1-6. 父ではなく

 交通量の少ない住宅街の道路を歩きながら、麗良は、自分の置かれた状況と気持ちを整理しようと試みた。


 昨日、突如として学校に現れた不審人物は、実は麗良の父親で、事情はよく解らないが、外国での仕事とやらが一段落したので、これから一緒に生活を共にするという。


(…………全く理解できない)


 きちんとした訳があったのなら、これまで父親の存在を娘に隠す必要などなかっただろうし、何より胡蝶をあのような状態に追い込んだのは、父親という存在だったのではないのか。

 それは、誰かに直接言われたわけではなかったが、父のことを聞いた時の胡蝶の様子や祖父母の態度、そして自分の苗字が良之と同じものであることからも子供の麗良にもなんとなく察せられ、胡蝶と接する上で最も配慮すべき重要なこととなっていた。


 もちろん、生命が誕生するには生物学上両親が必要であり、自分にも父親に当たる存在がいるのだとは麗良にも解ってはいたが、実際に会うことはないだろうと割り切っていたのだ。


(おじいさまは、どうして……)


 実は一度だけ、麗良は、良之から自分の父親についての明白な回答を告げられたことがある。


 それは、麗良が小学校に上がったばかりの頃。同級生のクラスメイトたちには皆、父親という存在があることを知った麗良が、何度も胡蝶と良之にしつこく尋ねた。

すると、いつも穏やかな胡蝶が急に理性を失い、半狂乱になって叫びだした。


 それだけでも、まだ幼い麗良にとってはショックなことだったのに、暴力など一度も振ったことのない良之が怖い顔で麗良の頬を打って、言ったのだ。


『お前に父親はいない』


 それ以来、麗良が自分の父親について口にすることはなくなった。


 半狂乱となった胡蝶、良之の怒鳴り声、そして頬の痛み……それらの光景が何年経っても脳裏から消えず、麗良の心に深い傷跡を残していた。


 自分の父親は、自分が生まれる前に死んでしまったか、何らかの犯罪に関わり会うことが叶わなくなってしまったか、もしくは他に家庭のある人なのかもしれない……と、様々な理由を考えては自分を納得させていた。それを今更現れて迎えに来たと言われても受け入れられる筈がない。


 これから毎日、あの男と家で顔を合わせることになるかと思うと、麗良の気分は沈んだ。


(あまり関わらないようにしていれば、すぐに諦めて帰るわよ)


 そんなことを考えながら歩いていたからだろう。麗良は、交差点に差し掛かったところで、横から乗用車が走ってくるのに気付かなかった。


 突然耳に飛び込んできた大きなクラクションとブレーキ音に麗良が顔を上げると、すぐ目の前に乗用車が迫っていた。

 逃げる暇もなかった。

 ぶつかる、と脳が認識した瞬間、石鹸のようなムスクに近い花の甘い香りがした。


 すると不思議なことが起きた。すぐ目の前に迫っていた乗用車が宙に浮き、麗良の頭上を飛び越えたのだ。

 一瞬何が起きたのか解らなかったが、背後に誰かの温もりを感じて、我に返った。たくましい腕が麗良を強く抱きしめている。

 乗用車は、そのまま二十メートル程離れた先で地面に着地した。


 この花の香りを麗良は、知っている。


「良かった……間に合って」


 心から安堵する声が熱い吐息と共に、麗良のすぐ耳元で聞こえた。同時に、麗良を抱く腕に力が込められる。

 反射的に麗良が身を捩ると、腕の力が緩み、すぐに麗良は解放された。


「あなたは一体……」


 麗良が見上げると、人差し指を口元にあてて、魅惑的な微笑みを称えた悪魔がそこにいた。


「麗ちゃん、大丈夫?」


 後方から青葉が息を切らしながら駆け寄ってきた。


「危ないじゃないか、よく前を見て歩かないと」


 滅多に怒らない青葉に叱られ、麗良は肩をすくめた。どうやら青葉は、先程の光景を見ていないらしい。


 乗用車に乗っていた人には怪我もなく、どこか納得のいかない不思議そうな顔をしてはいたが、麗良の無事を確認すると、謝罪の言葉と共に走り去って行った。


(……助けられて


 麗良は、その事実に愕然とした。認めたくはなかったが、事実は変えられない。もう少し遅ければ、自分は、大怪我を負っていたか、死んでしまっていたかもしれないのだ。


 麗良は意を決し、ラムファに向き直った。


「助けてくれたことには感謝します。でも、私はあなたを父とは呼べません」


 青葉が心配そうに見守る中、ラムファは、麗良の言い分は最もだ、と広い胸を張って答えた。


「私も是非! 〝パパ〟と呼んでもらいたい」


 一瞬、彼らの間を妖精が飛んだような気がした。

 そして麗良は、失礼します、と丁寧なおじぎをすると、きびすを返して走り去った。


「レイラ、待ってくれー! ……ナゼだ? 何故なんだ??

 私は、ただ〝パパ〟と呼んで欲しいだけなのにぃ~…………」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 ラムファが麗良に向かって走り出そうとした瞬間、青葉が彼の腕を掴んで引き留める。すると、ラムファは、泣きながら膝から崩れ落ちた。そのあまりにも憐れな後ろ姿に、彼を引き止めた青葉の良心が少しだけ痛んだ。


「あなた……ふざけているんですか?

 麗ちゃん……麗良さんは、今まで自分に父親はいないと思っていたんです。

 突然あなたが現れて、動揺するのは当たり前じゃないですか。

 どう受け止めていいのか解らないんですよ」


 そして僕も、と呟いた青葉の言葉は、ラムファの耳には届かなかった。


「そうか!  つまり、照れているんだな。

 本当は、この逞しい胸に飛び込んで、パパぁ~! と甘えたいが、恥ずかしさで葛藤していると」

「なんでそうなるんですか……」


 自分で自分を抱きしめて見せるラムファに、青葉が肩を落とした。この男を納得させるのは難しそうだ。


「君は……青葉くん、といったかな。

 もし、レイラの好きなものが何か知っていたら教えてくれないだろうか」

「好きなもの、ですか。そうですね……麗ちゃんは、花が好きで」

「それならもう試した。その結果がこれだ」

「あー……そうでしたね。

 ……あ、あとは、甘いものも好きですよ。

 パンには必ずジャムか蜂蜜をかけて食べるし。

 特に抹茶プリンは、どんなに機嫌が悪くても喜んでくれて」


 そこまで言いかけた青葉は、はたと我に返った。自分は何故こんなことをこの男に教えてやらなくてはいけないのか。

 麗良が家を出た後、颯爽とそれを追い掛けようとする彼を追ってここまで来たのには、ある目的があったからだ。


「そんなことより、僕はあなたに聞きたいことが……」


 と、青葉が改めてラムファに向き直った時、彼の姿は既にどこにもなかった。

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