最終話 冬への扉
①Caro mio ben
なんにでも一応〆というものが必要なのだろう。
まあ、これから先の人生全てを共有するだなんてとんでもないし。
俺だって、そろそろトーマさんを独り占めしたいし。
それじゃあ、いくらでも続いていくありきたりな
楽園での生活の中で、トーマさんはすっかり勘を取り戻したようだ。
この街でも、看板やらポスターやらパッケージやら店に並ぶ商品やら……とにかく、あちこちでトーマさんの絵を見かけるようになってきたほど。
トーマさんの実家の牧場で作った製品にも、トーマさんの絵が使われている。
俺は誇らしく、同時に少し心配でもあった。
まあ、ハッピーエンディングらしく杞憂に終わるのだが。
・
楽園に初めての冬が訪れた頃、あるものが届いた。
差出人はあの山中明弘氏。
美麗な飾り箱と数冊の本が、二組ずつ。
そういえば、送ってくれるという話だったっけ。
トーマさん、ものすごく頑張ってたからな。
凝った装丁のハードカバーを開くと、真っ先に「世界一美しい人の絵」が出てきた。
絵のモデルがトーマさんなだけあって、1頁まるごとと、ものすごく丁寧な扱いだ。
描いたのは俺だけど、俺なりに心血注いで完成させたものだ。
渾身の出来と言ってもいい。完成した時、思わず山中氏とがっしりと握手をした。
額縁の絵はトーマさんが描いたものを使ってくれているそうだ。
ぱらぱらと捲ると、頁番号やタイトル、目次などのあらゆる装飾から表紙、挿絵までトーマさんの絵がふんだんに使われていた。
カバーを剥がすとそこにも別なトーマさんの絵があるほどの凝りようだ。
読み込んでから描くだけあって、初めから物語の世界に存在していたみたいに見えるくらい。その世界が、本を通じて出てこようとしているかのような錯覚に陥る。
さすがだ。
トーマさんに教えると、甚く喜んでいた。
飾り箱の埋まる日が待ち遠しい、そこからがまた新しい道へのスタートなのだ、と。
最近、休日になると近くの街の子たちがトーマさんに絵を教わりに来る。
なんでも、絵画教室をしているトーマさんの旧友が勧めたのだとか。
トーマさんと過ごせる貴重な休日を邪魔されるのは癪だが、当のトーマさんが楽しそうなので良しとする。ただし、その旧友とやらは絶対に許さん。
まあ、平日だろうが休日だろうが俺たちは一緒に楽園にいるんだけども。
愛する人と過ごす時間は、いくらあっても足りないものだ。
◆
②il sole mio
最初は不安だった。
ハルが慣れない土地で暮らしていけるのか、とか。
そんな場所で一生を過ごして大丈夫なのか、とか。
ハルはなんでもできるけど、苦労してないわけじゃない。
僕のためといえば、寝る間も惜しんで努力し続けるひとなんだ。
あのやたらとレパートリーの多い笑顔の下には、果てなき苦労がある。
それでも「大丈夫」だと笑うから、僕は頷くしかないけど。
もうこどもじゃないとは言うけれど、僕にできることといったら甘やかすことくらいで。たまには弱音くらい吐いてほしいものだ。
春になったら、まとめて打ち合わせをするために日本へ行く。
もちろんハルも一緒で、その時はハルの実家に逗留させてもらうことになってる。
これからも、少なくとも1年に1度はそうするつもり。
そうだ、僕の実家で作った物も色々持って行こうか。
いや、実家の方で送っているんだったか。
それなら、食べ物じゃない方がいいだろうなぁ……。
「また何か考え込んでる」
「あ、でも悪いことじゃないから」
ハルは自分だって色々あるだろうに、いつだって僕を優先する。
今みたいに考え事をしてると、また悩んでるんじゃないか、って。
僕も負けじと何かハルにしてあげたくなるんだけど……。
「トーマさんはいいの、生きてるだけで」
だって。
そりゃあ、まあ、心配も迷惑も掛け通したけど……。
なんにもさせてもらえないというのも、逆に甘やかされている気がする。
「そんなに俺を甘やかしたいの?」
