第5話 和室の死体 被害者の発見

 とりあえず、必要なのは現状の分析だ。

 この世の中には不可思議な事象というものは存在しうる。俺の圧倒的な不運体質と同様、それが極端な確率の偏りや極度の偶然の産物と名付けられたとしても、不可思議に見えるだけの純粋な物理作用の産物であると仮定するとしても、不可思議に『みえる』事象の存在は疑い得ない。そうである以上、考えうる可能性とリスクは広く検討しなければならない。

 公理さんの言う事を前提とすれば、俺はあの呪いの家によって魂が真っ二つになった、と仮定する。それによってもたらされる効果は何だ?

 現状、九里手柚の名前を呼ぶと頭痛がする以外には、目に見えた不具合はない。あの坂で、声は『柚』を助けてほしいと叫んでいた。それと関連するのだろうか。

 頭痛の他に、俺に何か支障はあるのだろうか? この現象は無視できる類のものなのか?


 俺は幽霊が見えない。これまでも悪霊に取り憑かれている言われることは何度もあった。けれども気にはしなかった。そもそも俺の不運は通常起こり得ないレベルの不幸を次々と俺にもたらす。1つ2つの幽霊如きが追加されたくらいじゃ、大して変わりはしないだろう。むしろその事象自体が俺の不運の発露にすぎない。

 確かにあの家はヤバかった。近づくだけで不穏が渦巻き、死の香りがした。けれども、今の状況に俺の予兆は反応していない。すこし首筋がピリピリするくらいだ。危機が迫っているとは感じられない。

 だから取り立てて、俺の主観に問題は生じていない。幽霊が見えない以上、幽霊の存在を前提として話されても、いまいちピンとこない。その幽霊が独自にもたらす不幸が見えない。

「公理さん、これ、ほっといたらまずい系?」

「俺からするとさ。ほっとくとか意味わかんないくらいヤバいんだけど。ハル的には問題ないの?」

 信じられないとでもいうように、公理さんの眉間にシワが寄る。公理さんはだいたいヘラヘラしてるから、こんな表情は珍しい。客観的にはそんなにヤバく見えるのか?

 冷蔵庫から出したコーラをカップに注ぐ。ふつふつと湧き出る泡を見つめながら考える。

 異常事態を土台として推論をすべきではない。混乱が深まるだけだ。立脚すべき日常を忘れてはならない。ふと目を移せば、公理さんの背後の窓の外ではさらに闇が深くなっていた。

「すこし嫌な感じがするくらいかな、普段と大して変わらない。幽霊は見えないし、影響は感じない」

「正気と思えないよ。昼にハルが言ってたみたいにさ。その扉の奥、もの凄い量の幽霊がうろついてて、たまに千切れたやつがハルを捕まえようとしてた。……こちら側には来れないみたいだけど」

 公理さんは俺の背後から目をそらし、目頭を押さえた。あのリビングに大量の幽霊がいたのだろうか。やはりピンとこない。

「幽霊が? じゃあなんで公理さんは怖がってないんだ」

「……あれ? なんでだろう。そういえば嫌な感じは扉から漏れて来てないな。幽霊も」

 公理さんは幽霊が怖い。なのに先程は、それほど怖がっている様子はなかった。柚を助けようと必死だったとしても、怖くないわけではないはずだ。


 おそらくそれが問題の所在だ。

 あの坂道の圧倒的な嫌な予兆は、現在なりを潜めている。公理さんの顔色も、通常と変わらない。

 あの家はヤバい。だからあの家と繋がっていると言われてみれば、背側が少し涼しいような気もしなくはない。けれどもせいぜい、その程度に収まっている。だから今の時点で、実際にこの扉には危険性は乏しいのだろう。

 扉とやらがフィルターの役割を果たし、この現実とあの呪いの家を分けているんだろうか。その仮定の上で、このフィルターが破壊し、直接あの家に繋がることはあるのだろうか。

