三日目Ⅲ
※
嫌な予感を抱きつつ、鞄を片手に下駄箱で靴に履き替えて校舎を出ると、サーっとしっかりした雨が降っていた。帰ろうとしたらこれだ。俺が一体何をしたというのだろうか。
傘は無い。周囲に生徒の姿も無い。体育館の方から熱気ある声は聞こえて来るけれど。
スマホで天気を確認したところ、にわか雨のようだ。せっかく比叡先輩と仲良くなったことだし、バスケ部の見学に行って時間を潰すのも手かもしれない。見つかれば射殺されるので隠れて観よう。
そんな死と隣り合わせのエデンへ向かおうとしたところで、人の気配を感じた。
「あっ、牛久さん」
「――た、泰山君⁉ うわっ、きゃあ!」
「お、おち、落ち着いて!」
昨日、保健室でお世話になった牛久さんが校舎から出てきたので声をかけたのだが、これ以上ないぐらい取り乱されたので俺も若干慌ててしまう。
「ふうー……。ご、ごめんね! ビックリしちゃって!」
「こちらこそ驚かしちゃって」
また声量の調整が上手くできていないけど、まあそれが彼女のチャームポイントなのだろう。気にせずに言葉を続ける。
「今帰り? 牛久さんは何か部活入ってるの?」
「ううん、さっきまで保健室の先生とお話していたんだ。それで帰ろうとしたら泰山君が居て……」
「なるほど。俺も用事が終わって丁度帰ろうとしていたところなんだ。そうしたらこの有り様で」
俺は手を上にして雨を示した。少しずつ雨脚が強くなってきている気がする。
「急に降ってきたよね。私は一応、傘持ってきたけど――、ハッ⁉」
「さすが牛久さん、用意周到だね。じゃあ、俺は体育館行って時間潰すから、帰るの気をつけて」
「いえ、あの、いえ! ち、違うの!」
「な、何が?」
どこに否定する要素があったのか。首を傾げて訊ねると、牛久さんは言いにくそうにしながら消え去りそうな声で言う。
「バス停まで……、い、一緒に……、あうあう」
「ん? 牛久さんはバス通なの?」
「うん、泰山君も、たまにバスで通学してるよね」
「雨の日とかは使ってるね。昨日は怪我したから使ったけど」
おかげさまで足はもう治ったと伝えると、顔を上げて微笑んでくれた。本当はというと、まだテーピングを巻いているし雨のせいか少し違和感を感じているけど。
「良かった。でも、雨だから今日もバスで帰る、んだよね……?」
「そうだね。バス停までそこそこ距離があるから雨が弱くなるのを待たないと。そのまま止んでくれたらそれで良いし。じゃ、そういうわけで俺は体育館に行くんで」
「ま、待って! ストップ! ドントムーブ!」
背を向けたらすごい勢いで停止命令が出された。両手を挙げて無抵抗を示し、背中を向けたままゆっくりと鞄を下に置いた。そして、頭に手を乗せて相手を刺激しないよう振り返る。
「命だけは」
「取らないよ! 何も武器持ってないよ!」
「鞄拾って良いですか?」
「泰山君の自由だよ! 目に見えない速さで拾われても何もしないよ!」
「俺に何か用ですか?」
「傘あるからバス停まで一緒に帰ろうって……、あっ!」
勢いで言ってしまったのが恥ずかしかったらしく、牛久さんは口を押さえて顔を赤らめた。
元気良くツッコミをしてくれるし話しやすい子である。朝、丹生さんと命を削って話していたから癒される。
「傘に入れてくれるの? でも、牛久さんが濡れてしまうし俺は体育館に――」
「大丈夫だよ! 大きめの傘だから。次のバス来ちゃうから早く行こ!」
「は、はい」
親切心と声を全開にしてくれているのに断り続けるのも悪いので、俺は首を縦に振った。
それから、できるだけ牛久さんが濡れないように配慮しながらバス停まで歩いたのだが、
「すごい人だね……」
屋根の下に入り切らず傘を片手に溢れているたくさんの人だかり。
このバス停だけでもこれだけの人が居るということは、バスが来たとしても中はすし詰めになっているだろう。
昨日の話では、牛久さんは人混みが苦手と言っていた。教室でもダメなのにこれはもっと無理なはず。
「牛久さん、本屋にでも寄って時間潰さない?」
「えっ、でも……」
何かを気にした様子で俯く彼女。俺が気を遣っていると感じ取ったのだろうか。
「雨も結構強いし雷も鳴っているから歩いて帰るのはきついしね。それに丁度本屋に行きたかったんだ。それか、他に行きたい所ある?」
「う、ううん。じゃあ、本屋さん行こっか!」
顔を上げた彼女が楽しげな笑顔を見せたのでひと安心する。やっぱり可愛い、とも思う。
服屋や雑貨店などもなかなかの数が入っているデパートに到着する。いつもなら平日でも人がいっぱいなのだが、入口付近から見る分に今日はまばらである。天気予報で雨が降ると知っていたからみんな真っ直ぐ家に帰ったのだろう。今日はまだ水曜日なので明日も学校や仕事があるもんな。
「泰山君、これ使って」
そう言って渡されたのは白いハンドタオル。互いに制服がかなり濡れてしまっているので、俺が使ってしまうと牛久さんに寒い思いをさせてしまう。
「ありがたいけど、牛久さんは?」
「大丈夫、もう一枚あるの」
「おお、やっぱり用意周到だね」
「心配性なだけだよ」
こういうのをデキル女と言うのだろう。東大寺さんもやはりその辺りはしっかりされているのだろうな。
少し気になったのでスマホを確認する。まだLINEの通知はない。
「雨止みそう?」
「ん、ああ、えーと、注意報が色々出てるね」
「そっか」
あまりスマホを見ていると早く帰りたいように見えるかもしれない。気をつけなければ。
借りたハンドタオルで制服を拭き、傘を細長いビニール袋に入れて中に入る。
このまま本屋に直行しても良いけど、天気予報ではまだ雨は止みそうにない。長い戦いになりそうだ。
「本屋に行く前に何か食べる? 五階に和風スイーツカフェがあるよ」
「スイーツ⁉ 行きた――、こほん。泰山君も行きたいなら行きたいかな」
「よし、行こうか」
今日一番の笑顔が咲きかけた。美味しいものを食べてもらえば今度はハッキリと見れるかもしれない。ワクワクとしながらエレベーターを使って牛久さんをカフェまで先導した。
結果として、待ち時間も無く入店した俺たちは抹茶クリームパフェに舌鼓を打った。ご満悦顔の牛久さんを見れて俺も満足した。二人それぞれがお金を払って店を後にする。もちろん奢らせてもらっても良かったけど、逆に「何こいつ、私に気があるの? 気持ちわるっ」と思われるので変な気を遣う必要はない。と、全国の中高生男子諸君に伝えたい。
まあ、相手が彼女である東大寺さんであったとしても俺の方が年下だし変に見栄を張るのも……、となるので難しい話である。しかし、そういう日本人らしさを大切にしたいものだ。
ふと思ったが、女子の先輩後輩はどうしているのだろうか。頼りになる先輩女子と、控えめな後輩女子。
――俺の脳内。東大寺蓮華×牛久莉子。
「どう、美味しい?」
「はい、こんなに美味しい抹茶クリームパフェを食べたのは初めてです。東大寺さんに連れて来てもらえなかったら、この味を知らずに余生を過ごしていただなんてゾッとします」
「ふふっ、牛久さんは大げさなのね。そういうところも可愛いわよ」
「か、か、可愛いだなんて! 美人で黒髪ロングストレートが似合って八十デニールのタイツを履きこなした上に泰山君というイケメン素敵彼氏さんがいる東大寺さんにそんなこと言われると恥ずかしいです……」
「本当のことなのに。でも冬薫君は、頭脳明晰誠実値カンストで他の追随を許さないイケメンワンダフル素敵彼氏、だから間違えないでね」
「そ、そうですね! そんな全人類が分かり切ったことを間違えるだなんて……」
「冬薫君の心はアンドロメダ銀河のように広いから大丈夫よ。それじゃ、そろそろお会計にしましょうか」
「あっ、私に払わせてください! お店に連れてきて頂いたお礼に――」
「莉子」
「は、はい!」
「口元、クリームが付いてる」
「えっ、す、すみません! 紙ナプキンですぐに拭きますので!」
「動かないで」
「あっ、なんてスマートな顎クイ……」
「ほら、取れた。ここは私が払うわ」
「そんな! 私なんかが奢ってもらうだなんて!」
「良いのよ。可愛い顔を近くで見させてもらったお礼」
「蓮華さん……!」
――咲き乱れる花畑。
「泰山君、ボーっとして何考えてるの?」
「牛久さん、むしろ店側からお金がもらえるよ」
「えっ、えっ、何の話?」
大学の入試過去問題集、所謂赤本が並んでいる棚の前に俺たちは居た。漫画を買いに来たんだけど、高校生として軽くこのコーナーに顔を出すのも礼儀だろう。
「泰山君はどこの大学に行くか決めているの?」
「んー、漠然とあるけど特にここじゃないとって所はないかなあ。まあ、現状で考えると、ここかな」
手を伸ばして厚みのある本を一冊取る。中をパラパラ流し見したが難しそうなことはわかった。
「わ、国立に行くんだ。泰山君って頭良いもんね」
「今のところはって感じだけどね。私立ならこの辺りかな」
「ほえー、難関校ばっかり。そっか……」
「牛久さんは?」
「わ、私⁉ 私はまだ全然……」
「まあそれが普通だよ。高校に入学して一ヶ月も経っていないわけだし」
「でも、泰山君と同じ大学に……、行ってみたい、かも……。頭良くないけど……」
周りに人はいないのに牛久さんは声を潜めた。
「ああ、目標を高く設定しておくのは良いことだよ。俺も頑張って勉強しないといけないから偏差値高めなところを選んでいるわけで。高い山に登るのと普通の山に登るのとじゃ準備が違うからね。しっかり高い山に登る準備をしておけば、普通の山にいつでも行けるし」
「そう、だね。何があるかわからないし、日頃からコツコツ頑張るよ!」
そう言った彼女の顔は輝いていた。努力を決意した素晴らしい笑顔だ。
「俺、ささっと欲しい漫画取って来るよ。牛久さんも欲しいのあれば先に会計済ませといて良いから」
「うん」
「じゃ、レジ横に集合ってことで」
そう伝えてから俺は牛久さんに背を向けて漫画コーナーに向かう。右と左どっちだったかな。
「ありがとうございました」
小さく声がしたので振り返る。牛久さんがスマホを胸元で握り締めていた。昨日保健室でも見た覚えのある姿だ。
しかし、俺に言ったような雰囲気でもない。少し気になったけど、再び背を向けて右側にある漫画コーナーに向かった。
会計を済まし、ちょこんと待っていてくれていた牛久さんと合流する。
「お待たせ。さて、と」
俺はスマホを取り出して時間を確認する。高校生にはいい時間だ。家で晩飯ができている頃だろう。
「牛久さん、家に連絡した?」
「あっ、忘れてた!」
「あらら。まあ、そう言う俺も連絡してないけど。天気は……」
続いて天気予報を見る。次の一時間は曇りになっているけど、今がどうなっているのかはわからない。窓のないフロアなのでずっと居たら時間感覚もおかしくなってしまう。
「それじゃ、家に今から帰るって連絡して外に出ようか。バスも人が少なくなっていたら良いけど」
「……うん」
エレベーターに向かおうとしたが、牛久さんは何だか乗り気じゃない雰囲気だ。
「まだ何か買うものあった? ついでだから寄って行こうよ」
「う、ううん! そういうわけじゃないの! 帰ろ!」
「それなら良いけど」
遠慮しているのだろうか。でもあまり俺から言い過ぎるのもな。
まあ、今日付き合ってもらったお礼でまた後日にでも牛久さんに付き合っても良いし。
フロアの端にあるエレベーター前でしばし待つ。周りに人がおらず静かなものだ。
到着の合図である灯りを点滅させ、扉がゆっくりと開いた。誰も降りてこないことを確認し、俺を先頭に乗り込んだ。壁がガラスになっていれば雨が降っているかわかったのだが、残念ながら白い壁に囲まれた狭苦しい空間だ。
一階のボタンを押し、誰も乗ってこないのでそのまま『閉』も押した。扉が閉じられ、現在の階を示す電光表示がカウントダウンを開始する。
七から六へ。六から五へ――、
ドゴーン!
突然、地震のような揺れとともに建物内まで響く大きな音が鳴る。
それだけでは終わらず、
「きゃあ!」
牛久さんが悲鳴を上げた。
エレベーターがガタンッと揺れて停止し、中が真っ暗になってしまう。
「やだやだやだやだ⁉ 何、何なの⁉」
「うわっ! 牛久さん落ち着いて!」
パッと白い灯りが点く。どうやら非常灯に切り替わったようだ。
俺の腕には恐怖に震える牛久さんがしがみついていた。
「雷が落ちて停電したのかな? 灯りは点いたけどエレベーターは動いていないみたいだな」
なるべく怖がらせないように現状の把握をする。電力の供給元がバッテリーに切り替わったようなので、近くの階で扉を開けてくれるはずなのだが……、何故かそれは作動していないらしい。
こういう時は全ての階のボタンを押せば良いんだったな。
そう思い自由な方の手でボタンに手を伸ばしたのだが、
「ダメ! 動かないで!」
懇願するように牛久さんが泣き叫んだ。相当動揺しているらしい。
「ここから出れるか試すだけだよ。あとは非常ボタンを押して外に助けを求めなきゃ」
「でも! でも!」
彼女のメガネの向こうにある瞳から涙が溢れ出している。彼女を安心させる前に動こうとしたことに、心をチクリと痛めた。
「一旦座ろうか。ほら」
彼女の体を支えながらゆっくりと腰を落とす。まだパニック状態だけど俺の言うことに従ってくれている。
「大丈夫だよ。日本のエレベーターは優秀なんだ。落ちることなんてほとんどないし、落ちたとしてもすぐに安全装置が掛かって止まるんだよ」
慰めになっているかわからないけど、現状が危険でないことを伝える。小さな体は震えていて反応はないけど聞いてはくれているようだ。
