1-3. 花の香りと闖入者
夕食を終えて、居間で寛いでいると、来訪者を告げるベルの音が鳴った。
依子は既に帰宅し、良之も青葉も自室へ戻っている。
(宅配かなぁ)
麗良がインターフォンから外を確認するも、真っ暗で何も見えない。
華道家である良之と青葉は、よく花材を家まで宅配することがある。麗良は、何の疑問も抱かずに、玄関先へ出て、引き戸を開けた。
麗良の視界を、喪服のように真っ黒なスーツが塞ぐ。甘い香水のような匂いが、鼻先に触れる。石鹸のようなムスクに近い、花の香りだ。恐る恐る顔を上げた先に、黒い髪と、浅黒い肌をした男が立っていた。――学校の校庭に現れた不審者だ。
「あぁ~レイラ! 会いたかったよー!」
目に涙を浮かべた不審者が、両腕を広げて、麗良に抱きつこうとする。麗良は、ぴしゃり、と引き戸を閉めて、それを遮った。
「レイラ?! どうして閉めるんだい? ここを開けて。パパだよ! 君を迎えに来たんだ」
どんどん、と引き戸を叩く振動が、掌から伝わる。麗良は、血の気が引く思いで、引き戸に鍵をかけた。
がちゃり、と錠のかかる音がして、男が慌てた声を出す。
「ちょ、ちょっと待って。レイラ、パパの話を……」
「私に父親はいませんっ」
男の言葉を遮り、麗良が戸から離れる。引き戸の摺りガラス越しに、男の黒い影が動いて見えた。
「私がレイラのパパなんだ。これまで寂しい思いをさせて本当にすまない。これからはパパと、パパの国で一緒に暮らそう」
「意味がわかりません。人違いです。お引き取りください」
警察に連絡をしようか、と考えたところで、がちゃり、と今度は錠の開く音がする。
え、と麗良が思った時には、引き戸が開かれ、隙間から男が顔を出した。
「誤解なんだ。私の話を聞いて……」
男が最後まで言いきる前に、麗良は、引き戸を再び閉めにかかった。男の顔が、戸と枠に挟まれて、ぐへぇ、と妙な声が出る。
一体どうやったのかは分からないが、今はとにかく、この引き戸から手を離してはいけない、と思った。
「ま、待ってくれ、レイラ。 パパは、君に会うために……」
「何なんですか、あなたは……警察を呼びますよ!」
近くで見ると、麗良の頭は、男の肩にも届いておらず、かなり背が高いことが解る。麗良は、助けを呼ぼうと大きく息を吸い込んだ。
「何をしているのかね、騒々しい」
廊下奥にある襖が開き、良之が顔を出した。自室で読み物でもしていたのだろう、老眼鏡越しに目を細めている。
「おじいさま、警察を呼んでください。この人が、今日学校に現れた不審者です」
良之が老眼鏡を外す。玄関の引き戸に挟まれた男の顔を見て、目を見開いた。
「君は……」
「お義父さん、お久しぶりです。ラムファです、約束通りレイラを迎えに来ました」
一瞬、麗良の頭が真っ白になる。思わず引き戸から手を離してしまう。抵抗力を失った男は、思い切り戸を開けて、大きな音が家中に響いた。
――今、この男は、何て言ったの?
「……上がりなさい。こちらで話を聞こう。麗良、その人は私の知人だ。中へ入れてやりなさい」
良之の言葉に麗良は、戸惑いながらも身を引いた。頭が痺れたように思考が働かない。
男は、引き戸の内側へ入ってくると、後ろ手で引き戸を閉め、麗良に向かって笑いかけた。
「レイラ、大きく……いや、綺麗になったね。胡蝶によく似ている」
どうしてこの男が母の名を、と思って顔を上げた先に、存外優しい男の眼差しがあった。
男は、不思議な目の色をしていた。深い森を思わせる色の中に、ちらちらと力強い種火が見え隠れし、麗良は、惹きつけられたように目を離せなくなった。
アーモンド形の瞳には、黒く波打つ前髪がかかっている。チョコレート色の肌に、整った彫りの深い顔立ちは、とても日本人には見えない。
頬骨辺りに、先程引き戸に挟まれた時にできた跡が似つかわしく、滑稽だった。
固まったように動けない麗良の頬に、男が大きく骨ばった手を伸ばす。
しかし、麗良がびくりと身を引いたのを見て、切なげに目を細めると、麗良に触れることなく、そっと手を下ろした。
男は、そのまま麗良の横を通り過ぎ、中へと上がると、祖父の部屋へと入っていった。襖の閉じる音が、麗良に疎外感を与えた。祖父は、家族以外の者を自分の部屋へ決して入れさせない。
取り残された麗良の元には、ふわりと甘い花の残り香だけが漂っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます