自由と信念と友とⅡ
僕が目を覚ますとタローは起きていたらしく、こちらを見ていた。朝焼けのガラス戸は紫色で、戸を開くとタローは草の上に降りてしっぽを振った。僕は一度フェイントをかけて、ゴムボールを思い切り投げた。稜線の淡い山々には遥か及ばず、雑木林の前に落ちた。タローは草原を駆けていった。空の黄色が広がっていくのを眺めるうちに、タローは帰ってきた。僕は〈早かったね〉と褒める。
山の家が建つと、僕はそこに移り住んだ。関東では山の家と六本木との二拠点で過ごしていた。
察しの良いタローが吠えた。家事手伝いが来たのだろう、近所の実家に引っこんでいた後輩のニケに依頼していた。入ってくると僕は挨拶をした。数日空けていたためか表情が明るかった。
「おはようございます。集会(サバト)はこちらで?」ニケが挨拶した。
「魔女かいな」
「こんな家政婦は嫌だ――どんなでしょう?」
「ええと、……勤め先で必ず事件が起こる」
ニケは「名探偵ですね〜」と笑って荷物を置き、今日はカフェイン有りの珈琲でいいかと確認した。僕は頷いて、キッチンでプロテインを溶かしながらまた言った。
「こんな家政婦は嫌だ――タローが懐きすぎる」
ニケは微笑したまま「タロちゃん」と呼びかけ「あんまり家を空けると忘れられちゃいますよ」と答えた。タローはニケの足元に来て座り、僕らを交互に見ていた。
「嘘々、助かってる」
*
果たして僕が生活から解放されるまで八年を要し、ルツのもとには戻らなかった。彼女はといえば油画を続けて、今や自分の画風を得るに至ったらしい。ともかく作品は売れているようだった。ただ正直なところその売れ筋の芸術性を僕は理解できていなかった。彼女というブランドを身につけたい人々の装飾(シンボル)のように見えた。そうは言うものの僕も気に入ったものをひとつ購入して、メッセージをもらった。
――ひさしぶり、ニュース見てるよ。
――ありがとう、ルツも上手くやってんだね。
――いまどこにいるの?
――日本だよ。山か六本木か
――大久保利通で会わない?
大久保利通というのは青山霊園の墓のことだ。僕らは霊園を散歩するとき、ある時は永井荷風、またある時は渋沢栄一と墓の前で待ち合わせた。大久保利通の墓は、性器崇拝みたいに大きな亀の石像から「贈右大臣正二位大久保公墓」と刻字された墓石が伸びている。ここは高台で草木が高く茂り、そのうえ石碑にもはばまれ、人目に付きにくい。雨降る初夏などはいっそう隔絶されて居心地が良かった。
亀の石像の前に腰かけているとヒールの音が聴こえ、角からルツが現れた。タイトなワンピースに帽子で、大人びて色気を増したように見えた。お互いサングラスを外すと顔の造作の懐かしさに思わず抱きあった。抱きあげた腰の形を覚えていた。ルツがささやいた。
「会いたかった」
「ルツ、会えて嬉しいよ」
僕らは腰を下ろし、あれからの年月を埋めはじめた。ルツは油画を軸としつつも、空間演出やデジタルアートなど幅を広げ、忙しくしていた。僕の方も大まかに何をしていたか話してしまうと、精神的な変化を伝えたくなった。
「改めて人生何をすべきか考えたとき、自分が損得勘定でしか生きていないことに気づいたんだ。金銭的にも感情的にも」
「自由からの逃走」
「そう、この生き方そのものが、ひとつの逃走パターン。安易に支配構造を求めるサディストやマゾヒストと同じような症状なんだと気づいた。自分の外の物差しに頼ってる状態。……それじゃどうすればいいのかというと、定言命法」
「カントね」
「うん。あらゆる人がそれを行って問題ないことをしろと言うのだけど、動機が大事で、理由は問わず常に行えと言ってるんだよ」
「損得勘定なしに」
「その通り。で、この発想って損得勘定で生きているうちはかなり難しいんだよね。損得勘定を止めて、自分の信念を持つ。そしてそれを裏切らない」
「なるほど……カントってパッとしないかと思ってたわ」
「今や人生の師だよ」
僕はルツがどこかへ行かないように手を取った。
「実際、信念が欲しいって思ってたんだ。例えばパラメータ的にいい人が現れたとして、今の人より欠点がなく能力があって一緒にいて楽しい人が現れたとしたら、自分の信念がないと揺らいじゃうから。……今まで持てなかったんだ。ビジネスは仮設検証を繰り返して何が上手くいくかってのを見つけていくもので、その思考の枠で生きてると信念を持ちづらい。信念があると偏見(バイアス)になって意思決定が濁るって感覚を持ってしまう」
「大丈夫、どこにもいかないよ」ルツは笑って言った。
僕は笑って感謝を告げて、ひと息ついた。
「自分の外に幸福はないから、自由から逃走せず、自分の基準や信念を持つ。俺はこの先、人を助けて人間関係を大事にして、充実を感じて生きて死にたい。何かを達成するというのは+α(プラスアルファ)でいい」
「……進んだね。そういうロジックで考えたことなかったけど、わかるわ。私はまだそこまで思い切れないけど」
「俺だって大したことを成したわけじゃないぜ」
「それは嘘よ。でも、あなたのメフィストフェレスはなんて言ってるの?」
――僕のメフィストフェレス?
