第26話「覚悟はできています」

「立派な答えです」


 悠晴は柔らかく微笑んだ。その顔から、さっきまで浮かんでいた暗い影は消えている。


「きっと、あなたなら素晴らしい魔法少女になると思います。優しくて、強い魔法少女に____あの方も、そうでした」

「あの方?」


 研也が首を傾げると、悠晴はふふ、と笑みを漏らす。


「こちらのお話ですよ」


 *****


 外に出ると、秋の風は容赦なく研也に襲い掛かって来る。


「後日、本部にお連れしますね」

「本部があるんですか」


 魔法少女は会社のようなものなのだろうか、と研也は眉を顰める。給料は最初からもらうつもりなどはないが、そのようなものがあったら魔法少女の夢が崩れていくような微妙な気持ちになってしまう。


「はい。魔法少女だけがアクセスできるところです。なので僕は入れないんですけれどね。後日、お仕事が終わる頃合いを見て案内役を向かわせますので。気難しい子ですが、どうか気を悪くしないでくださいね」


「はあ」


 研也は曖昧な返事をし、通りの時計に目をやる。夜の九時半になろうとしていた。子供たちも心配をしている頃だろう。早く帰らなければ。


「本日はありがとうございました。ご不明な点がありましたら、遠慮なくご来店くださいね」


 時間を気にする研也に気づき、悠晴はそう言って締めてくれた。研也は「ありがとうございます」と礼をして、早足でその場を後にする。悠晴の目につかないところで、鞄の中に入っているスマホを手に取った。メールが何件か入っていた。


 数秒後、彼の足はさらに忙しく動き出した。向かうのは、夜遅くまで開いているドラッグストアだ。


 *****


 明るい音楽は、器具が悪いのか音が割れている。茜空を背景にした観覧車は、不気味なほど黒い。手を包む温かい人肌は、すぐ母親のものだと分かった。反対の手は、くすぐったくなるような柔らかい生地のぬいぐるみ。茶色の熊だ。マスタードイエローのリボンが可愛らしい、テディベア。土産屋に入って一目ぼれし、両親に強請って買ってもらったのだった。


「今日、何食べる?」


 そう問うのは、前を歩く父親だ。今日は背広のスーツではなく若葉色のシャツに身を包んでいる。肩からは、歩き疲れて眠ってしまった弟の立太が顔をのぞかせている。父の歩く振動は心地よいのだろう、幸せそうな寝顔だった。


「うーん、何にしようねえ」


 透き通るような美しい声の主は、今手をつないでいる人物だ。


「鶏肉があったね」

「あったねえ。でも、昨日作った焼きそばが残っているんだよね」

「それは俺が朝飯にしちゃったよ」

「えー、研也さん。あれは立太の大好物なのに」

「ごめん」


 真琴は幸せだった。その幸福感が、今の二人の会話によるものなのか、腕の中にあるテディベアによるものなのかは分からない。理由は何でもいいのだ。この瞬間が永遠に続けばいいのに、と彼女は思っていた。


 遊園地の音楽に溶けそうな、夫婦の会話は何て平和だろうか。

 この平和は、どうして懐かしい気持ちを込み上げさせてくるのだろう。


 突然、耳の奥までかったるく響いていた音楽が消えた。気づくと、前を歩いていた父が居なくなっていた。片手を繋いでいたはずが、その片手は今やだらん、と下がっている。残っているのは、赤黒い空の下にある、廃墟と化した遊園地。手の中のテディベアは、買ったばかりだというのにくったりとしている。あんなに手触りの良かった生地の毛は逆立ち、ほつれた糸が寝ぐせのようにところどころから出ている。


「お母さん」


 隣に居たはずの人物を真琴は呼んだ。母親が居た形跡はない。それどころか、遊園地には人っ子一人いない。


 赤黒い空が、小さな子供の目には不気味に映った。まるで別世界に迷い込んでしまったかのようだ。


「お母さん、どこ?」


 真琴は近くにあったメリーゴーランドに近づいた。塗装の禿げた木馬、馬車。掴まる金属棒や柵には、赤い錆が浮いている。木馬の瞳の部分は窪み、底のない穴が真琴を見つめていた。


 真琴は鼻の奥がつんとした。泣くわけにはいかないと思って、すぐ次の目的地を探す。それならば、あのポップコーンワゴンはどうだろう。あそこで、キャラメルポップコーンを買ったのである。欲しいと喚いていた立太は早々に飽きてしまい、父が頑張って食べていた風景が思い浮かぶ。


 ポップコーンワゴンは空っぽだった。代わりに蜘蛛の巣が張り、新しい客と言わんばかりに引っ付いた虫を糸でくるんでいる。


 真琴は次に観覧車に向かった。四人で乗ると、落ちるのではないかと怖くてずっと母親の腕にしがみついていた。無事に地上には帰ってこられたが、長い間足が震えていた。


 観覧車は動いていなかった。蔦が張り、長い間動いていないようだ。


 真琴は今度こそ、と次の目的地を探す。家族は何処かに居るはずだ。さっきまで一緒に居たのだから。


 その時、突然頭の上から声が降って来た。


「迷子のお知らせです」


 それは、割れた女性の声だった。感情を失ったのだろうか、と思えるほどに冷たい機械のような声。その声が、近くの放送器具から流れてきた。


「肩より長い黒い髪、青い花柄のワンピースに、白のスニーカー、手には黄色いリボンが付いた茶色のクマのぬいぐるみを持った、九歳の女の子を探しています」


 真琴はハッとした。それは、まさに自分の情報だったのだ。


「杉森 真琴ちゃん、お母さんとお父さんがお探しです」


 声にノイズが走った。不気味に乱れ、やがてぶつんと切れてしまった。


 やはり二人は自分を探していたのだ。真琴は嬉しくなって走り出そうとした。しかし、足は思うように動かない。それどころか、視界が妙に低い位置にある。驚いて下を見ると、黒い絵の具をぶちまけたような水たまりができていた。水たまりと呼んで良いのだろうか。粘性のある黒い水だ。妙に生暖かく、ぬめぬめとしている。白いスニーカーは、その水たまりにずぶずぶと沈んでいく。


 真琴は抜け出そうともがいたが、もがけばもがくほど体は沈んでいく。胸のあたりまで沈んだ途端、パッと電気がつくように遊園地に活気が戻って来た。綺麗な茜色の空、楽しげな人々、かったるい音楽。その中で、異様なのはこの水たまりだ。真琴の体はまだ沈んでいく。


「お母さん、お父さん!」


 遠くに、家族の姿が見えた。自分だけが居ない状況が出来上がっていた。母と父が仲睦まじく並び、立太は相変わらず父の肩ですやすやと眠っている。


「お母さん!」


 声が聞こえていないのだろうか。このままでは、完全に沈んでしまうというのに。


「お父さん!」


 父は気づいていないのか。どんなピンチにもすぐ駆けつけてくれるようなあの父が。


 顎が液体についた。何とか腕は出ていたので、近くの地面を掴むが、足が誰かに引っ張られるようにして下に沈んでいく。やがて、手が完全に地面から離れてしまった。真琴は頭まで液体に浸かった。生暖かい、気持ち悪い感覚。


 悪夢だ。


 これは悪夢だ。


 ただ幸せな瞬間を願っただけだったのに。

 それすら許してくれないのか。


 意識は遠のいていく。幸せが戻ることはない。

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