5-6. 選択
来て、と麗良に差し出されたマヤの白い手を麗良は拒むことなど出来なかった。マヤがされてきた仕打ちを思うと、胸が痛くて痛くてどうにかなりそうだった。
麗良は、自分でも気が付かないうちに泣いていた。涙が頬を伝って落ちていくのをマヤが白い指でそっと拭った。ひんやりと冷たいマヤの指が、もう彼女に残された時間が少ないことを教えていた。
麗良は、両手を後ろ手に縛られたまま何とか立ち上がり、マヤについて部屋を出た。階段を降りてリビングへ入ると、そこにはラムファが待っていた。
「さあ、麗良は、このとおり無事よ。だから、私の鍵を返して」
こちらを向いたラムファは、麗良がこれまで見たことのないほど怖い顔をしていたが、麗良の顔を見て、その表情を少し緩めた。
しかし、すぐ麗良の様子がおかしいことに気付き、険しい表情に変わる。
「レイラに何をした」
まるで声だけで誰かを射殺せそうなほど殺気立っていた。
「何も。私にとっても大事な子よ。傷つけたりするわけがないわ」
マヤの口調からは、何の感情も読み取れない。
「レイラ、大丈夫か。すぐに家に連れて帰ってあげるからね」
ラムファが麗良に向かって話しかけたが、麗良は、ラムファの顔をじっと見つめるだけで何も答えない。その様子にラムファが傷ついた顔をした。
「レイラ……」
麗良の方へと一歩近づこうとするラムファをマヤが遮る。
「さあ、早く鍵を返して」
ラムファは、差し出されたマヤの手を見て歩を止めると、右手を上げて空で掌を翻した。
すると、先程まで何も持っていなかったラムファの指先に、何か固いものが握られている。ラムファがそれを宙に放つと、マヤが両手で受け止めた。それがマヤの鍵であることを確かめると、大事そうに胸に抱えて感嘆の溜め息を吐いた。
「ああ……やっと戻ってきた……これでやっと帰れるのね……」
ラムファはマヤを一瞥すると、何も言わず、麗良の方へと歩み寄る。
「レイラ、さあパパと一緒にお家へ帰ろう」
自分に向かって差し出された色黒で大きな逞しい手を前に、麗良が一歩後ずさる。
「レイラ……どうしたんだ」
戸惑うラムファに、麗良が怯えたような視線を送る。
「私は、死ぬの?」
その言葉に、ラムファの目が驚愕に見開かれた。全身から怒りの気を発している。
「誰から聞いたんだ」
「誰でもいい。答えて。私は、死ぬの?」
ラムファは大きく首を振った。
「レイラは死なない。大丈夫、パパがそんなことには絶対させない」
「だって……《妖精の国》へ行かなければ、私は死んでしまうんでしょう。
マヤの鍵がなければ、行くことなんて出来ない……だから…………」
つまり、マヤの鍵をマヤに返すということは、麗良が《妖精の国》へ行くことが出来なくなるということだ。
それは、同時に麗良の死を意味する。
大丈夫だよ、とラムファが麗良を安心させるように笑って見せた。
「私は帰らない。ここに残る」
「どういうこと」
麗良が問うより先に、マヤが口を挟んだ。そんな答えは予想していなかったようだ。
「私の鍵を使って、レイラは《妖精の国》へ行くんだ。
私は、胡蝶と人間界に残る」
ラムファは、マヤの方を見ることなく、麗良に向かって説明した。麗良の肩に手をやり、視線の高さを合わせる。その目は真剣だった。
「絶対に守ると誓っただろう」
「ご自分が何を仰っているのか、理解されているのですか」
マヤが声を荒げて言うのを無視して、ラムファは、麗良に向かって話し続けた。その瞳が悲しみの色を帯びていくのを麗良は、不思議な心地で見つめていた。
「ずっと考えていたんだ。
私は、胡蝶にひどいことをした。
彼女のために私が出来ることは何か……それは、この人間界に残って、彼女と残りの生をを共に生きることだと」
麗良の胸がずきり、と痛む。父と母が再会し、幸せに微笑む母の姿が頭に浮かんだ。
でも、そこに麗良の姿は、ない。
ラムファは、マヤの方へ向き合うと、決意を固めた顔で言った。
「私の最期の頼みを聞いてくれるね。
レイラを《妖精の国》へ連れて行って、彼女を守ってやって欲しい」
マヤが頭を振る。信じられない、という表情でラムファを見つめる。
「国を捨てるおつもりですか。
あなた自身のお命も……危険にさらすことになる」
「わかっている」
「いいえ、分かっていない」
マヤが悲痛な声で叫ぶのをラムファは悲しそうな目で見ていた。
「そんなに……そんなに、あの人間の女がいいの。
妖精界を……私やレイラを捨てても……」
それは違う、と言って、ラムファが一歩近付こうとすると、マヤが後ろへ引き、それを拒んだ。
「違わないっ。あなたが言っているのは、そういうことよ。
あなたはいつもそう、自分で全てを決めてしまって、私は、後からそれを知るの。
あなたに私の気持ちなんて、きっと分からないでしょうね」
マヤの目には涙が浮かんでいた。
「…………させない。
あなたをあの女と一緒になんて、絶対にさせない」
そう言って、マヤは天を仰ぐように目を瞑ると、何かを決意した顔で最後に微笑った。それは、麗良が今まで見たマヤの笑顔の中で一番美しく、一番悲しい微笑みだった。
「麗良、最後に一つだけ教えてあげる。
私があの人の命令であなたを孤独にしたと言ったのは、嘘よ。
私が勝手にしたこと。
あの人は、ただ自分の娘がこの人間界で寂しい思いをすることのないよう見守ってくれ、と私に言ったの」
マヤは、どこに隠し持っていたのか、その手に黒い拳銃を握っていた。
止める暇もなかった。
マヤは、それを自分のこめかみに当てると、迷うことなく引き金を引いた。
一瞬の出来事だった。
麗良がマヤの名を叫ぶ目の前で、マヤはゆっくりと地に伏せた。
「どうして…………あなたが死ぬ必要なんて、ないじゃない…………」
麗良には、今目の前で起きた出来事が信じられなかった。誰よりも一番近くにいた親友。それなのに、自分は彼女の気持ちが何一つ理解できない。
倒れたマヤの傍に座り込み、麗良は声を上げて泣いた。涙がマヤの冷たくなった身体に落ちても、マヤはぴくりとも動かない。
やがてマヤの身体は、光に包まれるように薄れていき、まるで空気に溶けるように消えていった。
一凛の白いマーガレットだけがマヤの倒れた床に残った。それがマヤの契約していた花だったのだろう。
その花を手に取り、麗良がラムファの方を見上げると、ラムファは静かに泣いていた。
麗良は、男の人が泣く姿を初めて見たと思った。
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