三つ編みを崩さないように優しく頭を撫でる。すべすべで綺麗な髪だと不謹慎ながら思う。俺自身は取り乱していない証である、と良いように言っておこう。
それからも少しの間撫でていると、牛久さんも落ち着いてきたらしくポツリポツリと言う。
「ごめんね……。私、狭い所とか暗い所がダメで……、パニックになっちゃって……」
寝る時も小さな灯りを点けたまま寝るんだ、と教えてもらった。俺はそれを聞きながら軽く相槌を打って頭を撫でる。
そうしていると彼女の震えも止まってきた。そろそろ助けを呼ぶために動いても良さそうだ。
「牛久さん、助けを呼ぶからこのまま座っていて」
返事はない。だけどもう大丈夫だろう。俺は彼女を優しく離して立ち上がった。
まずは階数ボタンを全て押してみる。
押した所が点灯したのでしばらく待ってみたが、エレベーターが動く気配はない。
となると、非常ボタンだ。デパートなので押すと管理事務室に繋がるはず。
ボタンを長押しして反応を待つ。
「……ごめんね」
ポツリと、後ろから声が聞こえた。振り返ると牛久さんが座ったままスマホを握っていた。
「ごめんね、泰山君」
そして、今度はハッキリと俺に向かって謝罪の言葉を口にした。
しかし、謝られる覚えがないので言う。
「別に牛久さんは悪くないよ。突然こんな事態になったら取り乱す人の方が多いだろうし――」
「違うの」
俺は首を傾げる。管理事務室からの応答はまだない。
一度鼻をすすった彼女が言う。
「私、おまじないをしているの。泰山君と……、仲良くなりたい……、一緒に居たいって……」
おもむろに牛久さんはスマホのケースを外した。すると、その隙間から紙切れが一枚落ちる。
「相手の名前を書いて、スマホとケースの間に挟んでいたら願いが叶うんだ。昨日から始めたの」
「それは、すごい偶然だね」
「ううん、おまじないの効果だよ。昨日、泰山君が怪我したのもたぶんこれのせい。私が保健室に居るから泰山君が来るようにしてくれたんだよ」
「まあ、怪我でもしないと保健室なんて行かないからね」
「今日だって、示し合わせたように帰る時間が一緒になって……。すごい雨なのに泰山君は傘を持ってなくて……。バス停が人いっぱいだから本屋さんに誘ってもらえて……」
「…………」
話を聞く。無理に否定する必要もない。
「今だって、私が帰りたくないって思っちゃったから……。泰山君ともっと一緒に居たいと思っちゃったから……。泰山君には東大寺さんがいるから、もうこうやって遊んでくれることなんてないって……」
「東大寺さんのこと知ってるの?」
「うん、一昨日から付き合い始めたって聞いたよ」
俺のプライバシーはどうなっているんだ。牛久さんが誰から聞いたのかはわからないけど、結構噂になっているのかもしれない。まあ、隠すことでもないし俺も大っぴらに動いていたしな。
「泰山君がたくさん告白してるって知ってた。何番目でも良いから、東大寺さんより先に私のところに来てくれていたらなって。でも、そんな後ろ向きだからダメだったんだよね。泰山君みたいに積極的に動かなきゃって、思うんだけど……。私には未練がましくおまじないに頼るしかできなかったんだ」
牛久さんは俺のことが好きなんだろう。
今日一日、とても楽しそうだった。俺も楽しかった。
時折、何かに困ったようにしていたのは東大寺さんのことを思っていたのかもしれない。女子と付き合うことばかり考えていた俺が、そんなことにも気づかなくて情けないことこの上ない。
他の女子と話すことによって、俺の彼女である東大寺さんに嫉妬されることはあるだろうと思っていた。しかし、そうではない。俺が東大寺さんを想うことで、俺を想ってくれている人がつらい気持ちになっていたんだ。
彼女を作ることを高校生活の一部にしていた俺にはこの上なく勿体ない。未だに好きという気持ちがわからない俺には。
ドゴーン!
再び落雷の音。再びエレベーター内は暗くなる。
「いやああああああ!」
「だ、大丈夫だから!」
視界は暗いが牛久さんが座っていた所に寄る。手を伸ばして彼女を落ち着かせようとしたところで、
〝ちょきん〟
ハサミで何かを切ったような音が頭の中に響いた。
「えっ?」
伸ばした手が空を切る。
エレベーターの駆動音とともに灯りが点いた。
そこに牛久さんの姿はなく、エレベーター内は俺ひとりであった。
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