第五章 ①

 暑さは盛りを迎え、湿り気を帯びた土はじっとりとした空気を生みだす。身体にも、心にもこたえる季節。


 千鶴ちづるは気分だけでも暑さを和らげようと、午後の休憩にビードロの杯に氷を浮かべた涼しげな白い飲み物を用意する。


 桐秋きりあきがその色に


「牛乳か」


 と尋ねると、千鶴は首を横に振る。


乳酸菌飲料にゅうさんきんいんりょうというものです。母屋の女中さんから栄養があり、おいしいとお聞きしましたので、原液を少し分けていただきました」


 乳酸菌飲料。確か腸の調子を整えるといううたい文句で、一年ほど前に販売されたものだったか、と桐秋は思いだしながらそれを口に運ぶ。


ごくり、一口喉のどを滑らせる。


――甘いな。


 初めて飲んだ感想はそれだった。


 しかしどこか酸味も感じ、後味はすっきりしていて上手い。


 桐秋はそのままごくごくと乳酸菌飲料を飲みながら、眼だけをちらりと横に向ける。


 そこにはいつものように桐秋の口元を注視する千鶴の姿。


 くだんのことがあってから、千鶴に何度か視線を外すようにお願いした。


 が、千鶴は桐秋の食べ具合がどうしても気になるようで、言われたことを守ろうとしながらも、つい見てしまう。


 したがって今は、桐秋が慣れてきたこともあり、千鶴の好きなようにさせている。


 されど今日は、桐秋の飲み具合というより、飲み物自体が気になっているらしい。


 視線がグラスの液体に注がれている。桐秋は千鶴に尋ねる。


「どうした。これに気になることでもあるのか」


 その問いに千鶴はもじもじと手の手根しゅこん部をすりあわせ、ためらいながらも気になっていたことを口にする。


「その飲み物は、初恋の味がするそうです」


 千鶴の思いがけない言葉に桐秋は


「は・・・」


 と気の抜けた声が出る。


 千鶴は頬を赤らめ、恥ずかしそうに告げる。


「昨年その乳酸菌飲料が発売された時、雑誌に初恋の味がすると書いてあったのです」


 桐秋は千鶴の言葉に呆気にとられながらも、ふっと目を細め、硝子がらすの入れ物を手に尋ねる。


「まだ残りはあるのか」


 千鶴はあと一杯分残っていると答える。


 それを聞いた桐秋は、


「そうしたら君も飲んでみればいい」


 と千鶴にすすめた。


「これは桐秋様のためにいただいたものなので、私は結構です」


 そう言って千鶴は固辞こじするが、桐秋は


「私には甘すぎてこの一杯で十分だ」


 と告げる。


 千鶴は逡巡しゅんじゅんする様子を見せながらも、好奇心には勝てなかったのか、台所に下がり、同じものを持ってくる。


 千鶴は未知なる液体を前に居住まいを正し、熱い茶を飲むかのように右手を器の横に添える。


 初めてのものにどきどきする気持ちを抑え、グラスを正面から見据える。


 意を決し、そろりと口に含むと


「おいしい」


 とはじける笑みを浮かべた。そんな千鶴に、桐秋は少しからかうように尋ねる。


「初恋の味はしたか」


 千鶴は問われた後、目を一度ぱちくりとさせ、もう一度それを口に含む。


 よく味わうようにしてごくりと飲み込み、ひと息置いた後、ぽつり、ぽつり答える。


「桐秋様がおっしゃったように、とても、甘い味がいたします。


 ですが、その中に少しの酸っぱさも感じます。


 これが初恋の味、というならば、そうかもしれません。


 私の初恋も、素敵な甘い思い出の中に、少しだけ、気恥ずかしい、甘酸っぱいような思い出がありましたから」


 千鶴は昔の思い出に浸っているのか、長いまつげに影を作りながら、グラスの氷を指で回す。


 千鶴にしては珍しい、少し行儀の悪い行い。


 けれどそれは、一瞬垣間見えた千鶴の“素”の姿。


 思いもしなかった千鶴の初恋の話に、桐秋は短く


「そうか」


 とだけ返す。


 桐秋は少し胸がつかえる想いがした。千鶴の初恋の話を聞いたからだろうか。


 想いを流し込むように、桐秋は残り一口分の白い液体を喉に通す。


 が、それは原液が混ざり切らず、底に残っていたものだったのか、甘く、重く、喉に残る。


 先ほど感じたすっきりとした甘さとは違い、とても甘苦あまにがく不快なもの。


 今の桐秋の心のように思えて、少しのいらつきを感じる。


 どうにもならないモヤモヤを少しでも解消するため、桐秋は最後に残ったどこまでも澄んだ氷片ひょうへんを、歯で強引にかみ砕いた。

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