。ずっと以前、任務中に矢を受けた疵だ。しくしくと筋肉を苛む痛みを彼女は無視した。このていどならば煩わしいだけで苦痛でもなんでもない。その気になればクロエは何日もじっとしたまま、ただ一箇所を監視することができた。いっさい食事を摂らず、糞尿を垂れ流しながらでも。彼女はそういった訓練を受けてきたのだ。

 クロエがじっと見据える先には小さな洞穴が口を開けている。ユキヒョウの巣穴。足跡をたどり、ようやく見つけたのだった。

 朝から見張っている巣穴からは、ときおりクロエに狙われているとも知らず、ユキヒョウが岩陰の下から頭の半分だけを出して周囲の様子を探っていた。ユキヒョウがよくやる行動で、警戒心の強い猛獣はそのために目から上の額が狭くなっている。

 いますぐ巣穴に近づき、矢を射るか剣で始末してもよかった。しかし、それでは毛皮に不要な傷をつけてしまうかもしれない。ゆえにクロエは辛抱強く、巣穴の住人が外へ出てくるのを待っているのだ。

 そして、ついにそのときがやってきた。

 白地に黒の斑点を散らせたユキヒョウが、巣穴から這い出てきた。用心深く最初は首だけを出して警戒し、しきりに耳をそばだてて、あたりの匂いを嗅いでいた。だがクロエは十分に距離を取っていたし、透明化の呪文で姿をくらませ、風下にいたから気取られる心配はなかった。やがて彼女の獲物がその全身を現す。気高さを伴う容姿は見事だ。危険な動物は美しい。身体と同じくらいの長さの太い尾を揺らして、悠然と立っている。

 クロエはゆっくりと複合弓を構えた。


 さあ、向こうを見るのよ。そうすれば、一瞬で殺してあげる──


 弓を引き絞り、機を窺う。狙うのは首の後ろ。距離は二〇メートルほどだ。いまなら風の影響はない。

 ユキヒョウがなにかに気を取られ、逆のほうを向いた。いまだ。クロエは矢を射た。彼女が送り込んだ矢は寸分もたがわずに、ユキヒョウの首の後ろへ到達した。脊髄の中枢神経を著しく損傷したユキヒョウはびくんと痙攣したあと、断末魔もなくその場に斃れた。

 クロエはすばやく起きあがり、巣穴へと走り寄った。透明化が解除され、すでに彼女の姿は実体化している。巣穴の縁に横たわったユキヒョウの傍らで片膝をつき、検分する。それは雌だった。

 よかった、毛皮はさほど傷ついていない。安堵するクロエ。と、巣穴の奥からか細い鳴き声が聞こえて、彼女はそちらへ首を回した。

 洞穴の暗がりに、一匹の小さなユキヒョウがいた。ユキヒョウの母親は自分の毛を抜いて子どものためのベッドを作る。白い毛を敷き詰めたそこにいたのは、目が開いたばかりの幼体である。その鳴き声は鳥の雛のように甲高いもので、クロエのほうへよちよちと歩いてくる。

 母親の死体に甘えるようにまとわりつく幼いユキヒョウ。クロエはその身体の下に手を差し入れた。あたたかい。片手で持ちあげ、正面から顔を覗き込む。いまは繁殖期の途中だから、ずいぶんと早く産まれた子だ。浅葱色の目に見つめられたクロエの顔に、笑みが浮かんだ。今日はなんて幸運だろう。この子の毛皮で、もうひとつなにか作れる。

 クロエは空いた手のほうで子どものユキヒョウの頭をそっと包んだ。そのまま雑巾を絞るように力を込めれば、容易く殺せるだろう。しかし、彼女はふとためらう。この子はまだ小さすぎる。もう少し成長させれば、より毛皮の使い道が広がるのではないかと思って。

 結局、クロエはユキヒョウの子どもを携えてきた雑嚢へ生きたまま押し込んだ。そうして、彼女は母親から皮を剥ぐ作業にかかった。

 生き物は死んだ直後から腐敗がはじまる。急がねばならない。皮を剥ぐには死体を吊したほうがやりやすいのだが、いまは仕方がない。この大物を背負い、収容所まで下山するなどごめんだった。クロエは切れ味の鋭いナイフを取り出し、手際よく皮を剥いでゆく。それから丁寧に毛皮から肉と脂肪を削ぎ落とした。

 終わったころには、クロエは全身が血まみれである。彼女はずいぶんほっそりとなったユキヒョウの死体を残し、帰途についた。

 強制収容所へは陽が落ちる前に帰ることができた。クロエはまず雑役夫にユキヒョウの毛皮を防腐処理のため塩漬けにすることを命じ、それから警備隊の手が空いている部下を呼んで自室の風呂に湯を張らせた。収容所で専用の浴室を備えた部屋など、ランガー総督以外ではクロエにしか与えられていない。黯の騎士の特権である。

