16 強行脱出
一夜明け、ペット用のキャリーバッグを抱えた美晴は、病院ロビーのソファーに腰を下ろして、少し前方の何もない床を見つめていた。
心配で仕方がなかったとはいえ、まだ面会時間には早い。
昨日は面会終了が告げられるまで病室にいた。
その時に、明日からは、ペットはキャリーバッグに入れてくるようにと教えられ、閉店間際のペットショップへと駆け込んで、必要なものを買い揃えた。
看護師の手前、鈴音を連れて病院を出たが、すぐに鈴音は病室に戻り、看護師たちに見つからないよう隠れながら、栄太に寄り添って一夜を過ごした。
もちろん、栄太の肉体を保護するためだ。
だから、キャリーバッグの中身はぬいぐるみだったりする。
「あら、美晴ちゃん。こんな時間から、お兄さんのお見舞いに?」
「まあ、暇やったし。兄さん、ひとりで寂しがってたら可哀想やなぁ思て」
声をかけてきたのは昨日の看護師さんだった。
人前では明るく振る舞う美晴だけど、栄太のことを心配して落ち込んでいるのを知っているようで、何かと気を配ってくれていた。
「ごめんね。規則で面会時間が決まってるから、もう少しだけ待ってね。あっ、そうだ。美晴ちゃん、何か飲む? おごってあげるわよ?」
「いや、そんな気ぃ使わんでも……」
「ここの自販機、種類だけは豊富なのよね。この前も新製品が五種類も増えたのよ。いいから、いいから、私が買うついでだから……ね?」
美晴の遠慮を無視して、半ば強引に世話を焼いてくる。
紙パックの爽やかミルクのバナナ・オレを手に、ソファーに戻る。
看護師にしても、危急を要する状況でもないのに、時間外の面会を許可するわけにはいかない。だからせめて、少しでも美晴の気が紛れるようにと気を使って、少しの時間だけでもと話相手になろうとしていた。
とはいえ、「心配ですね」とか、「早く良くなるといいですね」なんて言葉は、却って逆効果になる。だから、無難な話題といえば……
「今日もワンちゃんと来てあげたんだ。鈴音ちゃん、今日もよろしくね」
ファスナーを閉じてあるので中は見えないけど、美晴はドキッとする。
なんせ、中に入っているのはぬいぐるみだ。もし、確認のために開けて欲しいと言われたら、とても誤魔化し切れない。
どうしようかと焦っていたら、いきなりバッグに重みが加わって、ごそごそと動き出した。そして遠慮気味に「わんっ♪」という鳴き声が。
「やっぱり、鈴音ちゃんってお利口さんよね。……そうね、もうすぐ時間だし、先に手続きだけ、終わらせとこっか」
「あー、そうやね。じゃあ、頼んます」
「はい。申請用紙を持ってくるから、ちょっとここで待っててね」
看護師が離れた隙に、美晴はキャリーバッグのファスナーを開けて中を覗き込む。……と、大丈夫だよと言わんばかりの表情をした鈴音と目が合った。
病室の中は、特に変わった様子はなかった。
今日の昼過ぎには、お父さんと伯父さんがお見舞いに来ることになっている。
それで少しは気が楽だとはいえ、美晴の心は晴れない。
看護師さんの目が気になるが、美晴と鈴音は時々栄太に触れながら、早く目を覚ますようにと祈りを捧げていた。
美晴にしてみれば、鈴音に言われて昨日も含めて何度もやっているが、全く反応がないので効果があるのか分からない。でも、他に何ができるってわけでもないので、出来る限りの心を込めて祈り続けている。
お昼の時間が迫り、ご飯をどうしようかと考え始めた時、栄太の身体に異変が起こった。
不意にアラーム音が鳴り、看護師や医師が慌ただしく病室に入ってくる。
「……えっ、なんなん……?」
頭の中では分かっている。栄太の容体が急変したのだ。
でも全く現実感がなく、美晴は呆然としていた。呆然としたまま看護師に連れ出され、休憩スペースで温かいお茶を飲んでいた。
心配そうな鈴音が慰めるように手の甲を舐めているが、それすらも夢のようだ。
気が付けば目の前に父親──
「おい、大丈夫か? 美晴、しっかりしろ」
張り詰めていた心の糸が切れるとは、このことだったのだろう。
少し情けない、だけど優しさに満ちた父親の姿を認識した瞬間、美晴はすがりつくようにして泣き崩れた。
幸い、栄太は持ち直し、事なきを得た。
とはいえ、次に何かあればどうなるか分からないと告げられてしまう。
病院としても、結局は原因が不明のまま、延命措置を続けて様子を見るしかないらしい。
再び病室に入ることが許された美晴は、病院への対応を父親に任せ、栄太の手を握りながら早く目を覚ますようにと必死に祈り続けた……
ネボコが隔離世の境界を切り裂いたことで、俺は無事……と言ってもいいのかわからないが、隔離部屋から出る事ができた。
だが、聞いていた通り、切り替わった風景は混沌としていて、まともに見ていたら気が狂いそうになるような風景だった。これが魔界なのだろう。
簡単に言えば、悪趣味なホラーゲームの世界だろうか。
廃校舎、もしくは廃病院が迷路のようになっていて、所々に怨霊のような姿が見て取れ、気配が感じ取れる。
それに、神経を逆なでするような扉がきしむような音や、コツコツという足音、それに怨霊の声……
精神世界で音が聞こえないことを相談し、ネボコからその方法……というか、心構えなどのコツを教わったのが裏目に出てしまった。
音が聞こえるようになったのはいいが、今度は消せなくなってしまったのだ。
「これ、栄太よ、気をしっかりと持たぬか!」
ネボコが悪霊を切り伏せながら、叱咤激励してくる。
その音や怨霊の叫びなどが、精神を蝕む。
「わかってる。わかってはいるんだけど……」
魔界で悪霊に取り憑かれたらと思うと、無意識に恐怖が沸き上がり、心が委縮して動けなくなってしまう。
いくら何でもビビリ過ぎだろうと自分でも思うが、魂の根源を揺さぶるかような恐怖には抗えない。
「隠世への扉が開くまでの辛抱だ。ワシの衣をつかんで目を閉じておれ」
言われた通り、とにかくネボコの服を握りしめる感覚だけ残して、残りの意識を閉じようと試みる。
成功したのだろうか……
静寂に包まれた暗闇の中、誰かの声が聞こえた気がした。
「……美晴」
ふと、従妹の姿が思い浮かび、その名を呟いた……
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