第五章 ⑥

 桐秋に本心を打ち明けてからも、中路の態度は変わらず、何事もなかったかのように訪問医としての仕事をまっとうしている。


 千鶴にはあの日、唇から血が滲んでいることを心配されたが、桐秋は乾燥して切れたのだとうそをついた。


 本当のことを言うわけにはいかない。


 そしてむかえた中路の代診最後の日。


 千鶴もそのことを知っており、朝食の席では寂しくなるとこぼしていた。


――彼女の中で、何か答えは決まったのだろうか。


 この日もつつがなく診察が終わり、桐秋は最後に中路に礼を言う。


 個人としては心にわだかまりがあるが、医師としてはしっかりと診て貰った。


 そこは筋を通さなければならない。中路も桐秋の礼をにこやかに受けとった。  


 中路が挨拶をして部屋を出ると、見送りをしてくると千鶴が続く。


 千鶴が廊下に続く桐秋の寝室の扉を閉めた後、桐秋は反対側の外廊下に周り、隣のちゃに入る。


 いつも千鶴達が食事をとる場所であり、洋間の隣の部屋。


 桐秋の寝室と、洋間に挟まれた部屋である。


 桐秋は洋間側の壁にもたれかかり、胡坐をかく。


 今週の初め、中路が今日、千鶴の返事を聞くのだといった時、中路から隣の部屋で話を聞いていてほしいといわれた。


 意図はわからない。


 千鶴に対する気持ちを桐秋にあきらめさせるためか。


 はたまた・・・。


 話を盗み聞きすることは千鶴に悪いと思い、桐秋は直前まで悩んだ。


 が、結局今ここにいる。


 今日も家全体の窓は開け放たれており、洋間に入った二人の声が桐秋の耳に入ってくる。


「千鶴ちゃん。この前の話は考えてくれたかな」


 そう問う中路の声は優しいものではあったが、はじめから本題を切り出した。


 しばしの沈黙の後、緊張している千鶴の声が聞こえた。


「まず、私のことを好ましいと思ってくださったこと、大変驚きましたが、純粋じゅんすいにお気持ちは嬉しかったです。


ありがとうございます」


 千鶴はゆっくりと、誠実せいじつに、自分に求婚してくれた中路に対し、言葉を選び、話す。


「しかし私は今、桐秋様の看護をさせていただいております。


 私はこの仕事に真剣に取り組んでおり、そうとは考えておりません。


 ですので、看護婦として先生の地元に行くお話や、配偶者として迎えていただくお話、お断りさせてください」


 相手を気遣きづかいながらも、はっきりと断る千鶴の声に桐秋は心の底でそっと安堵した。


 そんな千鶴に中路は言い募る。


「そういうことであれば、桐秋様の看護を続けてもらって構わない。


 来てもらうのは、終わってからでいい。


 ここには長くはいられない。


 それは君も分かっているだろう」


 中路の言葉が桐秋の胸にくいをさす。


 遠回しに、けれども確実に、自分の命が長くないことを告げられている。


 そしてそれを千鶴もわかっていることだろうと。


 しかし、


「いえ、必ず。


 桐秋様の病は必ず、治ります。


 私は桐秋様が良くなるまで看病を続けます」


 千鶴は今までに聞いたことがないほどに声を荒げて、中路が言ったことをきっぱりと否定する。


 どこまでもどこまでも、自分の想いを貫こうとする頑是がんぜない子どものような。


 桐秋はいつもと違う千鶴の声音こわねに驚くとともに、その声で放たれた桐秋を思う言葉に、くるおおしいほどの愛しさが募る。


 桐秋の手が心ともなく着物の上から胸の中心を掴む。


 なめらかで手ざわりのよい柔らかな絹の感触が、桐秋の手いっぱいにひろがった。


 しばらくして、千鶴は落ち着いたのか、普段どおりの声で再び話しはじめる。


「それに私は、中路さんがおっしゃってくださったような看護婦ではありません」


 千鶴から発せられた思いもがけない言葉に、桐秋は再び壁側に意識を向ける。


「私は、看護婦としてまだまだ未熟です。


