第十一章 ①

 柔らかな風が吹き、どこまでも広く青い空に幾千、幾万の花弁が舞う幻想的な春の景色。


 花びらの母となっているのは、大きくはないが、幹にびっしりとついた苔が、生きてきた年月を物語る山桜。

 

 その木は老いてなお、枝にたくさんの子ども達を抱え、生命力を誇示こじするようにそれを咲かせている。


 ここは他と隔絶された世界。


 喧騒けんそうは遠く、聞こえるのは春鳥の愛らしい鳴き声のみ。


 その世界に存在する女は、見事に咲き誇る桜を間近に見たくなり、足元おぼつかなく木に近づいた。


――一切が自分にとっては毒になる花。けれど世界で一番美しく愛おしい花。


 正面に立つ山桜やまざくら枝垂しだれ桜でもあるのだろうか。


 大枝は天に向かって伸びているのに、その先にある小枝は細く、花の重さもあってか、腰を折るように曲がっている。


 けれども、それは強い風を受けても折れはせず、しなやかに花を揺らし、儚くも力強い美しさを作り出す。


――こんな風に柔軟に生きることができたら今の状況を作らずに済んだのだろうか。

そのように詮無せんなきことを思っては、すぐに打ち消す。


 後悔はしていない。


 当初の目的は果たしたのだから。


 そんなことを考えるのもこれで最後にしよう。


 そして、最後だからこそ自分の体も心も縛ってきたこの木には、自分が愛した人に重ねた花には、知っていて欲しい。


 もうすぐこの孤立した世界からもいなくなる独りの女の秘めた想いを。


 女は母なる木に向かって語りかけはじめた。


「桐秋様、覚えておいでですか、幸せだった幼い日々のことを。


 私は今でもあの香ばしく甘酸っぱいクッキーの味も、


 桜が一斉に散るときのすべてを飲み込みそうな音も、


 桐秋様の見守るような柔らかなまなざしも、


 永遠のものと思えた指切りをした時の体温も、


 昨日のように思い出されます」


 女子は思い出すように遠くを見つめる。

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