「だって、ハルはもっとわがままになっていいのに……」
ハルの顔が近づいてくる。
いつかは慣れるとハルは言ったけど、一向に慣れそうにない。
「俺、既にすっごいわがままだと思うけど」
「……うそだぁ」
「考えてもみてよ、俺はトーマさんをあますとこなくもらったし、これから先の人生だってくっついてるんだよ?」
「それは……」
「これ以上望んだら、神さまに怒られると思うよ?」
そうかなぁ。
でもまあ、これから先の人生で。
少しずつ、同じだけ分け合えたらいいな。
◆
③E lucevan le stelle
山中明弘著「新生・冬への扉」あとがきより抜粋。
――冬から始まった絵は春を通り、いつしか再び冬に辿り着く。
夏の暑さを耐えながら秋の実りを待ち、冬に休息し春に目覚めるのだ。
誰も己の原風景を完全には失えない。
魚は海へ、鳥は空へ帰って行く。
それでも繋ぎ止める大地にて、共に生きることもあるだろう。
少なくとも僕は、そう思いたいのです。
さて、特に加筆もなく「冬への扉」に「新生」を付けたことは、多くの読者の頭を悩ませただろうと思います。編集の方も、思わず以前のものと見比べたとか。
いいえ、本の内容ではなく、それを見る僕の方が変わったのです。
もちろん、絵をつけていただいたとか、そういった変化もありますがね。
そのことを話すにあたって、こうしてあとがきの頁を頂きました。
長い前置きになるでしょうし、知らない人にとっては”より”知らない話です。
僕には、ひとりの親友がいました。
ユキヒロ、と言って、僕とあたまの文字だけ違う子でした。
ですからお互いに、アキちゃん、ユキ坊、って呼び合って。
子どもの足で歩いても2、3分の場所に家がある、いわゆる幼馴染というやつで。
そいつがもう、ものすごく絵の好きな男だったわけです。いつ遊びに行っても、どこに遊びに行っても、必ず絵を描いている。この世にあるすべてのことやものは、優先順位が絵よりずっと下だと、そう言っていたんですね。ええ、僕もでしょう。
でも、どこかに誘えばついてきたし、近くで他の遊びをしていても邪険にはされませんでした。手のかかる幼馴染だと思われていたのかもしれませんね。
僕もまあ、脱サラして作家になろうという変な人間ですから、そいつのことが面白くて仕方なかったわけですよ。どこか達観していて、度々大人を諭すような賢さもあったりして。よく屁理屈を吹っ掛けてつつき回したくなったものです。
ええ、希望です。実際にやったら丸め込まれるのが目に見えてるじゃありませんか?
・
そんな彼、思い出話がまだまだありまして。探偵ユキヒロシリーズがあるんですけど、その主人公も彼がモデルになってるんですね。ああ、宣伝ではないので。
まあ、名前を出した時点で「お?」と思った方もいらっしゃることでしょう。
学校や近所で「あれ、これはおかしいぞ」ということがあると、僕が彼を呼びに行って。彼はいつものように絵を描きながら解決してしまうような人だったんですよ。
・
読者の方がそろそろ気になっていることがあるんじゃないかと思います。
いわゆるアナログだった時代で、「そんなに描いた絵はいったいどこへ行ったの?」って。どうでしょうね。僕が貰ったものは手元にありますし、実家にもいくらかあります。彼の実家には絵を収納する用の部屋もありました。ただ、彼はよく人に絵をプレゼントしてしまっていたので、実は世界中にあるんじゃないか、と信じています。
・
ただ、1枚の絵を、彼は大事に大事にしていたんです。
本書のように人物の絵ではなく、景色の絵。塗り重ねて塗り重ねて、元の色がすっかり隠れてしまっても、それでもまだ、塗り重ねて。もちろん、なぜそうまでも加筆するのかと聞いたことがあります。その時のことを、忘れもしません。
「これは僕の心だから、手放したら僕が死んでしまうから」
そう言ったのです。他人に見せることすら憚っていた大事な絵。