「でも、やっぱり正気と思えない」

 公理さんは俺の斜め上を睨みつけた。

 そうすると、問題はこの状況が変化するかどうかだ。

 あの家を思い浮かべる。このままの状態を保てる、つまり悪化しないのであれば問題を感じないない。見えない幽霊が1つ憑くのとかわらない。けれども俺はある意味、経験則としての俺の恒常的な不幸を信頼している。全ては悪い方向に転がっていく。何かの切掛であの家と繋がるのならば、あの恐ろしい予兆が現実のものとなるのだろう。

 ゾッとしない。

 今その予兆がないということは、現時点では危険性が乏しいということだ。それならば今のうちに何らかの対処を取るのが得策だ。けれども。

 そもそもこの家の幽霊とやらを何とかする方法はあるものなのだろうか? 家の幽霊を俺から引き剥がす? その意味するところすらわからない。積極的にあの家に係わるのも気が引ける。

 手がかりとなりうるもの。情報として知ることができるもの。

 あの家は一体何なんだ。


「家に住んでるやつとはどんな関係なんだ?」

「柚……あ、こめん、友達は辻切のアパレルで靴売ってるんだ。ふらっと店に入って靴の相談してたら仲良くなってさ。それで俺のお客さんにもなってくれて、たまに一緒に飲みに行ったりするんだよ」

「なんであの家に住んでんの?」

「家賃がべらぼうに安いんだって。一軒家で月1万8000円」

 正気かよ。

 その値段で住んでるってことは、ヤバい家と知って住んでるんだよな。

「その人、幽霊見えたりすんの?」

 公理さんは怪訝そうに首をひねる。

「どうかなぁ? そんな話はしたことないけど。でもあんな家にいたんじゃ、今は見えなくても、そのうち見えるようになりそうな気はする。霊障っていうのかな」

 霊障。それも俺にはわからない。これだけ不幸が寄ってくるのに、その霊的なもの自体を感じ取ることは、俺にはできない。

「とりあえずもう一回見てみよう。見るだけなら、今のところ、影響はなさそうだ。情報が欲しい」

「……俺も扉の中をよく見とくよ。今度はやばそうな時以外声かけないから、なんかあったら手を握って。俺もなんかやばそうだったら握り返すから」

 セーフティワードみたいなものか。ヤバい時に中断する合図にする。

「手慣れてるな」

「まぁ、幽霊怖い。怖くて声がでなかったり、するし」

 公理さんは椅子を運んで俺の前に座り、両手を俺の手のひらに重ねた。

 公理さんの真剣な目はすでに、俺の肩ごしに扉とやらを見据えている。

 意識をリビングに切り替える。


 周囲を見回す。

 俺がいるのは18畳ほどのLDKだ。ひとりで住むには広い。そして特に異常は感じない。そのことに胸をなでおろす。

 先ほどと同じ風景。右手がキッチンで正面がリビング。リビングに設置されたオフホワイトの合皮のソファに女が寝転んでいた。これが柚だな。

 イヤフォンをしている。音楽でも聴きながらスマホをいじっているんだろう。柚の前に立つが、こちらに気づくそぶりはない。痩せ気味で顔色は少し悪く、不健康そうだ。けれどもこの程度であれば、まま見かけるレベル。俺の顔色もどっこいどっこいだろう。無理やり病院に連れてこうという程度には至らない。黒Tにジャージの下。部屋着だ。マニッシュショートなのもあって、雰囲気は少年のようだ。柔らかそうな黒髪。大人しそうな少し面長の顔立ち。

 3分ほど眺めていたが、動きはない。

 周りを見渡すと、俺の手のひらの上にのせられた公理さんの手のひらがビクリとゆれた。ヤバいものでもみえたのかな。握るというほどではないから、続行可能なんだろう。

 キッチンを背にして、リビングの左手側にはふすまがある。白い壁を切り取る2枚の白い襖。開けようと思っても触れない。けれども手は襖をすり抜けた。

 俺はこの家では幽霊でもなっているのだろうか。

 それならば通り抜けられるかと思って襖に顔を突っ込んだ瞬間、思わず公理さんの手を握りしめ、あわてて目を開けて意識を戻した。

「どした? ハル、大丈夫?」

「なんで」

 荒くなった息を整えるのに少し時間を要した。心臓が止まるかと思った。

 和室で見たものは予想外のものだった。

 幽霊屋敷というのは過去に誰かが死んでそれが綺麗に片付けられて、新しい人が住んでるものだよな? だからあんなものがあるなんて思ってもいなかった。

 その和室は全体的に暗かった。けれども襖に小さなすき間が開いていた。4センチほどの細い光がリビングから和室に差し込み、黄みをおびた温かな光が畳の目に沿って伸びていた。そして到達した六畳ほどの部屋の中央。そこには人の体があった。