 クロエは連れて帰ってきたユキヒョウの子どもに山羊のミルクを与えてから、浴室へ向かった。汚れた衣服をすべて脱いで、湯に浸かる。

 ひとしきり冷えた身体を温め、石鹸の香りをたのしんだ。そしてクロエは浴槽のそばに置いた小卓から、書類の束を手に取った。湯に半身だけを沈めた彼女は、紙が濡れないように注意しながらその一枚一枚に目を通しはじめる。

 かなりの枚数がある書類は強制収容所で働いている職員の名簿だった。密かに帝国の内務省から取り寄せたそれには、各自の経歴、交友関係、資産の状況などが事細かに記されている。なかにはランガー総督の情報もあった。

 ランガー総督の不正行為が発覚したのは、彼の部下となる職員の手落ちが発端だった。その容疑者は僻地の収容所で働く所員としては、不相応な資産を蓄えていた。人が犯罪に手を染める動機の大半は、カネと相場が決まっている。収容所へ内部査察を行うため派遣されてから、クロエは所員たちの資金源をずっと調査していたのだ。そして思い当たったのは、ゲルヴァークーヘンである。

 強制収容所と併設された精製工場で濃化エーテルは製造されている。しかし現場の産出量と、本国に届けられるはずの提出量に、差異があったのだ。もしそれが意図的なものならば、かなりの量のゲルヴァークーヘンがいずこかへ消えたことになる。誰かがかすめ取り、横流ししている可能性が浮かんだ。

 ゲルヴァークーヘンはマグナスレーベン帝国の国家機密である。欲しがる者は多いだろう。オーリア王国はいうにおよばず、帝国と敵対している周辺国家、あるいは魔術協会もその流出先のひとつと考えられる。

 ランガーには身の回りを用心深く整理しているのか、不審な点はまったくなかった。だが彼に協力し、おこぼれを頂戴している者にまでは気が回らなかったようだ。外堀を埋めたのが功を奏した。

 クロエが目星をつけた所員は彼女の知らない男だった。名前はタウベルト。クロエは手に持った彼の経歴が書かれてある書類を、ぴんと指で弾いた。下手を打ったわね、タウベルト。近いうち、こいつからはくわしく事情を聞く必要がある。

 長湯をしてしまった。クロエはのぼせる前に湯からあがり、浴布で身体を拭いて部屋着に着替えた。そして風呂へ入る前に脱ぎ散らかした服を拾い集め、すべて籐籠に放り込んだ。

 窓へ近寄り、外を見る。クロエの部屋は主棟の二階だ。中央の広場がよく見渡せた。そこの水場ではノアが洗濯をしているのが小さく見えた。クロエは彼が洗濯物を相手に格闘する場面を頭に浮かべて、含み笑いを漏らした。

 黄昏はじめたイシュラーバードの空の下。その日の労働時間も終わろうかというとき、ノアは背後に人の気配を感じて後ろへ振り返った。


「精が出るわね──」


 クロエだった。


「ついでにこれもおねがい」


 洗濯板を使って囚人服を洗っていたノアの横に、どすんと汚れ物が山盛な籐籠が置かれる。ノアはそれを見て忌々しそうに舌打ちした。


「余計な仕事を増やしてくれたな」


 うんざりしつつ、クロエが持ってきた籠の衣服を手に取る。すぐにノアはそれが血まみれであるのに気づいた。


「こいつは……血か」

「今日は狩りに出掛けたの。ひさしぶりにいい気晴らしになったわ」


 とクロエ。


「けっこうなご身分だな。──教えてくれ、おれはこれからどうなる」

「さあ。悪いけど、わたしには捕虜の扱いに口を出す権限がないの」

「この前は助けてくれたじゃないか」

「あのときはそうする必要があったから。単なる方便よ。だけど最終的な裁定はランガー総督が下すことになる」

「ここじゃ部外者ってわけか。帝国の密偵が辺鄙な収容所に留まって、いったいなにをやってるんだ」

「答える義務はないわね」


 クロエは笑いながら言うと、そのまま踵を回した。彼女は去り際に、


「そのケープ、わたしのお気に入りよ。丁寧に洗ってちょうだい」


 ノアは小さく息を吐いてクロエを見送った。それから盥に井戸水を湛え、彼女が持ってきた汚れ物を洗いにかかる。

 クロエが持ってきた籠のなかには、黒いケープ、シルクのシャツ、薄手の脚衣、はては彼女の下着まであった。ノアがケープを手に取ったとき、なにかがぽとりとこぼれ落ちた。地面を見ると、白い石のようなものが転がっている。

 眉をひそめるノア。その透明感のある石には、見覚えがあったからだ。

 まちがいない。ノアがこの強制収容所へ潜入する前、ローゼンヴァッフェから渡された念話石だった。クロエに捕らえられたときに、ほかの所持品とともに奪われたはずのものが、なぜここに。

 クロエの真意を測りかね、ノアはしばらく思案した。なにかの罠か。いや、それはあるまい。もしそうだとしても、いま以上に事態が悪化するとは思えなかった。

 クロエが去ったほうを見たが、彼女の姿はもうなかった。ノアは念話石を拾いあげると、それを水場の洗濯槽の陰にそっと隠した。

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