それは消えてしまったかに見えた。
ルツは僕の手を両手で握っていた。目を見つめると身体の隅々まで記憶がよみがえり、欲望が急速に膨張するのを感じた。しばらく二人で引いては寄せる波を眺めるように甘い空気に浸っていたが、僕は信念の履行を求め、ルツの手の甲にキスをした。
「帰ろう、我らが道徳律にかけて」
*
日本に帰ってからも業界ごと何名かとは連絡を取って、山の家へ招いたりしていた。政治家やグローバル企業の重役なども来日の際には「どうしてる?」と声をかけてくれた。僕は日々の筋力トレーニングを欠かさず、朝夕にタローと散歩した。一日の分を弁えることは壮年の美徳である。
数週間後、招待を受けていたルツの個展の開場式典(オープニングセレモニー)があった。僕はやや迷ったが顔を出すことにした。その会場は表参道のクラブで、樹木香(ウッディ)にヴァニラの混ざった上品な香りが漂っていた。中央の柱から水が流れ落ち、その柱に沿って階段が下に緩くカーブした先には、大きな地下空間が広がっていた。奥のステージからは光線と重低音が響いていた。室内は黒に淡い金色のアクセントで装飾され、仄かに青みのある白い間接光が透明感のある空間を作っていた。そして間隔を空けてルツの絵が飾られていた。それらの絵はガラスと壁板で二重になった壁面の中にかけられ、スポットライトを浴びていた。
ルツは僕を見つけると挨拶(ハグ)して感謝を述べた。甘く華やかな香りがした。束髪(シニヨン)への無造作な毛流れが赤いドレスと映えて優雅だった。
「楽しませてもらうよ」
その周りには僕の知人も数名いた。僕は彼らから売却にかかる祝辞を受け、最近の動向を交わしたりして、各々と簡単に会話してしまうと展示を観に行った。
環境が変わると印象は変わる。作品というより装飾のような存在感に不満を覚えるところもあったが、案外ルツの作品はこういう気分の内に作られているんじゃないかという発見もあった。リズムを感じながら観ていると躍動感が誇張されてくる。こう並べてみるとその時の関心や精神の移ろい、技術や世界観の洗練されてゆく歩みが覗えて、僕らの八年の空白がわずかに色づくように感じた。
僕が買った作品もここに置くことを許可していた。この作品を気に入ったのは詩人のいう〈眩暈(めまい)〉を感じたからであり、そこにルツの目に映った僕の影を感じたからでもあった。複数の生き物らしきものが描かれているが、それが何であるか判別できない。それぞれの生き物は中心を欠落し、重なり合い、それが暴れる馬であるとか、口を開いた魚人であるとか、ホムンクルスであるとか、ひとつの認知を与えない。解釈を完成させない個体たちと複数の解釈を許容する構図に認知のピントを揺さぶられ、鑑賞者は〈眩暈〉を覚える……。
一巡した僕は取り囲まれたルツの肩を叩き耳元でささやいた。
「ルツ、素敵だったよ」
「もう帰っちゃうの、このあとは?」
「俺も負けてらんないなと思って」
「そんなこといって」
僕はルツの優しさを当てにして思いもしないことを言ったが、それ以上に引き留められることなく別れの挨拶をした。あるいはそれも読んだ上でのルツだったかもしれない。
*
その頃、米国に残したガールフレンドからメッセージがきた。
――私たち別れましょう。もう三ヶ月も話してないし、それで平気なんだもの。
――同意するよ。俺は君たちのレールを外れちゃったみたいだ。
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