第十一章 ⑥


「自分の奪った命の重さに打ちのめされ、私はしばらくその場から動けずにいました」


 あまりのことに、涙さえ出なかった。


「人の命を奪った自分が生きていていいのだろうか。


 ぼんやりとそんなことを考え始めたとき、はたと頭をよぎったのは初恋の王子様、大事な誓い、握った小指」 


 花嵐の中でその人は自分の細く、白い小指を見つめる。


「桜病は接触感染。


 心の支えとしていた大切な儀式が大きな過ちとなった瞬間でした。


 たった一度の接触。


 でも、一度出た不安は何をやっても消えてはくれません。


 実際に父は私の桜病が元で亡くなっているから、なおさらです」

 

 さらに、父の残していった呪いのような言葉が、彼女の心に深く影を落とした。


――桜は人を死に至らしめる。


「けれども、貴方様だけは何としてでも助けたかった。


 そのために、養父に反対されながらも看護婦になる道を選び、派出看護婦になったのです」


 派出看護婦は隔離の必要な患者を看護することの多い職業。


 その派遣を統括する看護婦会に入れば、桜病といった特殊な感染症を患った患者の情報も手に入れやすくなる。


 そして目論見どおり・・・。


 「私が看護婦になってしばらく、入会していた看護婦会に桜病患者の看護の申し出がありました。


 南山家のご子息が桜病に罹っていて、派出看護婦を探しているらしいと。


 同時に、同じ期に看護婦養成所を卒業した友人にそれを依頼したということも耳にしました。


 私はすぐさま友人に手紙をしたため、南山教授のご子息の看病を自分に代わって欲しい、南山教授に自分を推薦してほしいとお願いしました」


 ――桜病は看護婦も恐れる病。


 同期は喜んで代わってくれた。看護婦会も誰か行ってくれる者がいればよかったのか容易に許可がおりた。


 南山が養父に許可を求めに来たのは予想外だったが、なんとか父も説得した。


「そうして、あの日、あの桜の木の下で貴方様に再会することができたのです」

 

 一瞬生気が戻ったように女の瞳は輝く。


「一目見ただけで、貴女様が初恋の王子様だとわかりました」


 後ろにまとう薄紅の花が誰よりも何よりも似合っていたから。


「でも昔と違うものもあった」


 桐秋の姿が死の匂い漂う、あまりに儚げなものであったこと。


「桜の幻想世界に消えゆきそうな貴方様を現実世界に引き止めるため着物の袖を掴んだ時、


 貴方様の存在を成長してこの身に初めて感じた時、


 絶対に貴女様を死なせないと誓ったのです。


 そしたらどうでしょう、貴女様は私との幼い頃の約束を自分の命を削ってまで果たそうとしてくれていた」


 その声に涙が滲む。


「馬鹿な人。


 でも、私はそれを利用しました。


 貴女様の桜病の研究が実れば、貴女様自身病の治療につながる。


 そう思ったのです。私は自分のすべてでもって、貴女様を支える決心をいたしました」


 そして、それが終われば、早々に姿を消すつもりだった。


 輝かしい未来の待つ貴方様のため、音も無く消えゆくつもりだった。


 人々を苦しめた元凶げんきょうとして独りで死んでゆくつもりだった。けれど、


――貴女様はこんな私を好きだと言ってくださった。


――その瞬間、ずっと胸に秘めてきた宝物のような想い、夢物語のような幼き日の淡い想いが、現実にはっきりとした質量をもって私の心にあらわれたのです。

  

「貴方様が私に視線を向け微笑んで下さるたび、


 貴方様が私に柔らかにふれて下さるたびに、


 私は貴方様への色づく想いに侵されていきました」

 

 最初は桐秋にふれられることに躊躇いがあった。


 治ったと言われてはいても、一度の自分の身体は桐秋の毒になっていたから。

 

 けれど桐秋はその思いを払拭するかのように、心から愛おしそうに、幸せそうに、自分にふれてくる。


 その柔らかな顔は、己の不安をあっというまに悦びへと変えていった。


 桐秋の愛は季節を経るごとに、深く、濃く、あでやかになっていた。


「貴女様にあふれんばかりの愛情をいただいた日々は、まさに天にものぼらんほどの幸福な毎日でした」


 満ち足りた日々を過ごすうち、瞬く間に季節は巡った。


 しかしそれは幸せに向かって歩むのではない。


 薄氷を踏むような道中での夢の如き出来事。


 現実は憂いを帯びて二人に迫る。


「冬になると貴方様が体調を崩されることが多くなりました。


 そんな貴方様をお支えするため、より近くで研究を補佐するうちに、自分の血が貴女様の患っている桜病の治療薬になるのではないかという考えをもつようなりました」


 大まかな桐秋の研究内容は南山から聞かされていた。


 が、あらためてそれを側で確認するうち、幼児期の桜病を患い、克服した自身の血なら、桐秋が患っている桜病の抗体があるのではないかと思い至った。


 決して馬から作らずとも、自分の血からでも抗毒素血清は抽出できるのではないかと。


 しかし何の確証もなく、ためらっている間にも、桐秋は血を吐いた。


 白い雪に赤い花が咲いた瞬間、父が死んだ様がまざまざと思い出され、真っ暗な恐怖が身を包んだ


「貴方様が血を吐かれた日、迷っている時間はない。


 可能性があるならと、私はその日のうちに診療所に戻りました。


 父の研究資料をみていた養父なら、何か分かるのではないかと思ったのです。


 養父は知っていて黙っていたのだと言いました」


 西野は亡き友の子が、自身の妻を殺した病の元凶であることを知っていた。


 それでもなお、その子を娘として愛してくれていた。


 だからこそ、もうこれ以上、娘を桜病と関わらせまいと口を閉ざしていたのだ。

 

 女子は唇を噛みしめる。


「養父は馬で抗毒素血清を作っているのならそれを待ちなさいと言ったのです。


 これまで育ててくれた父が、必死に諭す姿を前に、私はそれ以上何も言えなくなりました」


――しかし


「馬からできる抗毒素血清を気が気でもなく待ちながら、その間にもどんどんと悟りを開いたかのような顔になる貴方様を前に、私は遂にそれすら待つ余裕がなくなりました」


 そのうえ、研究を急いで欲しいと南山に訴えにいった先で、馬から作られる抗毒素血清に副作用があると伝えられた。


 南山から告げられた言葉に、必死に押さえつけていた感情のせきが決壊した。

 

 そこは母が死んでこの方、満ちることのない大きな大きな湖だった。


 己の罪を自覚してからは感情をせき止める大きな堰さえできていた。


 そこから外に流されるのは選び出された正しい感情だけ。


 それが看護婦の西野千鶴を形作っていたもの。


 他者からの好意を受けていた自分。


 桐秋の前でもそうあろうとした。


 だが、桐秋だけには上手くいかなかった。


 桐秋の一挙手一投足は、心を散り散りに乱す。


 決して選択などさせてくれない。


 桐秋の言葉ですぐに涙があふれるし、桐秋の行動で自然と笑みがこぼれる。


 心のままに感情が垂れ流されていくのだ。


 けれど、想いは発露はつろしていくのに、それ以上の想いを桐秋がくれるからそこはいつも満々と満ちていた。


 内なる湖はあっという間に正負せいふ入り交じる桐秋への想いでいっぱいになっていたのだ。


 最後は、桐秋を想うが故の感情の激流に堰は押し流され、崩れてしまうほど。

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