本書をお読みになった方なら、ある程度先のことは知っていらっしゃるでしょう。
心なき人がそれを盗み、絵に優劣をつける催しなどに出してしまったのです。
彼はこの世すべての悲しみを一身に受けてしまったように嘆き、狂った。
とても、本書のようにあんな幸せな結末にはならなかったのです。あれは、僕の望みで、願いで、嘘なんです。そうあってくれたら、よかったのにと。
彼は海へ身投げし、遺体も見つかりませんでした。
読者の中には、「どうしてそんな悲しい話をするんだ」とお怒りになる方もいらっしゃるでしょうね。どうか、お慌てにならないでください。続きがありますので。
本書のみならず、新装版全集のすべての絵を担当してくださっている、風花トーマくん、という方がいらっしゃいます。まだ日も浅く、彼に何があったか知る人もいるでしょう。彼は、僕の親友と同じような目に遭い、同じ運命を辿る寸前でした。
でも彼は、立ち直りました。だから僕も、思ったのでしょう。
ふと、「彼の絵を追ってみようか」などと。
トーマくんを見てたら、なんだってできそうな気がしてきて。
経過は長く、結果はあっけないかもしれません。
なので、本当のあとがきだけ読みたい方は、3頁後から読んでくださいね。
・
結果として、親友そのものが見つかりました。
いっしょに住む家族の話によると、彼は海に身を投げた後、近くを通った海外の商船に拾われたのだそうです。海を越え国を越え、その地の病院で1週間も死んだように眠って、目覚める頃には声を失っていたけれど。それでも、生きていた。
初めこそ思うように生きられないことに取り乱していたけれど、周りの方々に支えられ、いつからかまた絵を描くようになったんですね。
拾ってくれた恩に報いようと働き、その地で家族を作り、人並みの幸福を得て、僕のようにしわしわのおじいさんになってやっと、前のように絵を描けるようになって。
そのうちの1枚が、巡り巡って僕を彼に引き合わせた。
・
でもね、どうしても声をかけられませんでした。
あんなに楽しそうにしてるし、最後に会ったのは五十と数年も前のこと。
日本の言葉だって、どれほど憶えてるかわかりません。
いや、怖かったのかもしれませんね。僕は彼を救えなかったから。
その地を後にする直前まで、僕はそうしてうじうじと彼の家を眺めていた。
もう行かなければフライトの時間に間に合わない。所在が知れただけで幸福だ。
そう自分に言い聞かせて踵を返した瞬間、名前を呼ばれたんです。
「アキちゃん、もう帰るのかい」
あの頃、いつも一緒にいた頃、僕が帰る時間になると言ったことでした。
またすぐに会えるのに、すぐ近くなのに、会ったってお互いに好きなことをしているだけだったのに、彼は惜しむようにいつもそう言ったんです。
僕はずうっと昔に置いてきたはずの涙が溢れて、振り向くこともできなかった。
理由をつけてその場に残ろうとしたけれど、帰らなければいけなかった。
だから、声を振り絞って言ったんです。
「また来るよ、ユキ坊」
彼は「ああ、そうか」と言って、また絵を描くのに戻ります。
途端に、五十数年前の風が吹いてきた気がしました。
そうです。あんなに賢い彼でしたから、僕の来訪にはとっくに気付いていたのです。
僕はその場を去りましたが、帰ってから手紙を書きました。長い長い、手紙を。
書いてるうちにあれもこれもと話したいことが増え、頭を抱えてしまいましたとも。
スケジュールを調整して、しばらく後に再び彼を訪れました。
彼を書いた本をすべて、長い手紙と共に抱えて。
・
僕が恐れていたように、彼も恐れていたそうです。
なにも言わずに、消えてしまったこと、手紙の一通も書かなかったこと。
僕らは大いに語り、泣き、笑いました。
五十数年の空白が埋まっていくのを、確かに感じたのです。
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