 それでも、その時、その時に、自身に行える最善さいぜんで患者さんに尽くしてきました。


 誓ってそれは間違いありません。


 ですが、私が、看護婦である理由は、たくさんの患者さんを救いたいからだとか、一人一人に寄り添いたいからだとか、そんな殊勝しゅしょうな理由ではありません。


 とても自分勝手な理由なのです。


 今もそれを叶えるためにここにいます。


 ですから、私は、中路さんがおっしゃるような立派な看護婦ではありませんし、絶対にここを離れるわけには参りません」


 後半になるにつれ、千鶴の語気は強くなっていき、最後の一言には誰も動かすことのできないいわおを思わせる重量があった。


 きっと今はあのまっすぐな意志をもつ瞳で中路を見つめている。


「何より、私には心に想う方がいます」


 力強い口調から一転、ぽつりと空気に吐かれた、千鶴のつぶやきともとれる小さな声。


 普通ならば、隣室にいる自分には聞こえないであろう声。


 けれども、それはあまりに揺るぎないものとして桐秋の胸に突き刺さる。


 そうか、その可能性もあるのかと桐秋は思う。


 まさに青天の霹靂へきれきだった。


 自惚うぬぼれているわけではないが、千鶴に想っている人間がいることなど考えもしなかった。


 普通、想う相手がいるなら、休みを取って会いに行ったり、手紙の一つでもやり取りするだろう。


 だが、千鶴はここに来てから、そういう素振りも見せていない。


 だから勝手に千鶴のすべてを独占できているような気がしていた。


 桐秋の頭に千鶴が語った初恋の話が思い出される。


 千鶴の想う相手がそこにいる気がしたのだ。


 桐秋が目には見えない千鶴の想い人のことを考えている間に、洋間では千鶴が絞り出すように中路に最後の断りを告げていた。


「申し訳ありません。いただいたお話はお受けできません」


 静寂せいじゃくな時が続く。


 しかし、千鶴の姿に決心が硬いことを知ったのだろう、中路の声がひびく。


「分かった。君にも譲れない想いがあるんだね。


 そういうところも千鶴ちゃんらしくて僕は好きだったんだ。


 一生懸命考えてくれてありがとう。


 お元気で。


 後は頼みます」


 中路は最後にそう言うと、想いを置いて、部屋を静かに後にした。

 玄関の扉が閉まる音がしてしばらくすると、隣室からはすすり泣く声が聞こえてきた。


 桐秋は現実に意識を戻す。


 優しい彼女のことだ、中路のことを思って泣いているのだろう。


 自分がどう思っている相手であれ、人を傷つけたことに傷つく、細やかで憐れみ深い女性だから。


 終わりに中路が放った言葉は、千鶴にとっては、桐秋のことを看護婦として頼むという意味に捉えたかもしれない。


 が、実際は隣で聞いていた桐秋に向けられた言葉。


 彼はこうなることが分かっていたのではないかと桐秋は思う。


 好きだったからこそ、こうして彼女が泣いてしまうことも分かっていたのだ。


 そのために隣に自分を待機させていた。 


 千鶴の発した言葉で中路は振られ、桐秋は心乱された。


 それでも、一人の乙女に振り回された二人の男が祈ることは一つ。


――柔らかな乙女の心に、一秒でも早く平穏が訪れますように。


 桐秋は隣の部屋から願うことしかできない。


 千鶴は自分が傷つき泣いていても、桐秋がこのことに介入することを望んでいない。


 背中を預けている薄い壁がなければ、彼女のことを抱きしめられる距離。たった幾寸いくすんかの距離だ。 


 でもそれはできない。


 だが、泣いている千鶴を独りにはしたくない。


 ならば彼女が泣き止むまではと、桐秋はその場にとどまり、天井の雫のようにも見える木目もくめを静かに見上げるのだった。

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