 女の死体。


 死んでた、よな? 恐らく。

 記憶を回帰しての結論。

 ワンピースのような服を着て、臀部の盛り上がりからはうつ伏せの状態だ。頭だけがこちらを向いて、目を見開いていた。

 ……和室の電気は消えていたからはっきりとはわからなかったが、マネキンとかでは感じない生々しさがあった。

「ハル?」

 うろたえた声に目を上げる。

「多分、死体があった」

 公理さんは目を丸くする。

「女の人だと思う。そっちは何か見えた?」

「死体……? ん。俺の方は霊がうじゃうじゃ見えた。マジ、正気じゃない。ねぇその死体、俺も見たい。そうだ、振り返って」

 公理さんは俺の後ろ側しか見えない。それなら俺が後ろ向きに和室に入ればいいのだろうか。

 それともあの死体自体もリアルな幽霊なんだろうか。いや、俺は霊が見えない。だから、やはりあれは実体を持つ死体なのだろう。

 それを確かめるためにも、もう1度あの家に入ったほうが良さそうだ。今のところ、不運の予兆はない。気は向かないが仕方がない。

「後ろ向きで部屋に入る」

「わかった、あとさ。ハルの視線の見てる方向によって見える範囲が違ってくる。指示出すかもだけど」

「了解」

 再び俺の手のひらの上に公理さんの手のひらがのせられる。その手はわずかに震えていた。俺は前方を見張り、公理さんは後方を見張る。何かあれば目を開き、呪いの家を緊急脱出する。

 目を閉じ、再びあの家に入る。

 和室の襖の前まで移動し、襖に顔を差し込む。薄暗くてよく見えないが、やはり女は死体にしか見えない。目玉が全く動かない。瞬きもしない。あらかじめ予想していたからか、先ほどのような驚きはない。けれども死というものは酷く嫌な気分にさせる。

 目を凝らす。袖のないワンピースに長い髪。浮かぶ苦悶の表情のまま、固まっている。おそらく苦しんで死んだ。

 リビングの方に向き直った瞬間、公理さんはうめき声を上げ、手のひらがさらに震えた。

「少し、しゃがんで」

 そのように意識を向けると、視点が下がる。本当にゲームみたいだな。正面には柚。相変わらずソファの上に寝転び、スマホをいじってる。

 あれ? 変だな、なんか違和感がある。空気にチリチリとノイズが入に始める。頭の中にもザァザァと異音が鳴り始める。

 なんだ? ヤバいのか? けれども手のひらに動きはない。

 その瞬間、背中にぺたりと手が置かれた。肩甲骨を撫でる……子供の手?

 公理さんの手のひらがぴくりと震え、キュッと指先に力が入る。その瞬間、首筋の違和感が強まる。これは不幸の予兆。

「公理さん? ……おい公理さん」

 返事がない。おかしい。

 肩にポンと手が置かれた。

 手?

 感触として、指が前。

 後ろから肩を掴まれた。掴んだ?

 俺の前面は現世にあるはずだ。

 扉を越えてきたのか? そろりとしたその感触は、昼に坂で見た瘴気を思わせ、そしてそれは散らばりながらぶわりと膨らんだ気がした。

 何だ?

 誰だ?

 何が起こっている?

 肩を中心に、ぞわりとした怖気が広がる。

 瞬間、狂ったような甲高い音が響く。背中から聞こえる泣き叫ぶような音。

 それが聞こえた刹那、首筋から耳元まで痙攣し、全身が総毛立つ。

 急いで目を開けた瞬間、意識を失った公理さんが俺のほうに倒れ込んできた。

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